周りを誘惑して帰ってきた罰
気づけばダンジョンの外は夕方になっていた。
「……やば」
私はダンジョンの出入口近くで端末を確認し、小さく声を漏らす。時刻は、思っていたよりずっと遅い。Cランクダンジョンでのレベル上げに夢中になりすぎたらしい。
いや、夢中になったというより、途中から少し感覚がおかしくなっていた気がする。魔物の視線を奪って隙を作り、クロと連携して倒して魔力を吸収する。それを繰り返しているうちに、身体の奥が熱くなって、時間の感覚が薄れていた。
「……身体が熱いな」
ぽつりと呟く。
もし今日の戦い方を配信していたら、たぶん私は一生いじられていたと思う。
半サキュバスだの、視線泥棒だの、こっち見て配信だの、絶対に変な呼ばれ方をされる。
「わふ」
隣のクロが小さく鳴いた。
黒い毛並みに、うっすらとダンジョンの埃がついている。
クロも今日はかなり戦ってくれたからね。
「うん。帰ろうか」
私はクロの頭を軽く撫で、歩き出す。怜奈さんには、もう少しで帰ると連絡してある。
既読は一瞬でついた。返事は、『寄り道しないで』だった。短いが圧を感じる。
「身体も熱いし、早く帰ってお風呂入ろ」
そんなことを言いながら、私はダンジョンから怜奈さんの家へ向かう道を歩いていた。
夕方の街は人が多い。学校帰りの学生。買い物袋を持った人。仕事帰りらしいスーツ姿のサラリーマン。私と同じく、ダンジョン帰りの探索者もちらほらと歩いている。
そして気づく。
周りの人たちが、ひそひそと話している。
視線も多い。ちらり。ちらりと、通りすがりの人が私を見て、すぐに目を逸らしていた。
「えっ……なに?」
私が困惑していると、ひそひそ声が耳に入ってくる。
「今の子って、あのサキュバスちゃん?」
「最近有名な半サキュバスの子? なんか雰囲気ていうか、大人な感じする……」
「え、あの子? 本当だ。雰囲気違うね」
うわ。やっぱりバレてる。ていうか大人の雰囲気って何なんですか? 私は気恥ずかしさから思わずパーカーのフードを深く被った。
「……今日は配信してないんだけどなぁ」
そう呟いた瞬間、近くにいた学生らしい二人組が、なぜかびくっと肩を震わせた。別に彼らにぶつかってもないし、話しかけたつもりもないはずなのに、二人は顔を赤くして、慌てて視線を逸らす。けれど、少ししてからまたちらりとこちらを見る。
「……?」
私はもう一度首を傾げた。
疲れているせいだろうか? どうにも周囲の反応が変だ。見られている。それは分かる。
でも、珍しいものを見る目とは少し違う。
さっきのダンジョンで魔物たちから向けられた視線に、ほんの少しだけ似ていた。
目を逸らしたいのに、逸らせない。
気にしないふりをしているのに、意識がこちらに残っている。そんな感じだと思う。
「……早く帰ろ」
私は小さく呟いて、歩く速度を上げた。
理由は分からない。服装のせいかもしれないし、ダンジョン帰りで髪が乱れているせいかもしれない。あるいは、半サキュバスだとバレているせいかもしれない。
でも、それだけではない気がした。
身体の奥が、まだ熱い。Cランクの魔物から吸収した魔力が、完全には馴染んでいないのだと思う。そのせいで、どこか感覚が鈍い。
周囲の視線に気づいているのに、危機感が少し遅れてやってくる。
「クロ、早く帰ろう」
「わふ」
クロはいつも通り私の隣を歩いている。その普通さが、少しだけありがたかった。
怜奈さんの家に着く頃には、私はもう誰とも顔を合わせたくなくなっていた。
*
「ただいま……」
小さく呟いて、廊下を確認する。幸い、リビングの方から菜月の声は聞こえなかった。
怜奈さんの姿も見えない。今のうちだ。
「クロ、足拭くよ」
クロの足を拭いてから、私は最低限の荷物だけ置き、そのまま浴室へ向かった。誰かに見つかる前に。何か言われる前に。とにかく、この服を脱いでシャワーを浴びたかった。
湯気が立つ。
熱いお湯が肩に当たると、ようやくダンジョンの空気が身体から流れていく気がした。
