もうここには戻さない
そこに立っていたのは——父と母だった。
「……お父さん、お母さん」
菜月の声が小さく震えた。私は何も言えなかった。喉が固まったみたいに声が出ない。心臓が嫌な音を立て、手のひらに汗が滲む。頬の傷がじくじく痛むのに、それよりも胸の奥の方がずっと苦しかった。
どうして、なんで、ここにいる?
頭の中で、同じ言葉ばかりが回る。
最初に動いたのは、母だった。
「菜月!」
私ではなく菜月の方へ駆け寄る。母は菜月の肩を掴み、顔や腕を慌てたように確認した。
「大丈夫! 怪我はない!? 配信で見て、もう心配で……!」
「私は、大丈夫……」
菜月が戸惑ったように答える。
その横で父はゆっくりこちらへ歩いてきた。
昔と同じ顔だった。眉間に皺を寄せて、不機嫌そうで、こちらの言葉を聞く前から何かを決めつけているような顔。
「何をしているんだ」
低い声に身体が勝手に強張った。私に向けられた声なのか、菜月に向けられた声なのか。それすら分からなかった。
「ダンジョンで騒ぎを起こして、菜月まで巻き込んで——」
「違う!」
菜月が父を見上げて声を上げた。
「彩音は私を助けてくれただけで……」
「菜月」
父が短く名前を呼んだ。
それだけで、菜月の言葉が止まる。
その瞬間、周囲のざわめきが耳に入った。
「え、あれ家族?」
「半サキュバスの子だよな」
「さっきの配信の……」
「親っぽくない?」
探索者たちがこちらを見ている。監視員も、少し離れた場所で様子を窺っていた。そんな様子に、父の眉間の皺が、さらに深くなる。
「……ここで話すことではないな」
父は周囲を一瞥してから、低く言った。
「車を近くに停めてある。来なさい」
命令口調で、以前と変わらない。菜月の握っていた手が、さっきより少し強くなった。
「彩音……」
その声で、ようやく私は息を吸えた。
逃げたい——今すぐこの場から離れたい。
でも、菜月がいる。菜月だけをこの人たちの前に置いていくことはできない。せっかく昔みたいに、少しだけ気楽に話せるようになったのに私だけ逃げるなんて事は出来ない。
いや、したくなかった。
「……分かった」
声は、自分でも驚くほど小さかった。父は何も言わずに背を向け、母は菜月の手を取ろうとした。けれど菜月が私の手を離さなかったから、少しだけ困ったような顔になる。
「菜月……?」
「私、彩音と行く」
菜月がそう言った。母は一瞬、目を丸くする。父は振り返らないまま、短く言った。
「早くしろ」
その声に、また胸の奥が冷える。
私と菜月は手を繋いだまま、父と母の後を追った。ダンジョンの出口から少し離れた駐車場へ向かう道のりは、たった数分のはずなのに、やけに長く感じる。
駐車場には、父の車が停まっていた。
見慣れた車だった。昔、何度も乗ったはずの車。けれど今は、それを見るだけで胸の奥が重くなる。父は車の前で立ち止まると、ようやくこちらを振り返る。母は菜月の様子を確認してから、ゆっくりと私へ視線を向けた。
その視線は銀色の髪へ。黒いツノへ。頬の傷へ。上着の裾から覗く尻尾へと動いていく。
まるで、知らないものを確かめるみたいに。
「……本当に、彩音なのね」
母が小さく呟いた。
その声に、心臓が嫌な音を立てる。名前を呼ばれただけなのに、身体が勝手に強張った。
「髪も……こんなに綺麗になって」
母が一歩近づいてくる。
「顔も、昔よりずっと……」
そこで言葉を切る。
けれど、その続きを言わなくても分かった。
可愛い。女の子みたい。いや、今は本当に女の子なのだと。母の目は、私を見ているようで私を見ていなかった。外側だけをなぞっている。今の私がどんな気持ちでここに立っているのかなんて、少しも見えていないらしい。
母の手が、私の頬へ伸びる。
「怪我、してるじゃない。見せて——」
