02. 黒い湖畔
地上界北東の平原に、白銀色の煌びやかな鎧を身に付けた天軍兵が布陣する。彼等の中心には嘗て戦神の一柱とされていた天帝がいた。今回の討伐対象には神族も含まれる為、常とは異なり彼も参戦しているのだ。加えて、遣って来た部隊の規模も大きかった。
とは言え、大地は敵の領域だ。兵士達は地上を忌避し、空中に雲花で足場を作ってその上に立っている。〈術〉も〈祭具〉も知らない地上人が見たら、さぞ驚くであろう。しかし、平原周辺は〈術〉によって地上人族が認識も接近も出来ない状態となっている。天界の住民は基本的に下々の生死に頓着しないが、彼等に起因する不慮の事故を避ける為の措置であった。
さて、足場の端に立った天帝が険しい目で地上を睨んでいると、後方から兵士が駆け寄り膝を突いた。
「天帝様、今し方水軍が――あっ!」
「火神は自領の混乱によって身動きが取れず、風神は彼女の補助と風界の切り盛りの両立で手一杯、木神は謹慎中且つ怪我が原因で此方も動けず。此度の戦に参加可能なのは確かに私だけであろうが……はは、私は試されているのかな? 誰を支持するかは公言していなかったものな」
報告する兵士の横を通り抜けて天帝の背後に現れたのは、水神リネルダスであった。晴天下の大海が如き彼の青肌は、海獣の鱗を重ねて造られた鎧で覆われている。彼にとっては数百年振りの武装だ。
天帝は徐に振り返った。
「先触れ位は出せ。それこそ二心を疑われるぞ」
水神の接近は事前に神気を感じ取った為、既に知っている。だが、高貴な存在は取り分け形式に縛られるものだ。故に、天帝は水神に苦言を呈した訳である。しかしながら、水神はまた笑った。
「失礼。今回に限っては面倒な手順を踏むより、少しでも早く動いた方が良いと思ったのでな」
「その判断の根拠は?」
「奴等の力量さ。兵器を含む道具類の生産能力、潤沢な資源、突出した人口――この戦、長引けば長引く程に此方が不利となるぞ」
そう言いつつ水神は天帝の隣に並び、雲の端から地面を見下ろした。天帝も再び地面へと視線を戻す。
「先頃の過激な挑発行為を見れば、既に充分な準備を整えている気はするがな。ともあれ、我々が不利となる可能性を予測しながら、お前が此方側に着いた理由は聞いておきたいものだ」
すると、水神は笑顔のまま眉間に皺を寄せて天帝を直視した。
「貴方が参戦しろと言ったんじゃないか」
「言ったが、今回も何時もの如くのらりくらりと躱すだろうと思っていたのだよ。しかも、兵を寄越すだけでなく自ら出向くとは」
「私を陥れるつもりだったのか? 取り敢えずは聞かなかったことにするが……」
短く溜息を吐いた後、水神は話を続ける。
「私の参戦理由、な。複雑な考えはない。奴のこれまでを鑑みて、世の中の為にも今ここで滅ぼしておくべきと判断しただけだ。後は私怨もある」
「『私怨』?」
天帝は怪訝な顔をする。
「天人大戦の折、失政の責任を弟妹に押し付けて自分だけ逃げた」
「ああ……」
大戦初期、天帝は魔神の策に嵌って重傷と回復遅延の〈神術〉を負わされた。その為、一時的に玉座を離れざるを得なくなった訳であるが、代役を請け負った他の正神達が諍いを起こし、戦況を激化させてしまったのだ。当時、天帝は寝台の上で彼等の醜態を逐一聞かされ、散々嘆き呆れたものだった。
水神は悪びれず続ける。
「他にも小規模だが似た様な被害は何度も受けている。奴が支配する世界に、我々が穏やかに過ごせる未来はない。貴方に対しても不満がない訳ではないが、少なくともあの男よりはましだと私は判断した」
「民に目を配れない王で済まないな。最近は特に反省させられる機会が増えたよ」
億劫そうに天帝は言葉を返す。一時真顔になっていた水神は、また下心が透けて見える怪しい微笑を浮かべた。
「弱気だな。裏切りたくなるじゃないか」
「勘弁してくれ」
