激重感情は湯気に紛れない
「狭いって、言ったじゃないですか」
私は今、天を見上げている。正確には天井の照明だけど。
宣言通り、私と菜月、そして怜奈さんは三人でお風呂に入っていた。
後ろには怜奈さん。前には、なぜか向かい合う形で私を見ている菜月。完全に挟まれていて、サンドイッチ状態である。目のやり場も、逃げる場所もない。だから、私は諦めて天井を見ていた。
「狭いかしら?」
「狭いですねぇ……」
「そう」
「反応薄っ」
怜奈さんはいつも通り淡々としている。
けれど、私の肩に触れる手は妙に優しい。
凝っていないのに肩を揉んでくるし……。
湯船には、怜奈さんが入れた回復ポーションが薄く混ざっているらしい。
そのおかげか、頬の傷の痛みは少し和らいでいた。
……問題は、心の方である。
身体は女性になった。けれど、私が元々男だったことは消えない。
怜奈さんと入るお風呂は毎回、緊張と羞恥心との戦いだ。
そこに、実の妹まで加わった。
数年ぶりに一緒に入る妹は、小さい頃のままではない。当たり前だ。菜月も成長している。何がとは言わんが、成長しているのだ。私も、別の意味で変わりすぎているしね。
つまり、気まずい。
めちゃくちゃ気まずい。
「彩音、なんでずっと上見てるの?」
「照明の観察」
「絶対嘘じゃん」
「最近の照明はすごいなって」
「苦しすぎるでしょ」
菜月が呆れたように言う。その声が、さっきより少しだけ普通で、私は内心ほっとする。
頬には冷えピタを当てているけれど、表情は少し落ち着いていた。
「……頬、まだ痛い?」
「少し。でも、さっきよりマシ」
「そっか」
それ以上、何を言えばいいのか分からない。ごめん。助けられなくて。あんな父の前に連れて行って。もっと早く気づけなくて。言いたい言葉はいくつもあった。けれど、どれも今言うには重すぎる気がした。
そんなことを考えていると怜奈さんが後ろから腰に手を回して、後ろから呟いた。
「言ったはずよ。今日は何も考えずに身体を休めるってね」
「……はい。あの、身体を休ませるのと私を抱きしめるのには何の因果関係があると?」
「肌と肌、人と人の密着は心身ともに疲れや痛みを和らげるという論文があるわ」
そう言うと、怜奈さんの抱きしめる力が強くなって、首筋に顔を埋めてくる。
抱き枕にされているから、だいぶ慣れはしているが、目の前には菜月が居る。
うん、めちゃくちゃ恥ずかしいです。
「彩音……やっぱり、付き合ってるの?」
「えっ、は、いや……」
私は思わず天井から視線を戻す。
目の前の菜月は、冷えピタを頬に貼ったまま、じーっとこちらを見ていた。
「違う、違うから」
「じゃあ、なんでそんなに自然に抱きつかれてるの?」
「……慣れって怖いよね」
「否定になってないんだけど」
菜月の視線が痛い。頬の傷より痛い気がする。私は助けを求めるように、後ろの怜奈さんを見る。
正確には、後ろから抱きしめられているので見えないけれど。
「怜奈さん、何か言ってください」
「彩音は大切な子よ」
「そういうことじゃないです!」
「違うの?」
「違わないけど、今その言い方は誤解を招くんですよ!」
菜月が半目になる。
「やっぱり付き合ってるじゃん」
「付き合ってない!」
「怜奈さんは?」
「私は、彩音が嫌がらないならどちらでも」
「怜奈さん!?」
何を言っているんですか、この人は。
私が慌てると、怜奈さんは私の肩に額を預けたまま、淡々と言った。
「恋人とか作ったことないからよく分からないけど、連絡が来た時は焦ったし、私の前から彩音が消えるのは寂しいと思った……」
その声が、少しだけ低くなった。菜月の表情も、そこで少し変わる。私も言葉に詰まる。
怜奈さんの腕に、ほんの少し力が入った。
「この感情が好きというものに酷似しているなら、私は、好きなのかもしれないわね」
湯船の中で時間が止まる。いや、止まってはいない。
お湯は温かいし、湯気は上がっているし、怜奈さんの腕は私の腰に回ったままだ。
でも、私の頭は完全に止まった。
菜月も固まって、目を丸くしている。
そして、数秒後。
「え、今の告白じゃない?」
「違う!いや、違わないの? 怜奈さん!?」
「分からないわ」
「分からないで爆弾を投げないでください!」
私は思わず叫んだ。湯船の中で暴れそうになったけれど、後ろから怜奈さんに抱きしめられているせいで身動きが取れない。逃げ場がない。物理的にも、精神的にも。
「怜奈さん、今のどういう意味ですか?」
「言葉通りよ」
「言葉通りが一番困るんですけど!?」
「彩音がいなくなるのは嫌」
「はい」
「彩音が傷つくのも嫌」
「はい」
「彩音が一人で抱え込むのも嫌」
「はい」
「彩音が私の知らないところで壊れるのは、もっと嫌」
そこで怜奈さんの声が少しだけ低くなった。
「連絡を見た時、怖かったわ」
その一言で、私は何も言えなくなった。
私を抱きしめる怜奈さんの腕に力が入る。
強く抱きしめるというより、私がどこかへ行かないように確かめているみたいだった。
「彩音が怪我をしたこと。菜月が叩かれたこと。父親と対峙したこと。文章で読んだだけなのに、頭が冷たくなった。依頼中だったのに、戻ることしか考えられなかったわ」
いつもの怜奈さんは冷静だ。何があっても表情を崩さず、慌てる姿なんてほとんど見たことがない。
