帰ってきていい場所
「ふはぁぁ……ねっむい……」
翌朝——私は完全に寝不足だった。
理由は分かっているけれど、口に出したら負けな気がするので絶対に言わない。
私は欠伸をしながらも怠い身体を起こして、姿見で寝癖を治してからリビングへ向かう。
リビングでは怜奈さんが朝食を並べていた。
無表情で、いつも通りの様子に見える。
「あら……おはよう、彩音」
「……おはようございます」
普通に返したつもりだった。けれど、声が少し裏返った。怜奈さんは湯呑みにお茶を注ぎながら、私の顔を見てくる。
「どうしたの? 顔が赤いわね」
「誰のせいだと思ってるんですか!?」
反射的に叫んでから、私は慌てて口を押さえた。しまった。完全に墓穴を掘った。
テーブルについていた菜月が、箸を止める。
その目が、私と怜奈さんを交互に見た。
「……お姉ちゃん?」
「な、なに?」
「なんかあった?」
「なにもないよ」
自分でも分かるくらい、声が硬かった。菜月はしばらく私を見つめていたが、やがて「ふーん」と言ってニヤリと笑う。その顔は、完全に何かを察した顔だった。
私は助けを求めるようにクロを見る。
「わふ?」
クロは何も知らない顔で尻尾を揺らす。この家で唯一、平和だった。私はクロの頭を撫でながら、どうにか朝食を食べようとする。けれど、味噌汁の湯気を見るだけで昨日の浴室を思い出してしまい、箸が止まる。
だめだ……完全に意識している。
しかも、怜奈さんは平然としていて余計に腹立たしい。
「……キスでもした?」
菜月の声が、何気ない顔で飛んできた。
私は味噌汁を吹きかけた。
「な、菜月!?」
「うっわ、分かりやす」
「違っ……違わないけど、違う!」
「したんだ」
私はテーブルに突っ伏したくなった。怜奈さんは何事もなかった様に小皿を並べている。
何も言わないのが、逆にずるいと感じた。
「冷めるわよ」
「怜奈さんも何か言ってください……」
「何を?」
「その顔やめてください!」
朝から私の精神は完全に削られていた。そんな時だった。怜奈さんの端末が短く震えた。
画面を見た瞬間、怜奈さんの空気が変わる。
大きな変化ではない。表情も、声も、いつも通り落ち着いている。けれど、さっきまで私をからかうように見ていた目が少しだけ仕事の目になった。
「少し失礼するわ」
怜奈さんはリビングの端へ移動してから通話に出る。会話は短かった。相槌が数回。確認の言葉が少し。それだけで終わる。通話を切った怜奈さんはすぐには戻ってこなかった。
端末の画面を見下ろしたまま、ほんの少しだけ黙っていた。その沈黙で私と菜月は察してしまう。これは、さっきまでの話とは違う。
「……何かあったんですか?」
私が尋ねると、怜奈さんはゆっくりとこちらを向いた。
「協会と児童相談所からよ」
リビングの空気が変わった。
菜月も、さっきまでの笑みを消す。
「正式に処理されたわ。あなたたちの件は、児童虐待として扱われることになった」
言葉が、すぐには入ってこなかった。
児童虐待。その単語を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮むような感覚に襲われる。分かっていた。あの家でのことが普通ではない。私たちがもう戻るべきではないことも。それでも、外の誰かに正式にそう言われると、思っていたよりずっと重かった。
「両親には接近禁止命令が出たわ。あなたにも、菜月にも、勝手に近づけない。学校や協会にも同じよ」
私は何も言えなかった。
もう突然現れて、怒鳴られることはない。腕を掴まれて連れ戻されることもない。戻れと言われることもない。なのに、胸の奥には、ほっとしただけでは片付けられない感情も残っていた。
終わった。
本当に、終わったのだと思った。
「……よかったじゃん」
先に口を開いたのは菜月だった。その声は、いつもの軽さより少しだけ硬い。私は小さく頷いた。
「……うん。よかった、んだよね」
「よかったのよ」
怜奈さんは迷わず言った。
「少なくとも、あなたたちが守られるべき場所に立てたという意味では」
その言葉に少しだけ息がしやすくなった。
怜奈さんは、私たちを安心させるように静かに続ける。
「里親も私の両親に決まりそうだから、あなたたち姉妹が離れ離れになる心配はしなくていいわ」
そう言うと、隣で菜月がほっとしたように肩の力を抜いた。私も同じだった。正直、一番心配していたのはそこだったからだ。
「まぁ、その件で少し揉めたらしいけれど」
「揉めた?」
「親戚の方々ね」
私は首を傾げる。
「親戚なんていたんですか?」
「いたみたいよ。ただ、協会と児童相談所の話では、あなたたちの両親は親族からあまり良く思われていなかったらしいわ」
「あー……だから接点がなかったんですね」
「ええ。むしろ、今回の件を知って怒っていた人もいたそうよ」
私は少しだけ目を丸くした。そんな人がいたなんて、考えたこともなかった。
