家族の話だからこそ
菜月を連れ帰った翌朝。
怜奈さんは朝早くから忙しそうだった。
協会への連絡と相談。菜月の学校への連絡。
それから、私の学校にも連絡を入れているらしい。
昨日の今日で、動きが早すぎる。
「はい。ええ、本人は今こちらにいます。怪我は軽いですが、父親から手を上げられたことは事実です。防犯カメラの有無については、協会側にも確認をお願いしています」
怜奈さんはスマホを手に淡々と話している。
声はいつも通り落ち着いているのに、内容は全然落ち着いていない。その様子を見ながら当事者である私と菜月は、ソファーに並んで座り、お茶を啜っていた。
「……私たち、当事者だよね?」
「うん」
「めちゃくちゃ置物じゃない?」
「うん」
菜月が湯呑みを両手で持ったまま、頷いた。
昨日の夜、怜奈さんに言われた通りに私たちは何も考えずに休んだ。
正確には、考えないように努力した。
お風呂では色々あった。色々ありすぎた……
菜月のことや父と母のこと、これからのこと。それから、怜奈さんに告白されたこと。
……いや、本当に色々ありすぎでは?
私は湯呑みを口元に運びながら、ちらりと怜奈さんを見る。
「はい。本人の意向としては、現時点では家に戻りたくないとのことです。保護者への連絡については協会か私を通した方が良いかと」
有能すぎる。昨日、お風呂で私を後ろから抱きしめながら「好きよ。付き合って」と爆弾を投下した人と同一人物とは思えない。
私は次に湯呑みを握ったまま、菜月を見る。
菜月も同じように、ぽかんと怜奈さんを見て、足元にいるクロの頭を撫でていた。
「怜奈さんって、すごいね」
「すごいよ」
「昨日の夜は、だいぶ重かったけど」
「それは言わないで」
私の頬が熱くなる。
菜月は少しだけにやっと笑った。
「告白されたもんね」
「朝から掘り返さないで」
「返事、どうするの?」
「今その話する!?」
「だって当事者なのに暇だし」
「暇だから恋愛相談始めるのやめて!」
私が小声で抗議すると、菜月は湯呑みに口をつけながら、どこか楽しそうに笑った。
昨日より、少し顔色がいい。頬にはまだ赤みが残っているけれど、表情は柔らかい。
そう思った、その時だった。テーブルの上に置いていた私のスマホが震えた。
表示された名前を見て、喉が詰まった。
母——その一文字だけで、昨日の駐車場の空気が戻ってきた。心臓が嫌な音を立てる。
指先が冷える。隣で菜月も画面を見て、表情を強張らせていた。
「……出なくていいわ」
怜奈さんの声がした。気づけば、いつの間にか通話を終えていたらしい。怜奈さんはスマホを机に置き、私たちの方へ歩いていた。
「まずは、私に見せなさい」
「……はい」
私は震える手でスマホを怜奈さんに渡した瞬間、着信が止まった。
けれど、すぐにメッセージが届いた。
『菜月を返しなさい』
『昨日のことは誤解です』
『お父さんも反省しています』
『一度、きちんと話しましょう』
短い文章が、立て続けに表示される。
反省。誤解。話しましょう。
そのどれもが、ひどく薄っぺらく見えた。
「反省してるなら、昨日言えばよかったじゃん」
菜月が小さく呟いた。その声は震えていた。
でも、昨日みたいに怯えて黙り込むだけではない。怜奈さんは画面を見て、静かに言う。
「会うつもりはある?」
「……会わなきゃ、駄目ですか?」
菜月が不安そうに聞く。
「無理にとは言わないわ。ただ、このまま逃げ続けるより、第三者を入れた場所で一度話した方が、今後の手続きは進めやすい」
「第三者……」
「私と、協会の担当者。それから必要なら児童相談所の人も呼ぶし、最悪は警察、ね」
怜奈さんは淡々と言った。
「場所はここではなく、協会の相談室がいいわ。あそこなら記録も残るし、何かあっても止められる。貴方達に危害は加えられない」
「……家じゃないなら」
菜月が私の服の裾を握る。
「あと……彩音も、いるなら」
