話し合いにならない話し合い
探索者協会の相談室は思っていたより普通の部屋だった。白い壁。長机。向かい合うように置かれた椅子。
机の上には録音用の端末が置かれている。
それだけなのに、やけに息苦しく感じた。
「彩音、尻尾」
隣に座る菜月が小さく言った。
「え?」
「止まったり、揺れたりしてる」
言われて、自分の尻尾を見る。黒い尻尾が椅子の横で、落ち着きなく揺れていた。私の右隣にいる菜月の手に擦り付いたり、左隣にいる怜奈さんの足に絡めたりと騒がしい。
「これは……準備運動」
「尻尾の?」
「うん」
「無理あるって」
菜月の冷静なツッコミに、少しだけ肩の力が抜ける。そして向かい側には、探索者協会の女性職員が二人座っていた。
私が探索者登録をした時に担当してくれた職員のお姉さんと元同級生との話し合いに立ち会ってくれたお姉さん。
「本日は録音を行います。途中で休憩が必要になった場合は、すぐに言ってください。無理に話す必要はありません。答えたくないことは答えなくて大丈夫です」
「……はい」
菜月と私は小さく頷く。菜月の手が、膝の上でぎゅっと握られていた。私はそっと手を伸ばし、菜月の手に触れる。菜月は一瞬だけ私を見て、それから小さく握り返してきた。
その時——相談室の外から足音が聞こえた。
菜月の手が強張る。
私の尻尾も、ぴたりと止まった。
相談担当の女性職員が扉の方を見る。
「到着されたようです」
怜奈さんの手に、少しだけ力が入った。
「彩音。菜月」
「……はい」
扉がノックされた。
「どうぞ」
職員さんが静かに言うと、ゆっくりと扉が開く。そこに立っていたのは、一昨日と同じ顔をした父と母だった。母は私たちを見るなり、泣きそうな顔をした。
父は眉間に皺を寄せ、部屋の中を一瞥する。
その視線が、私に向き、次に菜月へ向く。
そして、私たちが繋いでいる手で止まった。
父の眉間の皺が、さらに深くなる。
「……菜月」
低い声だった。菜月の肩がびくりと震える。
けれど、手は離さない。私も離さない。相談担当の女性職員が落ち着いた声で告げる。
「本日はお越しいただきありがとうございます。まず最初に、この面談は録音させていただきます。また、声を荒げる、席を立って相手に近づく、威圧的な発言をするなどの行為があった場合、その時点で中断します」
父の顔がわずかに歪んだ。
「家族の話し合いに、そこまで必要ですか」
その声を聞いた瞬間、一昨日の駐車場の空気が胸の奥に蘇る。
でも、怜奈さんが静かに言った。
「必要です」
父の視線が怜奈さんへ向く。
怜奈さんは少しも怯まなかった。
「一昨日、菜月に手を上げた事実があります。本人が帰宅を拒否している以上、第三者の同席と記録は必要です」
部屋の空気が、ぴんと張り詰める。
母が慌てたように口を開いた。
「あれは、違うんです。菜月が少し感情的になってしまって、お父さんもつい……」
「つい、で殴っていい理由にはなりません」
怜奈さんの声は静かだった。
父は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
怒りを抑えているというより、自分だけが正しいと思っている顔だった。
母は父の隣に座り、落ち着かなさそうに私たちを見ている。けれど、その視線は菜月の頬に向いて、すぐに逸れてしまった。
「まず、誤解を解きたい」
父が低い声で言った。
「私は、菜月を虐待したつもりはありません。親として、間違ったことをした娘を叱っただけです」
「手を上げたことは事実ですね」
相談担当の職員さんが確認するように言う。
父の眉がぴくりと動いた。
「……一度、頬を叩いただけです」
菜月の手が、私の手の中で小さく震える。
「それを大げさに虐待だの何だのと言われる筋合いはない。最近は何でもかんでも体罰だ、虐待だと騒ぎすぎなんですよ」
父の声に、少しずつ熱が混じっていく。
「だから子供がつけ上がる。親の言うことを聞かない。危機感もなく、知らない男に声をかけられるような場所に平気で行く。そういう頭の悪い連中が増える」