その怜奈さんが怖かったと言った。
「その時にふと、思ったことがあるの。彩音が傷つかないよう閉じ込めたい——行かせたくないってね」
その言葉に、私と菜月が固まる。菜月は冷えピタを貼ったまま、どう反応すればいいのか分からない顔をしていて、私もいきなりのカミングアウトに驚愕してしまう。
「怜奈さん……?」
「分かっているわ。そんなことを言う権利は私にはない。彩音は彩音の人生を選ぶべきだし、誰かの所有物ではない。私が縛っていい相手ではない」
怜奈さんは淡々と言う。
淡々としているからこそ、その言葉が余計に重かった。
「でも、そう思ってしまった」
私の肩に、怜奈さんの額が軽く触れる。
「……重いですね」
思わず、そう呟いていた。
怜奈さんは否定しなかった。
「ええ。重いわ」
「否定しないんですか」
「しない。たぶん、私は彩音に対して重い。初めて会った時から、たぶん、ずっと」
あまりにも真顔で言われて、私は何も言えなくなる。湯船の中は温かいはずなのに、胸の奥だけが熱くなったり冷たくなったりしていて騒がしい。初めて会った時から、どうしてこんなにも優しくしてくれるのか不思議だった。けれど今、少しだけ分かった気がした。
「……あぁ、なるほど」
不意に、怜奈さんが小さく呟いた。
「何がですか?」
「やっぱり私は彩音が好きだと思うわ」
「えっ」
怜奈さんは真面目な顔のまま続けた。
「恋愛感情というものがよく分からなかったけど、今の話をしていて整理できた気がする」
「いや、急に整理しないでください!」
怜奈さんは不思議そうに首を傾げ、そして。
「彩音」
「は、はい」
「好きよ。付き合って」
その言葉を聞いて、私の脳が死んだ。いや、死んではいない。
たぶん動いてはいる。けれど、まともな言葉を生成する機能は完全に停止していた。
「……いや、今このタイミングで告白する?」
菜月が真顔で言った。
「整理できてしまったから」
「整理できたからで告白する人、初めて見たんだけど……怜奈さんって結構な天然だね」
菜月と怜奈さんの会話を聞きながら、ようやく私の脳が現実に追いついてくる。
「……え?」
だが、絞り出せた声はそれだけだった。
「……好きよ。付き合って」
「いやいや、二回言わないでください!?」
「返事がないから、聞き取れなかったのかと思って」
「聞き取れてます! 聞き取れたから困ってるんです!」
私が叫ぶと、目の前の菜月が冷えピタを頬に貼ったまま、ゆっくりと手を叩いた。
ぱちぱちぱちと乾いた音がお風呂場に響いた。
「おめでとうございます」
「菜月!?」
「いや、これはもう祝うしかないでしょ」
「祝う段階じゃない!」
「でも、告白されたじゃん」
「されたけど!」
「しかもお風呂で」
「そこは言わないで!」
「さらに、妹の前で」
「もっと言わないで!」
菜月は少しだけ楽しそうに笑った。
さっきまでの痛々しい空気が、少しずつ湯気に紛れて薄れていく。
「というか、付き合う前から距離感おかしくない?」
「それはぁ……そうだけど!」
「後ろから抱きしめられて、閉じ込めたいくらい好きって言われて、嫌じゃなさそうな顔してるのに? へぇ。彩音、意外と束縛されるの嫌いじゃないんだ」
「っ! 顔で、分析するのやめて!?」
私は思わず天井を見上げた。照明が眩しい。
現実逃避には向いているけれど、現実はまったく消えてくれない。
「彩音」
怜奈さんが静かに私を呼ぶ。
「返事は、今すぐでなくていいわ」
「……いいんですか?」
「言葉にできたから今日はそれでいい」
怜奈さんの腕が、少しだけ緩む。
「私は彩音を縛りたいわけではないもの」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛くなった。
重い。やっぱり重いと感じる。でも、その重さは私を押し潰すだけのものではなかった。
「ただ、好きだと分かったから言った。それだけよ」
「……それだけで、こっちは大事件なんですけど」
真面目に頷かれて、私はもう何も言えなくなった。
すると菜月が、にやにやしながらこちらを見た。
「で、彩音は?」
「で、とは」
「好きなの? 嫌いなの?」
「今それ聞く!?」
「妹としては大事なところなので」
「妹を盾にするな!」
菜月は悪びれもせず肩をすくめる。怜奈さんは何も言わない。
ただ、私の返事を待つように、静かに後ろから抱きしめている。
「……嫌いじゃ、ないです」
ようやく、私はそれだけ絞り出した。
菜月の目が細くなる。
「ほぼ好きじゃん」
「違う! 違わないけど違う!」
「どっち?」
「分かんない!」
私が叫ぶと、怜奈さんがほんの少しだけ息を漏らした。
たぶん、笑ったのだと思う。
「分からないなら、分かるまで待つわ」
「……はい」
「でも、抱きしめるのは続けてもいい?」
「今、その確認します!?」
「大事なことよ」
真面目な声だった。私は顔を熱くしながら、もう一度天井を見上げる。
照明は相変わらず眩しい。けれど、さっきより少しだけ、逃げ道に見えなくなっていた。
「……少しだけなら」
そう答えた瞬間。
「はい、両想い」
菜月が即座に言った。
「菜月!」
私の情けない声が、お風呂場に響いた。