「馬鹿だな。当たり前じゃん」
私は即答した。声は少し震えていたかもしれない。でも、既に迷いはなかった。昨日の今日で親への怖さを克服したわけではない。
怜奈さんと菜月、それにクロもいる。私を好きと言ってくれて、私を求めてる人がいる。
それだけで、私の迷いは無くなっていた。
「菜月だけに会わせたりしないよ」
「……うん」
菜月が小さく頷く。怜奈さんは私たちを見て、少しだけ目を細めて、口角を上げた。
「分かった。なら、こちらから条件を出す」
怜奈さんは私のスマホを操作し、母へ短く返信する。
『話し合いには応じます。ただし場所は探索者協会の相談室。彩音、菜月、現在二人を保護している氷室怜奈と協会担当者が同席します。また、録音あり。日時はこちらでの指定となります』
そう、スマホへ打ち込み、送信した。
その指遣いに迷いはなかった。
数秒後、すぐに母から返信が返ってくる。
『家族の話なのに、他人を入れる必要がありますか? 菜月と彩音はまだ、子供であり、貴女は他人の子供を攫っている自覚はあるのですか?』
その文章を見た瞬間、部屋の空気が冷えた。
家族の話。他人。攫っている。
並んだ言葉に、胸の奥が嫌な音を立てる。
「……攫ってるって」
菜月が呟いた。
その声は小さかったけれど、震えていた。
怖さというより、怒りに近い震えだった。
「私が、自分で来るって言ったのに」
「菜月……」
私は何か言おうとして、言葉に詰まる。母の文章を見ているだけで、昨日の駐車場の光景が蘇る。困ったように笑う母。父を止める理由が「人が見てるから」だった母。
それなのに、文章だけ見ればまるでこちらが悪いみたいだった。怜奈さんは表情を変えない。ただ、スマホの画面を静かに見ていた。
「怜奈さん……」
「大丈夫よ」
怜奈さんは短く答えた。
それから、迷いなく返信を打つ。
『昨日、父親が菜月に手を上げた事実があります。本人が帰宅を拒否している以上、第三者を入れない話し合いには応じられません』
淡々とした文章だった。
けれど、そこには逃げ道がなかった。
『また、菜月は自分の意思でこちらに来ています。こちらは協会および関係機関へ相談済みです。話し合いを希望される場合は、先ほど提示した条件でお願いします』
怜奈さんは文章を整えると、すぐに送信ボタンを押した。あまりにも早い。
私は思わず怜奈さんを見上げた。
「……怜奈さん、強いですね」
「必要なことをしているだけよ」
「それが強いんですよ」
私がそう言うと、怜奈さんは少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれない。
すぐに、また返信が来た。
『お父さんは反省しています。あの子も少し生意気なことを言ってしまっただけです。親子ならよくあることです』
菜月の手が、湯呑みを握ったまま強張った。
「……よくあること、なんだ」
ぽつりと落ちた声に、胸が痛む。昨日から何度も聞いた言葉が、全部同じところに繋がっていく気がした。
父が手を上げたことを、悪いことではなく、仕方のないことにしようとしている。
母も、それを止めるのではなく、薄く包んでなかったことにしようとしている。
「菜月」
私はそっと声をかける。
菜月は俯いたまま、小さく首を振った。
「大丈夫」
「……本当に?」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫」
それは、大丈夫ではない人の言い方だった。
私は湯呑みを置き、菜月の手に自分の手を重ねる。菜月の指先は少し冷たかった。怜奈さんは返信をせず、スマホをテーブルに置いた。
「これ以上、やり取りする必要ないわ」
「え?」
「向こうは言葉を変えて、こちらに罪悪感を持たせようとしている。今返し続けると、彩音も菜月も消耗するだけよ」
怜奈さんはそう言って、私たちを見る。
「話すなら、記録が残る場所で。第三者がいる場所で。それ以外では応じない」
