第七十九話
眼を開けた時、まず初めに飛び込んで来たのは雄大に広がる草原だった。何処までも続く草原は、やがて空と合わさる地平線の彼方まで続いている。
壮大な景色だが、感慨に浸っている場合では無い。竜也は背後を振り返った。
記憶にある通りの、簡素な丸太を組み合わせただけの外壁に囲まれた町があった。その町の門の両脇を固めている衛兵には見覚えがある。
此処はベータテスト時代、ゲームの世界に降り立った時、最初に出現するポイントだった。
竜也は、右手人差し指を軽く振ってみる。シャラランという軽快な効果音と共に、半透明のメニュー画面が現れた。
メニュー画面が現れた事を、複雑な心境で眺める。此処は、ゲームの世界で確定と考えて良いだろう。
しばらく茫然とメニュー画面を眺めていたが、気を取り直してステータスという項目をタップしてみる。レベルは1だった。体力も精神力も、レベル1だった時の数値に戻っている。もちろんの事、『おっぱい鑑定』などと言うふざけた技能も無かった。
メニュー画面に戻し、右端に並んでいる色々な項目を下段に向かってフリックして行く。最下段には、ちゃんとログアウトボタンがあった。
その上方に、プロフィールというボタンを発見する。ベータテスト時代はログアウトボタン以外を押した事は無かったのだが、現在は状況というものを把握しておかなくてはならない為にも、色々な情報が欲しかった。試しにプロフィールボタンをタップしてみる。
そこで初めて、自分がアルガラン共和国の人間である事を知る。キャラ作成は適当にボタン連打で済ませていたので、そんな事も全く構ってはいなかったのだ。その他にもランクとか色々なものがあるがスルーする。
メニュー画面に戻る。この画面がメインメニューという画面だという事を、上部の補足説明が書かれているウインドウの文章で初めて知る。
次にマップと書かれているボタンを押してみる。近隣の様子と自分の位置が青色の点で表示されていた。
ロベリアが出してくれた3Dマップ程の精密さが無い。どこまで拡大しても、自分の表示は青色の点のままだった。人の動きや顔の表情まで見て取れたロベリアの超高性能なマップからすると、かなり見劣りしていた。
もっとも、あれはローレンスの使い魔であるハヤトと、ロベリアのコラボ技だったからこそ、あそこまで高性能だった可能性が高い。本当は、これが普通なのかもしれなかった。
マップ画面の右上に、リージョン情報というボタンを発見する。意味は分からなかったが、取りあえず押してみる。大陸全体が写し出されているマップが、色分けされて表示された。
大陸を×印で区分けしたように色分けがされていて、北方部が赤色で、東方部が緑色で、南方部が青色で、そして西方部が灰色で表示されていた。
コスタクルタ王国は無かった。既に魔物の軍団に蹂躙されているのだ。その様子を愕然たる思いで見やる。
アルガラン共和国の青色で表示されている領土は、コルネホ山脈を越えてサラスナポスの町の手前まで伸びていた。
ウリシュラ帝国の赤色で表示されている領土も、ミューレ山脈を越えていた。
オセリア連邦の緑色で表示されている領土は、大陸中央部に広がるグリム大森林全体を掌握していた。
どうやらリージョン情報とは、どの国が何処まで領土を拡大しているのかが見られる仕組みらしかった。
ゲームの中でのエレーナは大丈夫なのかという思いが、ふと脳裏を過る。始めから存在していないかも知れないし、魔物の軍団が押し寄せた時に倒されているかも知れない。
竜也は、居ても立ってもいられなくなって、北西に向かって駆け出していた。
とりあえず北西に進めばコルネホ山脈にたどり着く。ロベリアに出してもらっていた高性能な地図でなくても、おおよその位置さえ分かればサラスナポスの町へはたどり着ける。まずは、そこを目指す事にした。
地平線が見える程の草原だ。一体どれだけ走れば、この草原を抜けられるのかも分からなかった。
やがて見えてくる小山ほどもあるスライムに、低レベル者が果敢に剣を振るっている様子が見えて来る。エレーナ達の剣裁きを見て来た竜也には、本当にごっこ遊びのようにしか見えない。
もっとも彼女達にしてみれば、自分も大差は無いように思われていたのだろう。
竜也は、スライムを無視して走り続ける。やがて無数に犇めいていたスライムは居なくなったが、平原はまだ続いていた。
その平原に、またしても小さな突起が出現する。近付いて行くと大きな芋虫だという事が分かった。ジャイアント・キャタピラーだった。
そこで戦闘を繰り広げている者は、先程よりは若干レベルの高そうなプレイヤー達だ。装備も硬革の鎧を着込んでいる者や、小型の円形の盾を持っている者も見受けられた。
