好きだと気付いた日
倒れた四人の襲撃者を前に、私は落ち着かないまま、その場をぐるぐる歩いていた。その後ろをクロもついて来ている。私が立ち止まればクロも止まり、歩けばクロも歩く。
「クロ……」
声を掛けるとクロは不安そうに耳を伏せた。
「わふ……」
どうやら心配なのは私だけじゃないらしい。菜月も。怜奈さんも。クロにとっては、もう大切な家族なのだから。一方で、飛鳥さんはそんな私たちを見ながら、なぜか缶コーヒーを飲んでいた。
「なんでそんなに落ち着いてるんですか」
「現場保存と協会の応援待ち。今の私たちに出来ることはそれだけだからね」
飛鳥さんは倒れている襲撃者たちへ視線を向ける。黒いフルフェイスマスク。所属不明の装備。そして、全員がかなりの実力者。
近づいて調べたい気持ちはある。
けれど、飛鳥さんに止められていた。
証拠になるかもしれないから、触らない方がいいらしい……配信端末はまだ生きている。
壊れかけた本体の端で、赤い配信ランプだけが点いているが、画面は割れていてコメント欄は見えなくなってしまっている。
スマホの方は完全に壊れてしまっていた。
たぶん、最初に襲われた時の衝撃でやられたのだと思う。
「連絡も取れないし……」
「だからこそ待つしかないのよ」
「いや、でも! 菜月と怜奈さんが心配で!」
私が思わず声を上げると、飛鳥さんは缶コーヒーを揺らしながら肩を竦めた。
「大丈夫。大丈夫」
「何を根拠にそんな……」
「怜奈がいるでしょ?」
「いますけど……」
「なら平気よ」
即答だった。本当に一切迷いがなく言った。
「怜奈って世間的にはBランク探索者とか言われてるけど、あれ更新してないだけだから」
「更新してない?」
「そう。本人が面倒くさがってるのと、家の仕事が忙しいのと、あと目立つのが嫌いなのとで、ずっとそのまま」
飛鳥さんは、どこか呆れたように笑う。
「でも実力だけなら、ほぼSランクよ」
「……えっ」
思わず変な声が出た。
「ほぼ、Sランク?」
「ええ。特に氷属性の魔法に関しては、国内ならトップクラスじゃないかしら」
「そんなに!?」
「そんなに」
飛鳥さんは当然みたいに頷いた。
「だから心配するとしたら、怜奈たちじゃなくて襲った連中の方ね」
「……襲った側を心配するんですか?」
「凍らされてなければいいけど」
冗談みたいな声色なのに、なぜか冗談に聞こえなかった。
「……前例あるんですか?」
「あるわよ。何人か凍死しかけた」
「怖っ!」
「大丈夫。怜奈はちゃんと手加減できる子だから」
「凍死しかけてる時点で手加減できてます!?」
「できてるわよ。死んでないもの」
基準が怖い。
氷室家はやっぱり感覚がおかしいのかもしれない。飛鳥さんは缶コーヒーを一口飲んで、倒れている襲撃者たちを見る。
「まあ、今回は菜月ちゃんがいるし、本気で危ないことにはしないと思うけど」
「それならいいですけど……」
「ただし、菜月ちゃんを狙われたら少し怪しいわね」
「怪しいって何がですか」
「そりゃぁ、手加減しかないじゃん」
「やっぱり心配なんですけど!?」
私は大きな声でツッコミを入れると、落ち着かないまま周りを歩き始める。
その時だった——ぴくり、と角が震えた。
私は思わず足を止める。頭の奥で何かが引っ掛かったような感覚。違和感。それは痛みではない……けれど無視できない何かだった。
「……え?」
反射的に角へ触れた。熱い。実際に熱を持っているわけではない。それなのに角飾りからじんわり熱が広がってくるような気がした。
胸がざわつき、落ち着かない。
さっきまで感じていた不安とは少し違う。
「怜奈さん……」
