メロついてません
あれから三日。
私たちは、何事もなく怜奈さんの家で暮らしていた。何事もなく、という言い方が正しいのかは分からない。警察や児童相談所、探索者協会との連絡は怜奈さんがほとんど引き受けてくれているし、菜月の学校への説明も済んでいる。
菜月は普通に学校へ行っている。ただし、送り迎えは氷室家のメイドさんたち付きで。
「普通とは?」
朝、制服姿の菜月が黒塗りの車に乗せられていくのを見送りながら、私は思わず呟いた。
運転手さん。メイドさん。護衛っぽい人。
いや、護衛っぽいというか、たぶん本職の人。
菜月は最初こそ緊張していたが、三日目にもなると少し慣れたらしい。今朝なんて、メイドさんに「いってらっしゃいませ」と頭を下げられて、ぎこちなく「い、行ってきます」と返していた。
可愛い……いや、そうじゃない。
問題は、怜奈さんが冗談抜きで私たちを氷室家に引き取ろうとしているらしいことだ。
「まじだったんですか? それ」
リビングのソファーで私は怜奈さんを見る。
怜奈さんはいつものように淡々と紅茶を飲んでいた。
「ええ。マジもマジよ」
「マジもマジって怜奈さんの口から出ると違和感すごいですね……」
「彩音が言ったから合わせたのだけど」
「あ、はい。すみません」
私はクッション代わりの寝ているクロを抱えたままテーブルの上に置かれた書類を見る。
保護者関係。一時保護先。学校との連絡体制。探索者協会への届出。見慣れない単語が並びすぎていて、読むだけで頭が痛くなる。
「でも、それじゃあ……」
私はそこで言葉を止めかけた。
止めかけたのに、口は勝手に動いた。
「付き合っても結婚できなくないですか?」
言った瞬間、空気が止まった。
怜奈さんがカップを持ったまま、私を見る。
私は自分が何を言ったのかを理解するまで、数秒かかった。そして、理解した瞬間——。
「ち、違っ……! 今のは、そういう意味じゃなくて!」
自分の顔が一気に熱くなる。何を言っているんだ私は! まだ、付き合っていないし、なぜそこまで飛んでしまったか分からない。
「彩音」
怜奈さんが静かに私の名前を呼んだ。
「はい」
「今、自然に結婚の話をしたわね」
「し、してないです! いや、言葉としては出ましたけど! そういう意味じゃなくて、法律的な、制度的な、将来的な話で!」
「将来的な話、ね」
私は隣にいたクロに顔を埋めた。終わった。
完全に墓穴を掘った。怜奈さんはしばらく私を見ていたが、やがて少しだけ目を細めた。
「彩音は17歳よね? なら一年後、楽しみにしてるわ」
「ま、待って……勘弁してくだひゃい」
そう言った直後に、尻尾を軽く撫でられた。
身体はびくりと震えてしまう。ロマンチックの欠片もない告白をされてから、この人はあらゆる手を使って私に好きを押し付けてくる。サキュバス先生曰く、尻尾は魔力を感じ取り、吸収する器官でもあると同時に求愛する為にも使われている部位だと聞いている。
サキュバス先生にでも、聞いたのだろう。
いや、絶対に聞いている。怜奈さんはそういう人だ。分からないことがあれば調べるし、必要だと思えば専門家にも聞く。問題は、その専門家がサキュバス先生という点である。
「怜奈さん」
「なに?」
「その。触り方がアレなんですけど……というか、それ求愛の合図って知ってますか?」
「知ってるわ。先生に聞いたから」
「聞いたんですか!? てか、先生って」
私が叫ぶと、怜奈さんは不思議そうに首を傾げた。
「専門家でしょう?」
「そういう意味ではそうですけど!」
「彩音の身体のことを知るのは、必要なことだと思ったの」
「言い方だけは真面目なのずるい!」
私はクロを抱きしめる力を強めた。クロは迷惑そうに「わふぅ」と鳴いたが、逃げる気配はない。さすが私の癒やし枠だ。可愛い。
怜奈さんは私の尻尾から手を離し、何事もなかったように紅茶を飲む。
「安心して。今すぐ彩音を氷室家に入籍させるつもりはないわ」
「今すぐ、って言いました?」
「菜月の保護が先だから」
「優先順位の問題なんですかねぇ……」
「ええ」
真顔だった。真顔で頷かれた。
冗談を言っているようで、半分以上本気だ。
「怜奈さん、重いですって」
「知ってる。逃げたいなら、逃げればいい」
「っ……それ、分かって言ってますよね」
全くもって意地悪な人だ。怜奈さんは私が本気で嫌がれば止める。それは分かっている。
分かっているからこそ、ずるい。「逃げたいなら、逃げればいい」そんなことを言う。
でも、それは怜奈さんが私を縛らないという意味であって、私が簡単に逃げられるという意味ではない。
そもそも、今の私は家に帰れない。父と母のこと。菜月のこと。警察や児童相談所、探索者協会との話。現実的な問題だけを見ても、私は怜奈さんの家から離れられない。
でも——それだけじゃない。
私はクロの背中に顔を埋めたまま、怜奈さんをちらりと見る。怜奈さんはいつも通り淡々としている。
けれど、私を見る目だけは、少しだけ優しい。
「……逃げませんよ」
気づけば、そう言っていた。
