おかえりなさい
怜奈さんに告白した次の日。
私はいつも通り、怜奈さんの腕の中で目を覚ました。抱き枕みたいに抱え込まれた状態も今ではすっかり慣れたものだ。けれど今日は少しだけ違った。胸の奥からじんわりと幸福感が込み上げてくる。
「……」
少しだけ顔を上げれば、すぐ近くに怜奈さんの寝顔があった。昨日までも何度も見てきたはずなのに、不思議と目を離せない。
ふと視線が唇へ向く。
昨日のことを思い出したからだ。
普通のキスがどういうものかは分からない。
けれど、サキュバスが行うキスは魔力供給を伴うやり方だ。今まで私は怜奈さんから何度も魔力を貰ってきた。だから、その魔力には慣れているはずだったのに昨日は特別だった。
同じはずなのに、いつもよりずっと甘く感じたのだ。半サキュバスとして成長したからなのか。それとも別の理由があるのか。
正直、よく分からないけど、ただ一つだけ確かなことがある。昨日の私は怜奈さんから目を離せなかった。そして今も――たぶん同じ。
昨日までは何とも思わなかったはずなのに、恋人になった途端、意識してしまう。
昨夜のことを思い出しながら私は、気付けば、かなり長い時間見ていたらしい。
「……彩音」
不意に声が降ってきた。
「ひゃぁ!?」
怜奈さんはいつの間にか目を開けていた。
完全に見られていた。
「お、おはようございます!」
「おはよう」
それから、じっと私を見る。逃げたい。
でも抱きしめられているので逃げられない。
そんな私を見ながら怜奈さんは静かに言う。
「そんなに見て——キスでもしたいの?」
「ふぁっ!?」
変な声が出た。
心臓が一気に跳ね上がる。
「ち、違っ――いや、違わないというか、その! 艶があって綺麗だなーなんてぇ」
何を言っているんだ私は。自分でも分からない。顔が熱い。絶対に赤くなっている。
「昨日のこと思い出してただけで、やましいことは考えていません。はい!」
「……そう」
「本当です!」
怜奈さんは相変わらず無表情だ。でもほんの少しだけ口元が緩んでいる気がする。
からかわれている? からかわれてるな。
「怜奈さん!」
「なに?」
「楽しんでますよね!?」
「少しね」
即答だった。私は思わず枕に顔を埋めた。
そんな私を見ながら怜奈さんは小さく笑う。
「あぁ、でも――恋人になったからには私は我慢する気はないからね。彩音」
「ひゃぁ! れ、怜奈さん?」
怜奈さんが私の尻尾を撫でると、背筋が一瞬で震えた。尻尾の付け根から先端まで、熱い電流みたいなものが駆け巡る。半サキュバス化してからというもの、尻尾は本当に敏感になりすぎた。
「れ、怜奈さん……朝からそれ、やめてください……っ」
声が上ずってしまう。怜奈さんは無表情のまま、でも目が優しく細められている。
その視線は熱を帯びているように見えた。
私はもう枕に顔を埋めたまま、尻尾だけびくびく震わせて耐えるしかない。心臓がうるさすぎて、怜奈さんに聞こえてるんじゃないかと思うくらいだ。
そんな時だった。
コンコンとノックと共に扉が開いた。
「失礼いたします。お嬢様方、朝食の準備が整い……あらあら、お邪魔でしたかね?」
メイドさんが扉の前で固まる。私も固まる。
何故か、怜奈さんだけが平然としていた。
数秒の沈黙。
「ち、違います!」
真っ先に叫んだのは私だった。
「違うの?」
「違います!」
「そうかしら」
「そうです!」
私が必死に否定する横で、メイドさんは何故か納得したように頷いていた。
「若いって良いですねぇ」
「だから違いますって!」
「皆様、既に食堂に集まっていますので、本当に何もないのなら来てくださいね」
「何もないです! 今すぐ行きます!」
勢いよく起き上がろうとして、私はシーツに足を引っ掛けた。べしゃりと見事にベッドから転ぶように地面に落ちた。
「彩音」
「み、見ないでください!」
恥ずかしさのあまり叫ぶ私に対し、メイドさんは優雅に一礼した。
「仲がよろしいようで何よりです」
「話を聞いてください!」
しかし私の叫びも虚しく、メイドさんは微笑みながら部屋を出ていった。
「……たぶん、お母様達にも伝わるわね」
怜奈さんがぽつりと言った。私は地面に顔を埋めながら、言い訳を考え始めていた。
* * *
食堂へ向かう途中。私は怜奈さんの少し後ろを歩きながら、必死に心を落ち着けていた。
大丈夫。落ち着け。何も悪いことはしていない。恋人になっただけだ。恋人になって身体を寄せ合って眠っていただけなのだ。
「彩音、顔が赤い」
前を歩いていた怜奈さんが言った。
「まだ言いますか!?」
「事実だから」
ひどい。私が抗議の視線を向けても、怜奈さんはどこ吹く風だった。そんなやり取りをしているうちに食堂へ到着する。
扉を開いた瞬間。
「おはようございます」
「おはよう」
先に来ていた菜月がこちらを見た。その隣には怜奈さんのお母さん。飛鳥さんはパンを口に咥えたまま私達に手を振り、そして新聞を広げて、コーヒーを嗜むお父さんもいる。
「彩音ちゃん」
お母さんがにこにこと笑う。
なんだか嫌な予感がする。
「は、はい。なんでしょうか」
「朝は楽しかった?」
「はっ——メイドさん!?」
思わず叫んだ。部屋の片隅で命令を待つように立っていた朝のメイドさんが、笑いを堪えるように下を向いた。既に密告されていて、全員に話が行き渡っているのか!?