水神の口から笑声が漏れ、場の空気がやや和やかになった。
「心配せずとも、隅々まで行き届いていないだけで、貴方は貴方なりに下々を気に掛けているとの認識ではあるよ。上を見上げるばかりで下には意識すら向けない誰かさんとは大違いだ」
唐突に、水神はひらりと地上へ降りる。そして片膝を突き、左手を地面へ当てた。
「水は地中にも存在する。どれ、一つ私が奴の巣を覗いてやろう」
水神の神気が彼の掌を介して大地に染み込む。すると、土に含まれた微細な水分が震え、水神の視界を地神の居城まで拡大させた。眷族の動き、表情までもが水神には具に見えた。けれども、彼が地神の背中を捉えた所で相手が振り返り、地面が大きく揺れ動く。同時に、水神の視界は地表へと戻った。
水神は地面から手を放し立ち上がった。
「ふん、相変わらず神経質な男だ」
「内部の様子は確認出来たか?」
相手の大胆な行動に呆れるも咎めず、天帝は水神に尋ねた。
「少しだけな。眷族達は慌てていたよ」
「此方が先手を打てたか」
「恐らく。これを上手く生かせれば良いが」
「ふむ……」
天帝は腕を組み考え込む。
(勝敗に影響を与えそうな要素はもう一つある。オルデリヒドの近くに感じる天人の気配。これは――)
今度は天帝の目が《天》を介し、地界に内包された或る人物を捉えた。
(シャンセ、か)
好悪の混ざった複雑な感覚が、天帝の内側を弱々しく掻き毟った。
◇◇◇
一方、冥界の湖の畔では対立していた者達が一時休戦を決め、次の行動に移っていた。アイシアと死神は話し込み、腐神は元の作業に戻っている。
「『渾侍』?」
訝し気にアイシアが尋ねると、死神は数十もある小さな髑髏で飾られた冠を傾けて頷く。
「侍神制度については其方も知っているな? 成立時はまだ存命であっただろう」
「勿論です。しかし、当時渾神は体制側ではありませんでした。その渾神が我々の法に従っているということは、私の死後、政治的な転換があったのですね。天帝様は御無事ですか?」
「残念ながらな。加えて、政変が起こった訳でもない。渾神の立場も相変わらずだ。ただ、奴の心情には変化があったのやもしれぬ。渾神は侍神制度を真似てこの娘を『渾侍』と呼び、側に置いた。そこだけ見れば、また何かの罠であろうとも考えられるのだが……」
「罠とは断定させない根拠があるのですね」
死神は「うむ」と応じ、話を続ける。
「近年の渾神は〈神術〉の使用を躊躇わぬのだ。嘗ては他者には理解不能な美学に固執し、方便と謀略のみで他者を惑わせていたのにな。其処な娘も渾神の〈神術〉に害された犠牲者の一人だ。奴は娘の魂体に〈神術〉の起点となる仕掛けを埋め込み、資質なき心身を侍神のそれへと変質させた。仕掛けは長い年月を掛けて魂体と複雑に融合している。分離は不可能ではないが、時間を要するに違いない。しかもだ。今現在、奴は肉体と魂体の繋がりを利用して、生者の世界にありながら冥界に対する干渉を行っている。その所為で、娘は正しく死へ到達出来ずにいる」
「不死になった」
「いいや、生者の理屈では娘は既に死んでいると言えよう。けれども、冥界の理屈では完全に死したとは言い難い」
そこで一度、死神は言葉を詰らせた。だが、やがて意を決した様子で口を開いた。
「アイシアよ、これより先を伝えるには、其方自身の覚悟と誠意の提示が必要だ。何を知っても決して死から逃げない、という確約なくば私は全てを語れぬ」
樹洞如き眼窩に赤い炎が灯る。死神の内面に特別な変化があった時に発生する現象だ。アイシアはその炎を真っ直ぐに見返した。
「誓います。私は復活を望みません。天人の肉体を失っても、私は天帝ポルトリテシモの下僕。主神が死をお命じになった以上、他の道は選択肢にすら挙がらないでしょう」
沈黙が落ちる。一般的な死者と比べるとやや異質な思想と熱量をどう思ったのか、死神は細く長い溜息を吐いた。