そこで父の視線が、菜月へ向いた。
「菜月も菜月だ。あんな場所で何をしていた。自分がどれだけ馬鹿なことをしたのか、分かっているのか」
菜月の肩が、びくりと震えた。
私は反射的に口を開きかける。
けれど、その前に職員さんの声が入った。
「今の発言は、菜月さんを責めるものです」
父が職員さんを見る。
「責めているのではありません。事実を言っているだけです」
「一昨日、菜月さんは被害を受けた側です。ナンパをした側でも、暴力を受けた原因でもありません」
「原因がないとでも?」
父の声が少し大きくなる。
「未成年が勝手に探索者登録だの何だのと浮ついていたから、こういうことになったんでしょう。親が注意して何が悪い」
「声を荒げないでください」
職員さんが、はっきりと言った。
父の口が止まる。
部屋の空気が一瞬で固まった。
「最初に説明しました。威圧的な発言、声を荒げる行為があった場合、この面談は中断します」
「私は父親として——」
「父親であっても、です」
職員さんの声は揺れなかった。
「今の発言と声量も、記録に残っています」
その言葉に、父の顔がわずかに歪んだ。
母が慌てたように父の袖を掴む。
「あなた、落ち着いて……」
落ち着いて。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなる。やはり母は菜月が怖がっているから止めるのではない。
父が間違っているから止めるのでもない。
記録に残るから、止めるのだ。
一昨日と同じだ。
人が見ているから。不利になるから。
私は菜月の手を握る力を少しだけ強めた。
「……菜月は悪くない」
気づけば、そう言っていた。
父の視線が私に向いた。
背筋が冷えて、喉が詰まりそうになる。
それでも、私の口から言葉は止まらない。
「絡んできたのは向こう。先に手を出したのも向こう。菜月は、私を止めてくれただけ」
「……彩音」
父の声が、今度は私に向いた。昔から聞き慣れた声。逆らうな、と押さえつけてくる声。
「お前もお前だ。いつまで他人の家に厄介になっているつもりだ」
「……私は」
「お前も帰ってこい」
低い命令だった。
「そんな得体の知れない女のところにいても、良いことはないぞ」
得体の知れない女。
その言葉が怜奈さんに向けられたものだと理解した瞬間、胸の奥が熱くなった。怜奈さんは何も言わなかった。表情も変えない。ただ机の下で私の手を握る力が、少し強くなる。
「……得体の知れない女じゃない。怜奈さんは、私を助けてくれた人だよ。菜月のことも、ちゃんと守ろうとしてくれてる」
父が鼻で笑った。
「守る? 他人の子供を勝手に連れ込んでいるだけだろう」
「違う。菜月は、自分で来るって言った」
「それを止めない時点で、お前も同じだ」
父の声が低くなる。
「昔からそうだ。自分のこともまともにできないくせに、今度は妹まで巻き込むのか? 最近はマトモに戻ってきたと思っていたが」
喉が、きゅっと締まった。何度も聞いた言葉だった。耳の奥に染みついている声。
けれど、今回は違った。
「そこまでです」
相談担当の職員さんが、はっきりと言った。
「彩音さんを責める発言、同席者への侮辱、威圧的な発言がありました。これ以上続く場合、面談を中断します」
「……家族の話に、なぜ他人が口を出す」
「ここは家族だけの場ではありません」
怜奈さんが静かに言った。
父の視線が怜奈さんへ向く。
「彩音さんと菜月さんの意思を確認する場です」
「あなたに何が分かる」
父の声が、また少し大きくなった。
「他人の家庭に入り込んで、子供を連れ去って、保護者面をしているだけの女が何を。どうせ、そういう趣味でもあるのだろう?」
その瞬間、部屋の空気が凍った。
「発言を撤回してください。同席者への侮辱、ならびに彩音さんと菜月さんへの威圧的な発言として記録していますよ」
「記録、記録と……!」
父の声が荒くなった。ガタン、と椅子が大きな音を立てながら、父は立ち上がった。
菜月の手が、痛いくらいに私の手を握る。
私は反射的に菜月の前へ身体をずらした。