自然と名前が零れる。頭の中に浮かぶのは怜奈さんの顔だった。冷たい手。静かな声。不器用な優しさ。そして、角飾りへ込められた魔力。私は何度もその魔力に触れている。
抱きしめられた時。
手を握られた時。
隣で眠った時。
だから分かる。
今、揺れたのは怜奈さんの魔力だ。
それも普段とは比べ物にならないほど強く。まるで大量の魔力を一気に放出したような。
「彩音ちゃん?」
「怜奈さん、戦ってる……」
自分でも驚くくらい自然に口に出ていた。
飛鳥さんが少しだけ目を細める。
「どうしてそう思うの?」
そう聞かれても説明できなかった。頭の片隅に飛鳥さんの声が聞こえるが、私の頭には
「行かなきゃ」という言葉で埋まっていた。
そう思った瞬間には、身体が動いていた。
じっと待ってなんていられなかった。菜月と怜奈さん、二人が危ないかもしれないのに待機するなんて選択肢は私にはなかった。
一歩踏み出した私の腕を、飛鳥さんが掴む。
「ちょっと、待ちなさい」
普段より少しだけ強い声に私は振り返る。
振り返ってしまった。焦りと不安でいっぱいになったまま。飛鳥さんと目が合う。
瞬間——なぜか飛鳥さんの言葉が止まる。
その表情を見た瞬間、私は思い出したように反射的に腕を振り払った。今はそんなことをしている場合じゃない。怜奈さんの魔力が揺れている。
菜月もいる。早く行かなきゃ。早く。早く。
胸の奥が熱くて心臓がうるさい。角飾りから流れ込む魔力が、まるで道を示しているみたいだった。私は地面を蹴った。
その瞬間——身体が軽くなる。
ふわり、と。一歩踏み出したはずなのに、足が地面につかない。景色が一気に遠ざかる。
「え?」
自分でも何が起きたのか分からなかった。
ただ、次の瞬間には何十メートルも先へ移動していた。クロは私に追いつけなくて吠え、
後ろで飛鳥さんが何か叫んでいる。
けれど聞こえない。
聞こえても止まれない。
怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。
頭の中がそれだけで埋め尽くされる。
背中の奥が熱くて、腰の辺りがむず痒い。
けれど気にしている余裕なんてなかった。
私はただ、怜奈さんの魔力を追いかける。
まるで引き寄せられるみたいに。
* * *
外へ飛び出した瞬間、視界が一気に開けた。
ダンジョン周辺の広場。道路。並ぶビル群。
普段なら気になったかもしれない景色を私は高い場所から見下ろしている。でも今はそんなことを見ている余裕なんてない。
飛鳥さんは大丈夫だと言っていた。怜奈さんは強くて、氷属性なら国内でもトップクラスのほぼSランクの探索者だと。
頭では分かっているが、不安だった。菜月がいる——だから余計にだ。もし巻き込まれていたら、もし怪我をしていたら、もし——。
そこまで考えて私は首を振った。
考えるな。今は確認する方が先だ。
角飾りへ意識を向ける。怜奈さんから貰った魔力。そこから伝わる感覚を頼りに、私は身体を前へ飛び出し地面を蹴る。
そのはずだった。
けれど次の瞬間には足の裏から地面の感触が消えていた。風が身体を打ち、景色が流れる——いや流れるなんてものじゃない。
飛んでいた。
道路の上を、建物の間を、信号機の上をだ。
自分でも意味が分からなかった。
どうして飛んでいるのか分からないけれど、それでも止まろうとは思わなかった。
怜奈さんの魔力が分かる。
まるで見えない糸で繋がっているみたいに。
その感覚だけを頼りに進む。
誰かが叫ぶ声が一瞬聞こえて、フラッシュを焚くカメラの音も聞こえる。スマホを向けている人も視界の端にチラチラと見えた。
でもどうでもよかった。
会いたい——その一心で私は飛び続ける。
そして。交差点へ差しかかった瞬間だった。
信号待ちで止まっている車列。その中に見覚えのある黒いSUVを見つける。氷室家の車。