「何の話だ?」
お父さんが首を傾げる。
「あなたは知らなくていいの」
「そうか?」
「そうです」
お母さんと私の意見が完全に一致した。どうやら一番バレたらヤバそうなお父さんにはバレてはいないようだ。冷や汗を流す私に対して菜月は味噌汁を飲みながら口を開く。
「お姉ちゃん」
「な、なに?」
「耳、めっちゃ赤いよ」
「うぐっ」
逃げ場がない。私は席に着くなりテーブルに突っ伏した。すぐ隣を見れば飛鳥さんが怜奈さんに揶揄うように絡んでいる。
「我が妹ながら、手を出すのが早いわね〜」
「そうかしら」
「そうよ。昨日の今日でしょ」
「むしろ遅かったと思うのだけれど」
「怜奈さん!?」
私が思わず叫ぶと、食堂に笑いが広がった。
飛鳥さんは肩を震わせているし、菜月は汁物を飲みながら完全に呆れた目をしている。
もう駄目だ。この家には味方がいない。
そう思った時、ふわふわした声が響いた。
「はいはい。その辺りにしておきなさい」
お母さんが苦笑しながら手を叩く。
すると不思議なもので、それだけで食卓の空気が少し落ち着いていく。
「せっかくの朝食なんだから、彩音ちゃんをいじめ過ぎないの」
「私は事実しか言ってないわ」
「それが一番困るのよ」
お母さんの言葉に飛鳥さんが吹き出した。
私だけが泣きそうであった。そんな私を見て、お母さんは少しだけ表情を和らげた。
そして何か思い出したように視線を上げる。
「そういえば、彩音ちゃん。菜月ちゃん」
その声音はさっきまでとは少し違っていた。
「昨日は騒がしくて渡しそびれてしまったのだけれど」
そう言ってメイドさんへ視線を向ける。すぐに白い封筒が二つ、私たちの前に置かれた。
「……これは?」
「あなたたちの新しい身分証よ」
一瞬、意味が分からなかった。けれど封筒を開けて、中に入っていたカードを見た瞬間、息が止まる。そこには見慣れた名前があった——けれど、名字だけが違っていた。
氷室彩音。
氷室菜月。
「昨日の発表に合わせられるように、少し前から準備を進めていたのよ」
お母さんの声が優しく響く。
「本当は昨日渡すつもりだったのだけれど、あなたたちがあまりにも忙しそうだったから」
「……」
言葉が出なかった。名字が変わった。ただそれだけのはずなのに、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。昨日、皆の前で家族だと言われた。
そして今、それが形になって私の手の中にある。
「今日から改めてよろしくね。彩音ちゃん」
お母さんが微笑む。
「おかえりなさい」
その言葉を聞いた瞬間、視界が少し滲んだ。
隣を見ると菜月も封筒を握りしめたまま俯いていた。表情は見えない。けれど、小さく震える肩を見れば何を感じているのかは分かる。
「……ただいま、です」
私がそう呟くと菜月も少し遅れて口を開く。
「ただいま」
その声は小さかった。けれど、食堂にいる全員には確かに届いていた。お母さんは優しく微笑み、飛鳥さんはどこか嬉しそうに目を細め、怜奈さんですら笑顔を浮かべていた。
しんみりとした雰囲気のなかで突然、お父さんが勢いよく立ち上がる。全員の視線が集まった。
「うんうん。今日は記念日だな!」
嫌な予感がした。
「祝いとして庭でバーベキューをやるぞ!」
言い切った。食堂に漂っていた感動的な空気が一瞬で吹き飛ぶ。
「朝ですよ!?」
思わず突っ込む。
「問題ない!」
すると、お父さんの足元から黒い影が飛び出した。「わぅ!」と元気よく鳴いたのは、いつの間にかお父さんの足元に潜っていたクロだった。尻尾をぶんぶん振りながら、お父さんの周りを回っている。
「おお、クロも賛成か!」
「わぅ!」
「よし! 肉だな!」
「わぅん!!」
完全に意気投合していた。
「……」
さっきまでの感動を返してほしい。そう思ったのに不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、少しだけ笑ってしまう。騒がしくて。賑やかで。たぶん、これからも振り回される。
それでも——胸の奥に広がるその温かさが、
どこか心地良かった。
私は新しい身分証をそっと握りしめる。
氷室彩音。
まだ少しだけ慣れない名前。
けれど――気付けば笑みが零れていた。
久しぶりに、家族の中にいるのだと思えた。
これが、私たちの新しい家族なのだろう。