ただし戦闘が、とんでもなく下手だった。みんな『芋』に真正面から挑んでいるのだ。さすがに『芋』の牙は、鋼鉄どころか木製の板に鉄で補強しただけの簡素な盾ですら噛み砕いたりはしていない。しかし真正面からぶつかっては、相当なダメージ覚悟だ。倒されて光の粒子となって砕ける者が彼方此方で見受けられた。
ここら辺になって来ると、盾役と攻撃役の前衛、回復役と支援系の後衛をバランスよく配置した五人から八人のパーティーを組んでいる者が多くなってくる。
一般のRPGでよく見かける光景だ。ただし回復魔法をシャワーのように浴びている戦術は見ていて歯痒い程だった。後衛の精神力が尽きて崩壊するパーティーや、敵対心を稼ぎ過ぎて狙われる後衛などお粗末な物だ。
その様子を見ていて、ふと違和感を覚える。回復魔法を掛けてもらった後に、一定時間動けなくなるというペナルティーが無いのだ。ゲームでは当たり前の事かも知れないが、異世界で過ごした自分にとっては、このシステムに妙な感覚を覚えていた。
ジャイアント・キャタピラーもアクティブでは無いので、そのままスルーして走り抜ける。
『芋』エリアを抜けると、遠く霞の掛かった山々が早くも姿を現した。草原は抜けたみたいだったが、目の前には広大に広がる樹海が姿を現していた。
熱帯雨林や湿潤林のような植物構造なのだが、湿度はそんなに感じない。気温もそんなに高くなく、先程の草原と変わらなかった。うっとおしく無くて何よりなのだが、ここからは走って森の中を突き進むという訳にはいきそうも無かった。
徐々に下生えが鬱蒼と生い茂り出し、行く手を阻んでいるからだ。頭上もバナナのような特大の葉で覆われ、早々に山々の様子が見えなくなっていた。
あまりにも視界が悪い。膝の辺りまでシダ植物に似た下生えに覆われていて、その下にどんな魔物が潜んでいるのか見分けられない様になっていた。
頭上も警戒しないといけないポイントだ。二度とアリシアの時のような過ちを犯す訳にはいかないのだ。
シダ植物に似た下生えを掻き分けて、鬱蒼とした森の中を進む。途中、動物系のモンスターに遭遇するが、なんとか迂回してやり過ごす。多分ここら辺の敵は、レベルが高すぎて倒せないだろう。見つかったら終わりだと心に強く言い聞かせる。
アクティブな敵かどうかも分からないので、出来るだけ距離を取るようにして迂回する。その為に樹海に入ってからの進行速度は極端に落ちてしまった。
それでも北西に向かって突き進む。進路は次第に傾斜がきつくなっている。
—— コルネホ山脈の麓に到着したのだろうか?
竜也は、右手人差し指を振ってマップを呼び出す。大陸の概念が、元の世界の物と違うのでは? と疑問を持った事もあったが、やはり全く違うようだった。
現在の時刻は、ゲーム内の時間で十九時。ログインしてから既に十四時間が過ぎていたが、こんな短時間で大陸の四分の一の距離を走破できる訳が無い。
肩で荒い息を吐きながら、茫然と半透明の画面を見やる。マップの左下にはリアル時刻とゲーム内の時間が表示されている。
ゲーム内では、もう夕刻だ。辺りは薄暗くなり始め、なんの準備もしていない竜也にとって、これからの進軍は危険極まりない行為と言えた。
それでも竜也は、突き進む事を躊躇わなかった。死んでも構わないとは思っていなかった。死はエレーナとの絆を切り裂いてしまったのだ。たとえ此処がゲームの世界でも、絶対に死ねないと思っていた。
やがて木々に覆われていた辺りの様子は、次第に岩がむき出しの登山に様変わりする。もう辺りは真っ暗だ。ここから先は断崖と言って良い山道が続く。
徘徊するモンスターの数は此処から極端に数を減らすが、今度は落ちれば即死という崖を登らなければならなかった。一度ならず落ちかけた事があるだけに恐怖心に足がすくむ。
もうロープで繋がれていたロベリアはいない。足を滑らせても、あのおっぱいで受け止めては貰えないのだ。
そう心を戒め、クライミングに近い崖を登って行く。幸いにも夜空に輝く星々と、月の輝きは現実世界のものよりかなり明るかった。その僅かな光源を頼りに突き進んで行く。
運よく尾根にたどり着くまで、敵には遭遇しなかった。既にログインしてから此方の時間で二十三時間が過ぎていた。
ちなみに現実世界では、二時間程度しか経っていない。しかし、どういう訳か本当に丸一日ほどの時間経過を体感していた。
疲れた身体をいたわる様に、ゆっくりとほぐす。大きく息を吐いて、山の頂から薄らと明け始めた夜空を見渡す。
—— あと少し……。この山を下りれば、すぐにサラスナポスの町にたどり着ける。
竜也はマップを確認し、稜線に沿って多少下山コースを修正すると、気合を奮い立たせるために心の中でエレーナの顔を思い浮かべる。
そして急勾配の坂を下り始めた。