「見つけた……」
そう思った瞬間には身体が動いていた。私は車列の上を飛び越える。風を巻き込みながら一気に高度を落とした。突然のことに下を走っていた車がブレーキを踏む。タイヤがアスファルトを擦る音。車のクラクションが、けたたましく鳴り、誰かの悲鳴が上がった。
全部が聞こえた——けれど気にならない。
私の視線は一台の車だけを見ていた。
身体が地面へ近付く。あと数メートル。
私はほとんど落下するみたいな勢いのまま交差点へ降り、靴底がアスファルトへ触れる。
次の瞬間、衝撃が地面へ広がった。
乾いた音が響き、風が吹き抜ける。周囲の髪や服が揺れて、信号待ちをしていた人たちが目を丸くしている。
けれど今の私には本当にどうでもよかった。
目の前には氷室家の車がある。その情報だけで脳内はいっぱいだった。SUVの後部座席。
少しだけ色の入った窓の向こう側に見慣れた黒髪が見えた。
怜奈さんも私に気付いた。目を見開いて、
信じられないものを見るような顔だった。
すぐに後部座席のドアが開き、怜奈さんが外へ出てくる。
「彩音――」
名前を呼ばれる。
けれど最後まで聞いていられなかった。
私は走った——怜奈さんへ向かって。今まで溜め込んでいた不安も、焦りも、全部吐き出すみたいに。
「怜奈さん!」
気付けば叫んでいた。
怜奈さんの目の前まで駆け寄る。そして、そのまま飛びついた。勢いのまま胸へ抱きつきぎゅっと怜奈さんの背中に腕を回した。
自分でも驚くくらい強く。離したくない。
そんな感情が自然と身体へ力を込めていた。
「よかった……」
怜奈さんは一瞬だけ固まっていた。けれどすぐに私を受け止める。背中へ回された腕が優しい。それだけで張り詰めていた何かが少しずつほどけていくような感覚を覚えた。
その時だった——するり、と。気付けば私の尻尾が怜奈さんの腰へ絡みついていた。
まるで逃がさないと言うみたいに。一本では足りないとでも言うように、ぎゅっと。無意識だった。本当に無意識だった。でも、尻尾は離れようとしない。むしろ私の気持ちを代弁するみたいに怜奈さんへ身体を寄せ続けている。
「彩音……」
怜奈さんが小さく私の名前を呼ぶ。
私は返事をしない。いや、できなかった。
顔を上げたくなかったからだ。顔を上げたら、自分がどんな顔をしているのか分かってしまいそうだった。怖かった。
怜奈さんが戦っていると感じた瞬間、頭の中が真っ白になった。菜月のことも心配だった。でも、それ以上に——怜奈さんに何かあったら嫌だと思った。こんな私の心の中を知ったら怜奈さんは幻滅するだろうか?
今こうして抱きしめているのに、まだ足りないと思っている自分がいる。もっと近くに。
もっと安心したい。もっと触れていたい。
そんな感情が次々と私の中から溢れてくる。
おかしい——絶対におかしい。
菜月のことも大切だ。クロも大切だ。
飛鳥さんだって信頼している。
なのに、怜奈さんだけは違った。
もし怪我をしていたら。
もし傷ついていたら。
もし二度と会えなくなっていたら。
そう考えただけで胸の奥が苦しくなる。さっきまで息が詰まりそうだった理由も、身体が勝手に動いた理由も今なら分かる気がした。
私は怖かったんだ。
怜奈さんを失うことが。
だから会いたかった。
無事な姿を見たかった。
触れて確かめたかった。
今こうして抱きしめているのに、それでもまだ足りないと思ってしまうくらいに。
その時になって、私はようやく気付く。
どうしてこんなにも必死だったのか。
どうして何も考えず飛び出したのか。
どうして会いたくて仕方なかったのか。
答えは、驚くほど簡単だった。
私は。
怜奈さんのことが好きなんだ。