もしかしたら両親以外なら私達をちゃんと見てくれる人がいるのかもしれない。
そんな期待感を持った私は、怜奈さんの次の言葉で考えを覆されてしまう。
「ただ、中にはあなたたちを引き取りたいと言い出した親族もいたらしいわ。けれど、調べてみると金銭面の問題や、あまり良くない話がいくつか出てきたみたい」
怜奈さんの声が、少しだけ冷たくなる。
「だから候補からは外された」
「……それって」
「有名になった彩音を利用しようとした可能性はあるでしょうね」
「なるほど……親族の中でも、やっぱり血筋なんですかね」
「血筋ではないわ」
怜奈さんは迷いなく言った。
「少なくとも、私はそう思わない」
「怜奈さん……」
「彩音と菜月を見れば分かるでしょう」
怜奈さんは当然のことみたいにそう言った。
私は何も言えなかった。血筋ではない。
たったそれだけの言葉が、胸の奥に残っていた嫌なものが少しだけ溶けていく気がした。
自分の親がそうだった。親戚にも、私たちを利用しようとしたかもしれない人がいた。
そう聞いた瞬間、どこかで思ってしまった。
私たちはそういう血なのかもしれない、と。
最低な考えだ。
菜月まで巻き込んでいる時点で、最低だ。けれど、そう思ってしまった。だから怜奈さんの言葉は思っていたよりずっと深く刺さった。
「……ありがとうございます」
私が小さく言うと、怜奈さんは少しだけ目を細めた。
「お礼を言われることじゃないわ」
「でも、言いたかったので」
「そう」
怜奈さんは短く答えた。
いつもより少しだけ柔らかい声色で。
ふと、隣を見ると菜月が黙っていた。さっきまで私をからかっていた顔ではない。
箸を握ったまま味噌汁の器を見つめている。
「菜月?」
私が呼ぶと、菜月はびくっと肩を揺らした。
「な、なに?」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
そう言う声は、少しだけ震えていた。大丈夫じゃない時の声だ。菜月は強がってしまう。私の前では特にそうだ——お姉ちゃんに心配をかけたくない。
そう思っているのが見て分かる。
でも、今はそれを見逃したくなかった。
私は近づいて、菜月の頭に手を置く。
「……怖かったよね」
そう言うと、菜月の顔がくしゃりと歪んだ。
「怖くないし」
「うん」
「別に、平気だし」
「うん」
「だって、もう帰らなくていいんでしょ」
「そうだよ」
「お姉ちゃんとも離れなくていいんでしょ」
「当たり前じゃん。離れないよ」
菜月の声が、少しずつ小さくなる。
「だったら、平気だし」
最後の方は、ほとんど泣き声だった。
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「私、ここにいていいんだよね」
胸が痛くなった。菜月がそれを確認しなければいけないことが。そんな当たり前のことを、言葉にしなければ安心できないことが。
悔しかった。
だから私は、できるだけはっきりと言った。
「いていいよ」
菜月が顔を上げる。
私は菜月の目を見て、もう一度言う。
「私もいる。菜月もいる。ここにいていい」
「……うん」
怜奈さんが静かに湯呑みを置き、口を開く。
「菜月。ここにいていいのか、と聞く必要はないわ。あなたはもう帰ってきていい場所にいる。少なくとも私は、そう思っている」
その言葉に菜月の目がまた少し潤む。
「……怜奈さん」
「それに」
怜奈さんはいつもの淡々とした顔で続けた。
「将来的には、私の義妹になるんだもの」
「義妹!?」
私と菜月の声が、きれいに重なった。
「今そういう話をする場面でした!?」
「大事な話よ」
「大事ですけど方向性が違います!」
「お姉ちゃん……将来的に私、怜奈さんの義妹になるの?」
「いや、菜月も真面目に受け取らないで!」
「でも、お姉ちゃんが怜奈さんと結婚したらそうだよね……私、怜奈さんがお姉ちゃんになるなら嬉しいから、頑張ってね」
菜月は涙目のまま笑った。
子供の頃に見た、何の不安もなかった頃の笑顔に少しだけ似ていた。その笑顔を見て、私は否定できなくなってしまう。いや、否定する気もないのだけれど。
たぶん怜奈さんは、わざと言ったのだ。
重くなりすぎた空気を少しだけ壊すために。
「お姉ちゃん、否定しないんだ」
「そこ拾わないで!」
「だって、否定しなかったし」
「し、しようと思えばできるし!」
「じゃあしてみて?」
「……」
言葉は——出なかった。
嘘でも怜奈さんが傷つく事は言いたくない。
そんな私を見て、菜月がまた声を出して笑った。さっきまで泣きそうだった顔で。それでも、ちゃんと笑っている。重くなりかけた空気は菜月の笑い声で少しずつほどけていく。
怜奈さんは平然とお茶を飲みながら、私たち姉妹の会話を聞いている。菜月は涙目のままそれでも楽しそうに私をからかっている。クロだけは何も分からず、テーブルの下で尻尾を振りながら、私の足元でじゃれている。
……うん。
この家、感情の振れ幅が大きすぎる。