けれど、身体の奥の熱は消えない。
「……まだ熱い」
胸の奥で、魔力がゆっくり渦を巻いている。
それは不快ではなかった。むしろ、少しだけ心地いい。だからこそ怖いと感じてしまう。
私は湯船に沈みながら、深く息を吐いた。
浴室の中に、自分の吐息が溶けていく。湯気に混じって、何か別のものまで空気に滲んでいるような気がした。
魔力。そう呼ぶしかないものが、私の身体から薄く漏れている。けれど、その時の私はまだ、自分がどれほど周囲に影響を与えているのか分かっていなかった。
しばらくして浴室の外から足音が聞こえた。
「彩音?」
「ひゃい!?」
怜奈さんの声にビックリして変な声が出た。
「帰ってきていたのね」
「は、はい。疲れたので、お風呂に……」
「そう」
扉の向こうで、少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙が、妙に長く感じた。
「……私も入るわ」
「あっ、はい」
反射的に返事をしてしまった。
いや、待って。今、何に返事した?
「怜奈さん!? 私、もう出ますけど!」
「確認したいことがある。付き合いなさい」
「お風呂場で確認することあります!?」
返事の代わりに、脱衣所から衣擦れの音が聞こえた。遅かったらしい。浴室の扉が開く。
湯気の向こうから怜奈さんが入ってくる。
いつも通りの顔だった。落ち着いていて、静かで、表情の変化が少ない。けれど、一歩浴室に入った瞬間、怜奈さんの足が止まった。
ほんの一瞬——それでも私は気づいた。怜奈さんの視線が、私と浴室の空気そのものを確かめるように揺れたことに。
「……かなり残っているわね」
静かな声だった。怒っているわけではない。
呆れているわけでもない。ただ、状況を確認している声。それなのに、私はなぜか背筋を伸ばしてしまった。
怜奈さんは無言で湯船に入り、私を後ろから抱きしめるいつもの状態になった。
「……彩音。気づいてる?」
「何がです……」
「あなた、周りを誘惑するような魔力を出しているわ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。湯気の中で、怜奈さんの声だけがこだましていた。
「ゆ、誘惑……?」
「ええ」
怜奈さんは私を後ろから抱きしめたまま、いつも通りの声で続けた。
「街でも随分、視線を集めてきたのでしょう?」
「な、なんで知ってるんですか」
「彩音の様子を見れば分かるわ。帰ってきてすぐお風呂に直行して、顔を合わせようとしない。つまり、外で何かあった」
実際、私は街でかなり見られていた。服装のせいだと思っていた。ダンジョン帰りで髪が乱れていて顔が赤いせいだと思っていた。
でも、怜奈さんの言い方だと、それだけではないらしい。
「正確にはダンジョンで使った魅力の魔力がまだ身体に馴染みきっていないのだと思うわ」
怜奈さんの腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「だから空気に混じって、周囲の意識を引いている」
「……つまり、私が無自覚に?」
「ええ」
「うわぁ……マジですかー」
私は湯船の中で顔を覆った。最悪だ。街中で変に見られていた理由が服だけではなく。私自身が、知らないうちに周囲の視線を引いていたのだ。
「でも、強いものではないと思うわ」
「本当ですか?」
「ええ。少し意識を引く程度でしょうね」
怜奈さんはそこで一度、言葉を切った。
そして、少しだけ声を低くする。
「ただし、彩音を見る理由を探している人間には、よく効くでしょうけれど」
「言い方ぁ!」
私は思わず振り返りそうになった。
でも、怜奈さんの腕に止められる。
「動かないで」
「なんでですか」
「確認しているから」
「さっきから確認って言えば何でも許されると思ってません?」
「思っているわ」
「認めた!」
