あの家ではなく、ここにいる
クロが菜月にスリスリと体を擦り付けながら匂いを嗅いでいた。
「彩音、大丈夫? 噛んだりしないよね」
「大丈夫、大丈夫。クロはモンスターだけど、犬だから」
「いや、犬じゃないでしょ」
「心は犬」
「余計に分からないんだけど」
菜月が困惑したように言うと、クロは「わふ」と鳴いて、さらに菜月の膝へ鼻先を押しつけた。完全に甘えている。さっきまでダンジョンで父に叩かれたばかりの菜月に対して、容赦なくクロは甘えている。
「クロ、菜月は疲れてるんだから、少し落ち着いて」
「わふぅ……」
クロは不満そうに鳴いたが、私の言葉は分かっているらしく、菜月の足元で伏せた。
ただし、尻尾だけはぶんぶん振っている。
……犬だな。
両親と喧嘩、というか、決別みたいなことをした私は、菜月を居候先である怜奈さんの家へ連れて帰ってきた。怜奈さんには帰り道でメールを送った。父と母に会ったこと。菜月が叩かれたこと。菜月を連れてきたこと。
正直、怒られると思った。勝手に人を連れてきたのだから、当然だ。
けれど、怜奈さんから返ってきたのは短い一文だけだった。
『すぐ戻るわ』
そして、その十分後——玄関の扉が開いた。
「彩音」
息を切らした怜奈さんが立っていた。
今日は確か、家から駅を二つ跨いだ場所にあるダンジョンで依頼があると言っていた。
なのに、目の前の怜奈さんは、額に少し汗を滲ませている。爆速の帰宅であった。
「怜奈さん、早くないですか?」
「急いだから」
「いや、急いだからで済む距離じゃないですよね?」
「問題ないわ」
問題しかない気がする。怜奈さんは靴を脱ぐと、真っ先に私の方へ近づいてくる。
私は顔が見えないように逸らそうとしたが、怜奈さんは私の顔を両手で掴み正面に向かせる。
私の頬の傷が、露わになる。
「……傷」
「あ、これは大丈夫です。もうほとんど——」
「大丈夫かどうかは、私が見る」
静かな声、怒っているわけではない。
でも、逆らえないような圧のある声だった。
私は大人しく座る。怜奈さんは棚から救急箱を取り出し、消毒液とガーゼを用意した。
「痛かったら言って」
「はい」
消毒液が頬に触れれば、少しだけ染みた。
「痛い?」
「ちょっとだけ」
「そう」
怜奈さんの手つきは丁寧だった。いつも通り無表情なのに、どこか慎重で、少しだけ怖いくらい優しい。
その様子を、菜月がソファーの端からじっと見ていた。クロは菜月の足元で伏せたまま、菜月の膝に顎を乗せている。
「……怜奈さん」
菜月が小さく声を出した。
「なに?」
「すみません。急に来て」
「謝ることではないわ」
「でも、迷惑じゃ……」
「迷惑ではない」
怜奈さんは即答した。
「菜月さん——菜月も来なさい」
その言葉に、菜月の顔がビックリしたように固まる。
何を言われたのか分かっていない様子に見える。
「え、私もですか?」
「ええ」
「私は大丈夫です。少し叩かれただけで……」
「大丈夫かは、私が見て決めると言った」
さっき私にも言った台詞を、怜奈さんはそのまま菜月にも向けた。菜月は一瞬だけ私を見る。
どうしたらいいか分からない、という顔と、私に遠慮しているようにも見える顔だ。
私は小さく頷く。
「見てもらった方がいいよ」
「……うん」
菜月はおずおずとソファーから立ち上がり、クロが名残惜しそうに「わふぅ」と鳴く。
菜月はクロの頭を一なでしてから怜奈さんの方へ歩きはじめようとして動きを止めた。
なぜなら、怜奈さんが正座になって、膝をポンポンとし始めたからだ。
「……怜奈さん?」
「なに?」
「何してるんですか?」
「菜月の顔を見るには、この方が安定するでしょう」
「いや、分からなくはないですけど、絵面が完全に膝枕待ちなんですよ」
「膝枕ではないわ。治療よ」
「治療の姿勢じゃないんですよ」
私がそう言うと、菜月は頬を押さえたまま困惑した顔をした。
「え、私、そこに?」
「嫌なら椅子でもいいわ」
「いや、嫌っていうか、距離感がすごくて」
「怪我人だから近くで見る必要がある」
「そういう問題かなぁ……」
菜月は戸惑いながらも怜奈さんの前に座る。さすがに膝の上ではなく、少し近い位置に座るだけで落ち着いたらしい。怜奈さんは菜月の頬を確認する。父に叩かれた方の頬は、うっすら赤くなっていた。
見るだけで胸の奥がざわつく。
「……腫れているわね」
「大丈夫です。これくらい」
「大丈夫じゃない。放置すればアザになる」
「……はい」
菜月が小さく頷く。
怜奈さんは濡らしたタオルを用意して、菜月の頬にそっと当てた。