「どうやら其方は模範的な人族の様だ。ならば、真実を告げても差し支えあるまい。天帝の従僕よ、あらゆる《顕現》は《元素》より生まれて来るものだ。しかし、これは無為に起こる現象ではない。《元素》は自らを育てる為に《顕現》を生み出すのだ」
思いも寄らない返答だった。アイシアはつい「『育てる』?」と鸚鵡返しに呟く。死神は首肯した。
「然り。知力を持たぬ事象はそれを持つ存在の環境となり、片や知力を有する者は例外なく魂を宿し、環境や他者に育まれている。こうして十分な成長を遂げた魂は後に冥界へ行き、彼を動かしていた『動力』と生前獲得した『情報』に切り分けられる。続いて、動力の大部分は命界に移され、他者の動力と混ざり合って《元素》から送られて来る新たな《顕現》の中に送り込まれる。一方で情報は《元素》世界へ渡り、今度は彼の地を育む養分となる。これが世界の仕組みだ。そして、魂体の死後の旅路を護ることこそが冥界の住人に課せられた真の使命であるのだ」
「冥界に斯様な秘密があったとは……」
「語弊があるな。改めて言うが、これは全ての《顕現》世界に通ずる話だ。例えば《命》と《実》は受容体たる《顕現》を形成し維持する為の機構であるし、《力》は《顕現》の働きに必要な活力や運動力、《幻》と《智》は《顕現》に方向性を与える役を担う。ああ、この表現の仕方だと《冥》は『仕事を終えた《顕現》を収集した情報と共に回収する装置』になるのかな。ともあれ、これらの営みが外的要因によって停滞しないよう、全体を不可視化して保護するのが、六《元素》の母でもある《闇》の意義だ。彼の《元素》は『視認出来ない』という要素も含むであろう?」
「ええ」
戸惑いが表れた簡素な返事を吐きつつも、アイシアは言及のなかった《光》側の《元素》について考察する。それらも類似する仕事を持っているに違いない。恐らくは各《顕現》を差別化する役割だ。様々な特色を持つ《顕現》同士を混合したり衝突させたりして、成果物の品質や質量を高めているのだ。
アイシアが思考している間に、死神は余談として「死者より収集した動力の一部が冥界の運営に転用されている」ことも語った。遥か昔、冥界の王たる冥神ザクラメフィが屡々口癖の様に「死者は冥界の資源」と言っていたのをアイシアは思い出す。彼女は俄かに頭痛を覚え、蟀谷を押さえた。
既知の情報との差異は膨大で、頭は無理に整合性を取ろうとして疲弊する。人形の如く整った顔が僅かに歪んだ。
暫くして、アイシアは知識の整理を完了させた。同時に、眼前の相手が本来は敵であるのを思い出し、疑いの眼差しを送った。
「死神様のお話では、まるで《元素》と《顕現》は独立した存在である様に聞こえますね。私の生前には『《顕現》は別の世界に写り込んだ《元素》の影』とする説が主流でしたが、研究が進み、偽りと判明したのでしょうか?」
「概要はお前も良く知る解釈で正しい。先程の説明は細部の話だ」
「《顕現》の価値と存在意義は《元素》に使役されること唯一点のみと仰る?」
「極論だが、そう主張する者もいる。当然、私は異を唱えるがな。《元素》が獲得した利益は何れ《顕現》に還元される。よって、今の時代に於いては《顕現》の為に《元素》が存在するとも言える。過程で《元素》世界を挟むのは、素材の再利用と洗練に必要だからだ」
「優位性は何方にもないとお考えなのですね」
アイシアは少しばかり緊張を緩める。だが、表情は暗いままだ。彼女は利き手で口元を覆った。
「《元素》世界」「《元素》の海」「《元素》の総体」――呼称や定義は微妙に異なるものの、それらは皆《塊》と同一存在だ。そして《塊》とは《渾》の全盛期の姿でもある。
(もしかして渾神が他者を試したがるのは、《元素》と《顕現》の関係性が影響しているのか? 他者の成長が最終的に自身の利益に繋がるから?)
