第四十三話
竜也はベッドに寝転び、白い天井に浮かぶ幾何学模様に似たシミをじっと眺めていた。
心は先程の一件で非常に荒れていた。一時限目の授業開始のチャイムはとっくに鳴っているのだが、授業に出る気にはなれなかった。
確か一時限目はグラウンドでの体力向上訓練だった筈だ。こんな事をしていて勇者になれるのかと自問してみる。始めから無理だったような気がしてきた。
敵は十数万の魔物の軍団なのだ。自分ひとりの力で、どうこう出来るとはとても思えない。
竜也はベッドから起き上がると、宿直室を出た。特に目的の無いまま出て来たのだが、目前の図書室のプレートを見上げて入ってみる事にした。ブラッドウッド材の扉の鍵は没収されているので旧世界の書物は読めないが、標準語が全く読めないでは話にならないので、勉強しようと思ったのだ。
本棚の間を適当に通り抜けて、めぼしい本を探す。フラクトゥールのような文字はまったく読めないので、どれが初心者向けの本なのかすら分からなかった。
長々と続く本棚の端まで本の背表紙を見て回った時だった。部屋の端に設けられた閲覧席に人影を見つける。一人は図書委員のジュリアだった。
竜也は反射的に核弾頭を探してしまう。
ジュリアも此方に気付いて会釈をしてくる。もう一人は名前の知らない娘だった。
「ごきげんようタツヤ様。今日はどのようなご用向きです?」
「丁度よかったよ。標準語を覚えたいと思ってるんだけど、なにか良い参考書は無いかと探してたんだ。お勧めの本ってある?」
ジュリアは、しばし思案に耽る。
「ここの書物は全般に、タツヤ様にとって難しい本ばかりしかありません。良かったら旧世界語の事を教えて頂いたお礼に、私達が標準語を教えて差し上げましょうか?」
『私達』と来た。竜也はもう一人の娘に視線を向ける。
「ごきげんようタツヤ様。私はレプリー・ザウバーと申します。以後お見知りおき下さい」
竜也は、まず胸をチェックする。ジュリアと互角くらいはありそうだった。
もうこのサイズが標準と認定する方が早そうだった。このサイズより一つ抜きん出ているのがジェレミーで二つ抜きん出ているのがドリーヌ。三つ抜きん出ているのがロベリアなのだ。
逆に標準サイズより少し小さいのがセシル。その下はもう格段に大きさは落ちて、稀に見る胸の小ささのエレーナなのだ。貧乳好きにはたまらない希少性を備えた残念な胸のヒロイン。
そしてもう一人は、まだ会った事はないがアナベルという娘だそうだ。エレーナにさんざん聞かされて、名前まで覚えてしまった。
ともあれ新規格で標準の胸のサイズのレプリーを見やる。ジュリアの親友らしく控えめの美人だ。うっすらと、そばかすの残る頬がチャームポイントだった。
レプリーは、鞄から何やら参考書らしき物を取り出した。
「私は学校に通えない町の子供達に字を教えているので、幼年学校で習う字の練習帳を持っています。まずはこれを使って下さい」
渡された練習帳を開けてみる。小学校一年生の漢字ドリルのような内容だが、初っ端から意味が分からなかった。
「タツヤ様が居た世界の文字は、五万文字もあるそうですが、私達の使っている文字は初級文字で二十五文字。中級文字で約千文字、上級文字で約千百文字と、合計二千文字少々で全てです。タツヤ様が居た世界の文字のおよそ二十五分の一の量しかありませんので比較的楽に覚えられると思います」
竜也は開いた口が塞がらなかった。もう一度練習帳をパラパラとめくってみて、とこまでが初級で、どこからが中級なのか確認してみる。それすら分からなかった。
音声言語が同じなのに、どうして文字がここまで違うのか疑問に思いながら、半ば真っ白になってしまった頭の中で、ジュリアが旧世界語の総数を聞いて項垂れていた事を思い出していた。
「タツヤ様……。どうかされましたか?」
固まってしまった竜也を心配するように、ジュリアが声を掛けて来た。竜也はフリーズした頭を軽く振り思考を正常に戻す。
ようは平仮名というかアルファベット二十六文字に当たるものが初級文字なのだ。中級文字と上級文字合わせて二千文字が常用漢字に当たるものだと推測する。
とりあえずは二十五文字を覚えてみる事にする。
竜也はレプリーとジュリアに教わりながら、初級文字の学習に取り掛かる。
そしてすぐに気が付いた。初級文字が平仮名の五十音文字というような概念で縛られていないという事に。それなら単語として一つずつ言葉を文字に変えて覚えていこうとしたのだが、一筋縄では行きそうもなかった。
例えば、時計『と』『け』『い』という言葉に対しての文字と、毛糸『け』『い』『と』という言葉に対しての文字がまったく違うのだ。
初級文字でこれなのだ。漢字に当たる文字なのかとも思ったが、毛糸の『毛』と毛皮の『毛』でも違うのだ。
色々な例文を見ていても共通点が見いだせないでいた。
「タツヤ様は、標準語を自分の知っている文字に置き換えて覚えようとしていませんか?