「っ……」
「痛む?」
「……少しだけ」
「我慢しなくていいわ。痛いなら痛いと言いなさい」
「……痛いです」
菜月がそう言うと、怜奈さんは短く頷いた。
「分かった。しばらく冷やしましょう」
怜奈さんの声は淡々としている。
けれど、手つきはひどく丁寧だった。菜月はタオルを頬に当てられたまま、俯いた。
「……すみません」
「謝る必要はないわ」
「でも、急に来たし。迷惑かけてるし」
「迷惑ではない」
「でも……」
菜月の声が細くなる。
「私、家に帰らないって言っちゃったし。彩音も連れていくって言っちゃったし。これから、どうしたらいいのか分かんなくて……」
その言葉で部屋の空気が少しだけ重くなる。
そうだ。連れてきた。
もう戻さないと言った。
でも、それで終わりではない。
菜月には学校がある。荷物も家にある保護者の問題もあるし、父と母がこのまま黙っているとも思えない。
私は膝の上で手を握る。
「怜奈さん、私……」
「彩音」
怜奈さんが静かに私の名前を呼んだ。
「今は、二人とも休みなさい」
「でも」
「協会には私から連絡するわ。ダンジョン内でのトラブルと、その後の件も含めて相談する。必要なら警察や児童相談所にも繋ぐ」
「児童相談所……」
菜月が小さく呟いた。その言葉は、妙に現実味があった。
さっきまで勢いで動いていたことが、急に大きな形を持って目の前に置かれたような気がする。
怜奈さんはスマホを手に取る。
「聞いた話だと、近場の駐車場だったのよね? なら、協会管理かもしれないし、何より防犯カメラの記録が残っているかもね」
「……あ」
私は思い出す。駐車場の隅で点滅していた、小さな赤いランプ。
あれは、もしかして……。
「映ってるかもしれないんですか?」
「可能性はあるわ」
「じゃあ……」
菜月が顔を上げる。その目には、不安と、ほんの少しの希望が混じっていた。
「証拠、あるかもしれないんだ」
「ええ」
怜奈さんは頷く。
「だから、今は勝手に動かないこと。家には戻らない。親から連絡が来ても、すぐに返事をしない。まずは私に見せなさい」
「……はい」
菜月が素直に頷く。
怜奈さんは今度はこちらを見る。
「彩音もよ」
「え、私もですか?」
「当たり前でしょう。あなたは勢いで突っ走るから」
「否定できませんね……」
今日だけで、見守りに失敗し、職務質問されてナンパ男にキレかけ、父と母に啖呵を切って妹を連れ帰ってきた。びっくりするぐらい否定できる要素が一つもない。
「今日は何も考えずに休みなさい」
怜奈さんはそう言って、救急箱を閉じた。
「よし、お風呂に入るわよ。身体を温めた方がいいわ。回復ポーションも混ぜて、少しでも回復を早めましょう」
菜月が少しだけ固まり、私も固まった。なぜなら、怜奈さんの言い方があまりにも自然だったからだ。まるで「手を洗ってきなさい」くらいの軽さで、お風呂と言った。
「怜奈さん」
「なに?」
「まさかとは思いますけど、三人で入るとか言いませんよね?」
「言うわ」
「言った!」
即答——菜月が目を丸くする。
「え、三人で?」
「嫌なら無理にとは言わないわ。でも、今日は一人にしない方がいいと思う」
「……」
その言葉に菜月は黙った。たぶん、菜月も分かっている。一人になったら、さっきのことを思い出す。父の声。頬の痛み。母の顔。駐車場の空気。全部が、頭の中に戻ってくる。
菜月は濡れタオルを頬に当てたまま、小さく頷いた。
「……じゃあ、一緒で」
「えっ、本当に?」
「彩音、なんでそっちが驚いてるの」
「いや、だって、急に妹とお風呂は心の準備が……」
「昔は普通に入ってたでしょ」
「昔と今は違うというか、私は今こういう身体というか」
「じゃあ私も気まずいけど?」
「ですよね!」
私が慌てると、菜月は少しだけ笑った。本当に、少しだけ。
けれど、その笑顔を見られただけで胸の奥が少し軽くなる。
怜奈さんはそんな私達を見て、静かに言う。
「着替えは私のものを貸すわ」
「怜奈さんの服、菜月には大きくないですか?」
「彩音にも大きいでしょう」
「それはそうですけど」
「文句があるなら裸で過ごす?」
「ありません! ありがとうございます!」
菜月が小さく吹き出した。クロもなぜか「わふ」と鳴いた。少しだけ、空気が緩む。
まだ何も終わっていない。父も母も、きっとこのままでは済ませない。
明日になれば、もっと面倒なことになるかもしれない。
それでも、今この瞬間だけは。
菜月は、あの家ではなく、ここにいる。
その事実だけで少しだけ救われた気がした。




