第9話 潜入者の足音
大夜会の四日前。アンバーク邸の廊下には、夕暮れとともに冷たい霧が流れ込んでいた。
私は自室の化粧台の前で、わざとすすり泣くような真似をしながら、毛糸のショールを編むふりをしていた。
足元のドレッサーの引き出し、鏡台の裏、ベッドの天蓋。部屋中のガラスや鏡が、「真実の反射鏡」と共鳴して微かな索敵網を広げている。
カチャリ、と廊下の突き当たりで極めて微かな金属音がした。
(……来たわね)
エプロンのポケットの中で、手鏡がトクンと脈打つ。
鏡面を通じて私の視界に流れ込んできたのは、屋敷の勝手口から音もなく忍び込んできた黒い外套の男の姿だった。
アルフレッドの息がかかった下男。
男は周囲を油断なく見回しながら、私の部屋の前まで辿り着くと、合鍵を差し込んで音もなくドアを開けた。
「……お嬢様、まだ起きていらっしゃるのですか」
男はわざとらしく驚いた顔を作った。手には、交換用のシーツの束。
「え、ええ……少し、夜会の準備で落ち着かなくて……」
私は怯えたように肩をすくめ、ショールを握りしめて立ち上がった。
「あ、あの、何かご用かしら?」
「奥様から、夜会用の新しいリネンをお届けするようにと」
「あ、ありがとう……そこに置いておいてちょうだい」
私が視線を伏せて震えるふりをする間に、男はシーツをベッドに置く動作に紛れ込ませ、化粧台の飾り棚の奥——埃を被った香水瓶の陰へと、器用に指先を滑り込ませた。
カチ。
小さな青いガラス瓶が、香水瓶の裏の隙間に忍ばされた。
アルフレッドが温室でエリスに見せていた、あの「遅効性の毒薬」だ。
男は満足げに口元を歪め、恭しく一礼した。
「では、お休みなさいませ、クララお嬢様」
「ええ……お休みなさい……」
扉が閉まり、男の足音が遠ざかっていく。
私はすっと背筋を伸ばし、顔から怯えの色を完全に消し去った。
「ご苦労様。完璧な証拠をありがとう」
化粧台の鏡がクィンと澄んだ音を立て、男が毒瓶を仕込む瞬間の一連の動作を、指紋の位置に至るまで鮮明な映像として記録した。