私も最初は旧世界の文字を、自分の知っている文字に変換して覚えようとしましたが、上手く行かなかったのです。頭を真っ新にして、初級の二十五文字を覚えようとして下さい」
ジュリアにアドバイスをもらいながら、昼まで必死に漢字ドリルのような練習帳をこなす。しかし初級の二十五文字すら理解が出来なかった。
「私も旧世界語の初歩を覚える時、解読しているという感覚だったので、タツヤ様の今の気持ちが分かります。焦らす少しずつ覚えていきましょう」
「そうですよ。初日ですんなり覚えられる様なものでもありませんし、昼食を食べて栄養をしっかり取って、頭を切り替える事も重要ですよ」
ジュリアとレプリーの言葉に竜也は、茹る脳味噌を冷ますために休憩しようと閲覧席を立って背伸びをする。
思考が麻痺してしまっている竜也は、何も考えずに二人に付いて食堂に向かっていった。
◇
食堂にはエレーナが居た。脳味噌がショートしかけていた竜也は、今朝の喧嘩の件をすっかり忘れていた。巨大なグラタンまたはドリアと思しき大皿を抱えたエレーナと鉢合わせしてしまい、双方気まずそうに立ち竦む。
ジュリアとレプリーは、二人の様子を怪訝そうに交互に見やる。
「エレーナ……。やっぱりちゃんと話そう」
「話さなくても、思念で双方の考えている事は分かるでしょう」
「そうだけど、声に出してちゃんと話そう」
徒ならぬ雰囲気に、周囲の人々は好奇の視線を寄せてくる。
「声に出さない事なら、何を考えても良いっていうの? 『めんどくさい』なんて考えても言いわけ?」
竜也は、しばし押し黙る。色々な感情が湧いてきて、吹きこぼれそうな鍋蓋のようにコトコトと脳内で踊っている。
「感情が出てくるのは仕方の無い事さ。感情が出てくる事は制御できないからね。自分の意思でどうこう出来ないのは僕のアレと一緒だよ」
重苦しい雰囲気を和らげようと発した下ネタは、周囲の皆からも白い眼で見られる羽目に陥ってしまった。
「とにかく……。エレーナが感情的になってしまった事も仕方が無いと思っているよ。でも、人間は理性で行動する動物なんだ。ちゃんと理性的に話し合いたいよ」
エレーナは俯いて涙をこらえていた。竜也に対して酷い事を言ってしまった自覚はあった。今なら謝ることが出来る。竜也も許してくれそうだ。
俯いていた顔を上げ、謝罪の言葉を発しようとしたその時だった。竜也の顔の真後ろにロベリアの顔を発見する。エレーナは驚愕に眼を見開く。
一、二時限目は体力向上訓練だったのだが、ロベリアは例の如く出席していなかったのだ。もう帰ったものだと思っていたのだが、なんというタイミングの悪さで現れたものか。
エレーナは、恨みがましい視線でロベリアを見やる。
その視線に気付いた竜也は振り返り、エレーナ同様に驚愕の表情を浮かべる。
ロベリアは今朝、宿直室を退出した後は潜伏で竜也の後を付けていたのだ。もはやストーカーの域に達していた。
そして二人が仲直りしそうな雰囲気になってきたので、姿を現したのだった。
そこへ、すかさず割って入った人物がいた。セシルだった。セシルは一時限目の授業開始前にエレーナの様子がおかしかった事から、今朝方のロベリアとのやり取りを聞き出していたのだ。
「ロベリアさん。今朝方、タツヤ殿にプロボースをなさったそうですね? どういうつもりでエレーナとタツヤ殿の間に割って入ろうとしているのですか?」
セシルの剣幕に周りの皆は、エレーナ達を取り囲むように集まりだしながら騒めき立つ。内容が内容だけに半信半疑のようだった。
「勇者育成計画という壮大なプロジェクトも頓挫させてしまって、ロベリアさんのやっている事は支離滅裂ですよ」
ロベリアは黙って聞いていた。確かに全ての計画が無茶苦茶になっている。勇者育成計画然り、タツヤ殿を婿にもらうという計画も、思い描いた通りに事は運ばなかった。
予定では、おっぱいに釣られた竜也を飼い慣らし、新しく考案した勇者育成計画を実行する筈だったのだ。
ロベリアは竜也に視線を向ける。竜也は自分の胸を未練がましく見つめていた。これはまだ完全に敗北した訳では無さそうだった。
「タツヤ殿は、この世界に使い魔として召喚され、僕としての呪縛に囚われているようですね。タツヤ殿の元居た世界の自国では、奴隷や僕などは居なかったと思いますが、タツヤ殿は現在の境遇に満足なされているのですか?」
竜也は複雑な表情で押し黙る。自分が奴隷や僕などとは思ってはいない。身分や格差もあまり意識していないので、エレーナともロベリアとも同じように接している。
「別に不満は無いよ」
良くも悪くも、竜也は怠惰な日本人の典型であった。
ロベリアは眉根を寄せる。まさか僕としての境遇に身を置いて、平然としていられる者が居るとは思えなかったからだ。
「ロベリアさんは、やはり僕と同じ世界から来た人間と関係してるんだね」
「実は私もタツヤ殿の潜在能力を垣間見て、初めてその可能性を疑って古文書を調べたのです。現段階では何とも言えないのですが、その辺を二人きりで話し合いましょう」
エレーナの悲鳴のような思念が背中に突き刺さる。しかし竜也は、どうしてもこの話を聞かずには居られなかった。
固唾を飲んで、このやり取りを傍観していた周りの野次馬達は、食堂から出て行く二人と、その場に頽れるエレーナを交互に見やりながら、いったい何が起こっているのか噂を始めていた。