だとしたら、見苦しいにも程がある。そもそも《塊》が下位互換たる《渾》に変わってしまったのは、己が身を削って他の《元素》を生み出し続けたのが原因だ。その失敗を自省し改めることもなく、損失を埋めて儲けまで得んと目論むとは。
アイシアの脳裏で渾神と羽化不全で殻から這い出た蝶の姿が重なった。
「冥界の外では、この地は『死者の魂が裁きを受け、やがて眠りに就く場所』と伝えられていますが、あれは偽りなのですね?」
口を衝いて出たのは、本筋とは関係のない疑問だ。彼女は未だ冥界の神々を疑っていた。相手の心情を読み取って不安になったのか、腐神がちらりとアイシア達へ視線を送った。
「そうだ。末路に己が消えると知れば、殆どの者が抵抗するであろう。それは遣り難い。辛くとも、世界の一員として受け入れて貰わねば。よって、生者達には真実とは異なる情報を発信している」
「そのお話、私が伺っても宜しかったのですか?」
「其方は逃げぬのだろう?」
揶揄の混じった声で死神が尋ねると、アイシアは迷わず「ええ」と答える。死神は思わず苦笑した。
「状況は大体理解致しました。ところで、渾侍についてはどの段階で行き詰まっているのか、お伺いしても?」
湖中に眠る少女アミュへと向き直りながら、アイシアは尋ねた。死神も同じくアミュを見る。
「分解の段階だ。渾神の〈神術〉が渾侍の形状を固定し、他の状態に変ずることを許さぬのだ。しかもこの娘、分解されないまま生者と死者の世界を何度も往復しているらしい。生者の一部が妄信する『転生』を実際に経験している訳だ」
「現在は天歴で何年ですか?」
「天歴五〇一三年。其方が死んでから凡そ千年後だ」
つまり、渾神が永獄を出てから約二千年が経過した計算になる。長命の種にとっても非常に長い年月だ。
投獄前、高位神である渾神の周囲には常に他者の目があった。尚且つ、今回の犯行に関係しそうな話はその期間には出ていない。ならば、渾神の計画は脱獄後に始まった可能性が高い――と、アイシアは曖昧な根拠を用いて正確な推察を行った。
続けて、彼女は尋ねる。
「分解に掛かる本来の時間は?」
「其処な湖に沈めれば数拍の間に終わる」
それを聞いて、アイシアは僅かに瞠目した。
「お待ちを。では、私は? 何故、未だに形を保っているのです?」
「其方の場合も恐らくは〈神術〉が原因と考えている。が、対応に動こうとした所で理神が介入した。まだ動くな、と。故に、他の者に影響を与えぬよう冥界の奥深くに封じていたのだが……其方、どうやって目覚めた?」
アイシアは俯く。
「分かりません。ただ、目覚めた時に渾神の気配を感じました」
但し、これは誤解だ。今から思えば、あの時アイシアが感じたのは渾神そのものではなく、アミュを介して溢れ出た《渾》の息吹だったのだろう。死神も事情を察してこう返す。
「宿敵の気配が其方の意識を刺激したのやも知れぬな。理神の介入の理由は此度の為か。渾侍の件に対応させようと……。全くもって気の長い話だ」
「死して尚、渾神と対峙する羽目に陥るとは思ってもみませんでした」
「確かに。理神も人使いが荒い。しかし、流石に今度で最後となろうよ。アイシア、何か策はあるか?」
一拍置いて、アイシアは答える。
「即座に思い付くのは〈大祭剣〉でしょうか」
「まあ、やはりそれ以外はあるまいな。天界秘蔵の〈祭具〉を此方側に持って来るのは骨が折れるが……。因みに増産は可能か?」
「不可能ではないのでしょうが、使用素材には《光》側世界側でしか手に入らない物や彼方の神々から譲渡された品も含まれております。時間と手間は相応に掛かるかと」
「であれば、何方の手段を選ぶにせよ冥神様から理神へ口添え頂かねばなるまい。彼方に貸しを作ることになるのは懸念点だが」
「〈大祭剣〉を用いるならば、他に方法はないと私は愚考致します」
死神は「ふむ」と前置きし、腐神を見た。
「ではオデュレッタ、手配を頼む。分解作業は私が代わろう。ついでに少し休んで来ると良い」
「その前に私からもアイシア・カンディアーナに質問があります」
腐神は櫂の先端を動かさないまま振り向く。
「アイシア、貴女の分解を阻害する要因に心当たりはありますか? 分析の結果、渾神が無関係であるのは判明しています。なので、他の目星を」
アイシアは暫し黙り込んだ末に「あります」と答えた。
「死後の仕組みについては余り詳しくないので、これが正解であるとは保証致しかねますが、私は過去、怪我の治療の過程で魂体と肉体双方の半分近くを切除しております。また、欠損箇所を命神様より下賜された品で充填したとも手術後に聞かされました。もしかしたら、その充填物が邪魔をしているのかもしれません」
「成程、有り得ない話ではないですね。手術の件は聞いていましたが、詳細までは把握しておりませんでした。命界の方々も、貴女が此方へ渡った際に教えて下されば良かったのに」
愚痴へと発展しそうな腐神を制止する様に、死神は彼女に告げる。
「では、先に命界への使いを頼めるか? 理界行きは後程。否、何方かは他の者に頼むべきだな」
「いいえ、両方共私が務めます。此方の仕事にそう何人も人員を割く訳には参りませんから」
腐神は勤勉だ。死神は少しばかり悩んだが、結局は相手の意向を受けれて「そうか。では、宜しく頼んだぞ」と言った。すると、腐神は微笑んで「はい、行って参ります」と返し、持っていた櫂を死神に差し出した。