怜奈さんは平然としている。けれど、どこかいつもより言葉が刺々しい。怒っているわけではない。でも機嫌が良いわけでもない。その理由に気づいて私は少しだけ目を細めた。
「……怜奈さん」
「なに?」
「もしかして、嫉妬してます?」
沈黙。その沈黙が、答えだった。
「してないわ」
「今の間で全部分かりました」
「してないわ」
「二回言う時はだいたいしてます」
「彩音」
怜奈さんの声が少しだけ低くなる。
「あなたが無自覚に周囲の視線を集めて帰ってきたことについて、私はとても冷静に体調確認をしているだけよ」
「めちゃくちゃ言葉選んでますよね?」
「まぁ……選んでいるわね」
「そこも認めるんだ……」
私は小さく息を吐いた。怜奈さんは嫉妬している。けれど、それを正面から言うつもりはないらしい。代わりに、わざと私が恥ずかしくなるような言葉を選んでいる。
周りを誘惑する魔力だとか、視線を集めてきただとか、見る理由を探している人間には効くだとか。全部、微妙に言い方が悪い。
「怜奈さん、性格悪くなってません?」
「彩音限定よ」
「限定ならいいみたいに言わないで」
そう言った瞬間だった。背中に触れていた怜奈さんの指が、ぴたりと止まった。それまで淡々としていた空気が少しだけ変わる。
「……彩音」
「なんです?」
返事をした瞬間、腕に少しだけ力が入った。
「今日、怖かったわ」
「え?」
「連絡で、無事なのは分かっていた」
怜奈さんの声は静かだった。けれど、その静かさの奥に、いつもとは違う熱があった。
「それでも帰ってくるまで落ち着かなかったのよ。つい最近まで色々あったし、あなたは自分が思っている以上に無茶をするから」
私は何も言えなくなる。今日だって、本当は少し危なかった。魔力の感覚がおかしくなっていたし、戦いにも熱中していた。
「……ごめんなさい」
小さく謝る。すると怜奈さんは、私を抱きしめたまま小さく首を横に振った。
「謝らなくていい」
そして。耳元で、小さく囁く。
「ただ安心したかっただけ」
その瞬間——顎に指が添えられた。
「え――」
振り向かされる。近い。近すぎるぞ?
湯気の向こうに怜奈さんの顔があった。
いつもと同じ、落ち着いた表情。
なのに、目だけは少しも逸らしてくれない。
「れ、怜奈さ――」
言葉は最後まで出なかった。
唇に、柔らかな感触が触れる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
熱い。
湯船のせいじゃない。魔力のせいでもない。
怜奈さんが近い。息が触れるくらい近くて。
私は逃げることも目を閉じることも忘れていた。
数秒。
それだけなのに、やけに長く感じた。
ゆっくりと唇が離れる。湯気の中で怜奈さんの顔が少しだけ遠ざかる。そこでようやく。
私の脳が、現実に追いついた。
「んんんんん!!??」
私は湯船の中で大混乱した。顔が熱い。心臓がうるさい。呼吸の仕方まで分からない。
「れ、れれれれっ怜奈さん!?」
「なに?」
本人だけが平然としている。
「なに!? じゃないですけど!?」
「安心したかっただけよ」
「キスで!?」
「ええ」
「ええ、じゃないんですよ!!」
私は完全にパニックだった。けれど怜奈さんは逃がさない。
後ろから抱きしめたまま耳元で静かに言う。
「彩音」
「ひゃい!」
「次からはもう少し早く帰ってきなさい」
「は、はい……」
「それと」
「まだあるんですか!?」
怜奈さんは少しだけ目を細めた。
「これは、周りを誘惑して帰ってきた罰よ」
「はっ、罰がキスなんですか!?」
「不満?」
「不満とかそういう問題じゃなくて!?」
そう言い返しても、怜奈さんは少しも動じなかった。むしろ満足したように、私を後ろから抱きしめ直す。
「これで少し落ち着いたわ」
「こっちは全然落ち着いてませんけど!?」
湯気の中で叫ぶ私を、怜奈さんは離そうとしない。たぶん、私はしばらくこの状態から逃げられないだろう。
そして、今の私はダンジョン帰りの熱よりもずっと厄介な熱に、完全に支配されていた。