怜奈さんの視線が、静かにこちらへ向いた。
次の瞬間、背中からそっと抱きしめられる。
「……そう」
耳元で、怜奈さんの声がした。
「なら、私は待つわ」
「……待つ?」
「ええ。彩音が自分から、逃げない理由を選んでくれるまで」
その言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。
逃げない理由。家のこと。菜月のこと。現実的な問題。それだけではない理由を、怜奈さんはもう分かっているみたいだった。
「……そういう言い方、ずるいですって」
「知っているわ」
怜奈さんの腕に、ほんの少しだけ力が入る。
「でも、今の言葉は忘れない」
「……忘れてください」
「無理ね」
即答だった。
「大事な言葉だから」
「そういうところですよ。本当に、そういうところ……」
私はクロに顔を埋めようとして、腕の中が空っぽになっていることに気づいた。さっきまで私の膝の上で大人しくしていたクロが、いつの間にかソファーの下へ移動していた。
こちらを見ないように顔を伏せている……
おい。空気を読むな。いや、読まないで。
「クロまで逃げた……」
「空気を読んだのね」
「犬に気を遣われる状況って何ですか」
そう言いながら顔を上げた瞬間、怜奈さんの腕に少しだけ力が入った。背中越しに伝わる体温。耳元にかかる息。
逃げようと思えば、たぶん逃げられる。
でも、逃げようとは思わなかった。
それがまた、腹立たしいくらい恥ずかしい。
「彩音」
怜奈さんの声が、耳元で響いた。
「……なんですか」
「この状況で、まだ離れないのね」
「離れるタイミングを失っただけです……」
ゆっくりと、怜奈さんの顔が近づく。私は反射的に目を逸らそうとして、けれど逸らせなかった。心臓の音がうるさい。さっきまで読んでいた書類の内容や菜月の学校のことも、父と母のことも、一瞬だけ頭の奥へ押し流されていく。
怜奈さんの指先が、私の尻尾から離れた。
代わりに、私の髪にそっと触れる。
「彩音」
名前を呼ばれただけなのに、息が詰まりそうになる。
「……はい」
私の声は、自分でも情けないくらい小さい。
その時だった。
玄関の方から、ガチャと扉の開く音がした。
「ただいまー」
聞き慣れた声。菜月の声。私と怜奈さんの動きが同時に止まった。いや、私は止まったが、怜奈さんは止まったというより、何事もなかったかのように私を抱きしめたままだった。
「怜奈さん!?」
「なに?」
「離れて! 菜月が帰ってきました!」
「そうね」
「そうね、じゃなくて!」
慌てて身をよじろうとした瞬間、リビングの扉が開いた。
「今日もメイドさんたち、すごかったよ。校門前でめちゃくちゃ目立って——」
そこまで言って、菜月の声が止まった。制服姿の菜月がリビングの入口で固まっている。
鞄を肩にかけたまま、私たちを見ていた。
正確には、ソファーの上で怜奈さんに背中から抱きしめられ、顔を真っ赤にしている私を見ていた。
一瞬の沈黙のあと。
菜月の目が、すっと細くなる。
「……お邪魔しました?」
「違う! 違うよ、菜月!」
私は反射的に叫んだ。怜奈さんはようやく腕を離す。遅い。何もかも遅い。
菜月はゆっくりとリビングに入り、鞄を置きながら、にやにやと笑った。
「へぇー」
「菜月、その顔やめて」
「いや、だってさぁ〜私が学校行ってる間に、随分仲良くしてるんだから仕方ないじゃん」
「違う! これは、その、話の流れで!」
「話の流れで背中から抱きしめられて、顔真っ赤にしてたんだぁ〜 やらしいねぇ」
「言い方!」
菜月は楽しそうに笑う。そして、わざとらしく私の顔を覗き込んできた。
「お姉ちゃん、すごい顔してたよ。怜奈さんにメロついてる顔だった」
「菜月!?」
私は本日一番の声で叫んだ。
「メロついてるって何!?」
「そのままの意味」
「妹が姉に言う台詞じゃない!」
「でも、女の顔してた」
「もっと言うな!」
怜奈さんが隣で静かに紅茶を飲む。
「菜月」
「はい?」
「彩音は可愛かったわ」
「怜奈さん!?」
やめて。味方がいない。
菜月は口元を押さえて、肩を震わせていた。
「怜奈さんって、淡白な性格だと思ってたけど、意外と情熱的なんですね」
「彩音だけよ」
私は頭を抱えた。いまだ解決していない父と母のこと。菜月や、これからの生活のこと。
考えなきゃいけない問題は、山ほどある。
それでも、菜月が学校から帰ってきて、私をからかって、怜奈さんが平然と私に感情を伝えてくる——そんな時間が、嬉しかった。
「……おかえり、菜月」
私がそう言うと菜月は目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「うん。ただいま、お姉ちゃん」
その言葉に胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど、菜月はすぐににやっと笑い直した。
「で、お姉ちゃん。メロついてた件だけど」
「忘れて!」
「私は覚えておくわ」
「怜奈さんも忘れてください!」