「座ってください」
職員さんが強く言った。
「私は父親だぞ!」
父が机に手をつけば長机がわずかに揺れる。
「父親が娘を連れて帰るのに、どうして他人の許可がいる!」
「落ち着いてください! 面談を中断します!」
職員さんが即座に告げた。もう一人の職員さんが立ち上がり、扉の方へ駆け寄る。
父はそれを見て、さらに顔を赤くした。
「逃げるのか、菜月。彩音!」
「っ……」
菜月の肩が震える。
「お前はいつからそんな薄情な子になった!親に心配をかけて、外で好き勝手して、それで被害者面か!」
「お父さん、退室してください」
「うるさい!」
父がこちらへ手を伸ばしかけた。その前に、怜奈さんが立ち上がった。
音はなかった。ただ、私と菜月の前に立つ。
「それ以上近づかないでください」
静かな声だった。けれど、父の足は止まった。
数秒後、扉が開き、応援で呼ばれた協会の男性職員が二人入ってくる。
「お父様、退室をお願いします」
「私は何もしていない!」
「退室を、お願いします」
同じ言葉が、淡々と繰り返される。
父はしばらく男性職員たちを睨みつけていたが、やがて乱暴に椅子を蹴った。
「……くだらん」
吐き捨てるように言って、父は扉へ向かう。
「あなた……」
母が慌てて立ち上がった。私たちへ何か言いたそうに視線を向ける。泣きそうな顔。
困ったような顔。駐車場で見た時と同じ顔。
けれど、結局は何も言わなかった。
「菜月……彩音……」
名前だけを呼んで、母は父の後を追った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
その瞬間、菜月の身体から力が抜ける。
私は慌てて、その手を握り直した。
「菜月、大丈夫?」
菜月はすぐには答えなかった。ただ、私の手を握ったまま、小さく息を吸って、吐いた。
「……大丈夫」
声は震えていた。
けれど、さっきよりもちゃんと聞こえた。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
その言い方に、胸が痛くなる。相談担当の職員さんが、静かに録音端末を確認した。
「本日の面談は、ここで中断とします」
その言葉で、ようやく終わったと分かった。
終わった。けれど、解決したわけではない。
父は謝らなかった。母も、何も言わなかった。菜月を傷つけたことも、私たちを責めたことも、全部そのまま残った。
それでも。
菜月は、連れて行かれなかった。
私も連れ戻されはしなかった。
「……想定より、かなり厳しいですね」
探索者登録を担当してくれた職員さんが、小さく呟いた。その声は、さっきまでの柔らかいものではなく、仕事の声だった。
相談担当の職員さんも、録音端末を確認しながら頷く。
「ええ。話し合いとして成立していません。声を荒げる、立ち上がる、本人へ接近しようとする、威圧的な発言を繰り返す。少なくとも、このまま帰宅させる判断はできません」
その言葉に、菜月の手がぴくりと動いた。
このまま帰宅させる判断はできない。
その言葉は重かった。
けれど、少しだけ救いにも聞こえた。
「警察と児童相談所には、こちらから正式に報告します」
相談担当の職員さんは、資料へ視線を落としながら続ける。
「一昨日の件、防犯カメラの確認状況、今回の録音記録。それから、菜月さん本人の帰宅拒否の意思も合わせて共有します。協会としても、安全確認が済むまでは、現在の保護先を維持する方向で提案します」
「……今すぐ、帰らなくていいんですか?」
菜月が小さく聞いた。職員さんは、菜月の方を見て、はっきりと頷いた。
「はい。少なくとも、今日この場で無理に帰すことはありません。いえ……今日の記録を見る限り、帰せない、という方が正しいですね」
その言葉に、菜月の肩から少し力が抜けた。
菜月の手が、私の手を強く握った。
私も握り返した。
相談室の中は、さっきまでと同じ白い壁で、同じ長机で、同じ椅子だった。
けれど、扉の向こうへ父と母が消えた後。
私はようやく、少しだけ息ができた。