「……はい」
菜月が小さく頷いた、その時、怜奈さんのスマホが震えた。今度は怜奈さん宛ての連絡らしい。怜奈さんは画面を確認し、すぐに通話へ出る。
「はい。氷室です」
短いやり取りのあと、怜奈さんの視線がこちらに向いた。
「……分かりました。では、明日午後二時。協会の相談室をお借りします。担当者の同席もお願いします。はい。よろしくお願いします」
「明日、ですか。昨日の今日で、話がトントン拍子に進んでいますね……」
「そうね。でも、早めに決着をつけた方がいいわ。先延ばしにすると、向こうが学校や家に直接動く可能性がある」
怜奈さんは淡々と言った。
その判断が正しいことは分かる。分かるけれど、明日もう一度父と母に会うのだと思うと、胃の奥がきゅっと縮む。菜月も同じらしく、湯呑みを握る手に力が入っていた。
その様子を見ていた怜奈さんが、スマホを置きながら静かに言う。
「終わったら、正式に氷室家で保護する形を取るのが一番安全ね」
「氷室家で保護……」
「ええ。学校や協会にも、その方が説明しやすい。何より私の家は力があるからね」
怜奈さんはそこで一度、真面目な顔で考え込んだ。
「ただ、彩音まで氷室家に入れると、将来的に結婚が難しくなるのかしら」
「ぶっ」
私は飲みかけのお茶を吹きかけた。
「怜奈さん!?」
「なに?」
「なに、じゃないです! 今、すごい自然にとんでもないこと言いましたよ!?」
「昨日、返事は待つと言ったでしょう」
「待つと言った人が翌朝に結婚の法的障害を考えないでください!」
菜月が隣でぽかんとしている。
それから、じわじわと口元を緩めた。
「怜奈さん、重いっていうか……もう将来設計してるじゃん」
「将来を考えるのは悪いことではないわ」
「悪くはないけど早すぎるんですよ!」
私が叫ぶとクロが足元で「わふ」と鳴いた。
まるで同意しているみたいだった。
「クロまで頷かないで!」
「わふぅ」
「絶対分かってないでしょ!」
菜月が小さく笑った。その笑い声に、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。怜奈さんはそんな私たちを見て、静かに言う。
「冗談はここまでにして」
「冗談だったんですか?」
「半分くらいは」
「半分本気なんですね……」
私は頭を抱えるが、怜奈さんは表情を変えないまま、私と菜月を見る。
「明日の話し合いでは、二人は無理に話さなくていいわ。答えたくないことは答えなくていい。怖かったら私を見て、合図しなさい」
「……はい」
菜月が小さく頷き、私も頷いた。
「父親が声を荒げた時点で止める。菜月に近づこうとしたら止める。彩音を責めるようなら、それも止める。話し合いの場は、親の言い分を通す場所ではないわ」
「……じゃあ、何の場所ですか?」
菜月が聞いた。
怜奈さんは少しも迷わず答える。
「二人が、これからどうしたいかを確認する場所よ」
その言葉に、菜月が息を呑んだ。
これから、どうしたいか。
今まで、そんなことをきちんと聞かれたことがあっただろうか。少なくとも、父と母からはなかった気がする。私は湯呑みを置いて、菜月の手にそっと触れた。
「菜月は、どうしたい?」
「……まだ、分かんない」
「うん」
「でも、今は帰りたくない」
「うん」
「彩音と一緒にいたい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「分かった」
私は菜月の手を握った。
「じゃあ、明日はそれだけ言えればいいよ」
「……うん」
菜月は小さく頷いた。
怜奈さんも静かに頷く。
「それで十分よ」
窓の外では、朝の光が差し込んでいる。昨日と同じ世界のはずなのに、少しだけ違って見えた。明日、もう一度父と母に会う。
怖い。怖くないわけがない。
それでも、今度は駐車場ではない。
菜月も、私も、一人ではない。