「っ!」
反射的に、一歩下がっていた。母の指先が空を切る。その瞬間、母の顔が固まった。
「……彩音?」
「触らないで」
自分でも驚くほど、か細い声だった。けれど、確かに拒絶の言葉だった。
母の表情が揺れる。傷ついたような顔だ——
でも、その顔を見ても、胸は痛まなかった。
それよりも、触られそうになった頬が熱い。
背中に冷たい汗が滲む。
尻尾が勝手に身体の後ろで強張っていた。
「そんなつもりじゃ……ただ、怪我を」
「大丈夫だから」
私は母から目を逸らす。見ていられなかった。
昔と同じ声。昔と同じ距離感。
なのに、今の私にはそれがひどく怖かった。
「怪我の話は後でいい。それより、どういうことだ。騒ぎを起こして、菜月まで巻き込んで、相手の配信に映りこんでしまって、変な噂が広まっているぞ」
「……だから違うって言ってるでしょ」
菜月が父を睨むように見た。
「彩音は私を助けてくれたの。絡んできたのは向こうで、先に攻撃してきたのも向こう」
「菜月」
父が短く名前を呼ぶ。それだけで、菜月の肩がびくりと震えた。けれど、今度の菜月は黙らなかった。元から負けん気のある子だった。
「……何」
「親に向かって、その口の利き方はなんだ」
低い声。昔から聞き慣れた声。
怒鳴っているわけではないのに、逆らうなと押さえつけてくる声だった。
「お父さん、今はそんな話じゃないでしょ」
「そんな話だ」
父の目が細くなる。
「お前が勝手に探索者登録などするから、こういうことになる」
「勝手にって……適性検査だけでも受けろって言ったの、お父さんじゃん」
「俺は、そんなつもりで言ったんじゃない」
父は当然のように言った。
「お前が真に受けただけだ」
その言葉に、菜月の顔が強張る。
母が慌てたように間に入った。
「違うのよ、彩音。最近、私たちがあなたの配信とか探索者の話をしていたから、菜月も気になっちゃっただけなの」
母は困ったように笑う。
「お父さんも、別に本気で言ったわけじゃないのよ。菜月にも適性検査くらい受けてみたらって、冗談みたいに言っただけで、ね?」
冗談。
その言葉に、菜月の手がぴくりと動いた。
「……冗談じゃなかった」
菜月が小さく呟く。母は一瞬だけ黙った。
けれど、すぐに笑顔を作り喋り出す。
「菜月。そういう言い方をしないの」
「だって、違うじゃん」
菜月の声が震える。
「お父さんもお母さんも、毎日みたいに彩音の話してた。探索者は稼げるとか、配信で人気が出たらすごいとか。私にも、ちゃんと将来のこと考えなさいって」
「菜月」
父の声がさらに低くなる。
「余計なことを言うな」
「余計じゃない!」
菜月が叫んだ。その瞬間、空気が凍った。
私の手を握っていた菜月の手が震えている。それでも、菜月は父から目を逸らさない。
「私、嫌だった。彩音が出ていってから、家の中ずっと変だった。お父さんもお母さんも直接言わないだけで、ずっと彩音のこと見てて。でも私には、ちゃんとしろって言って」
「菜月」
「彩音は悪くないじゃん!」
菜月の声が、駐車場に響いた。
「彩音は、自分で選んだだけじゃん! そうさせたのは、私たち家族の方じゃん! それなのに、お父さんたちは——」
一瞬だった——パチンと乾いた音がした。
私は、何が起きたのか分からなかった。
菜月の顔を見れば、顔が横に弾かれていた。
母が小さく息を呑む。父は手を下ろしたまま、当然のような顔をしていた。
「親に向かって、何だその口の利き方は」
その声を聞いて、私の中で何かが切れる。
さっき男たちに向けた怒りとは違う。もっと深くて、もっと古い場所から湧いてくるものだった。
「……菜月に」
声が震える。私は菜月の前に出た。今度は、尻尾ではない。声でもない。
ただ、自分の足で、父との間に立った。
「菜月に、手を上げた?」
父が眉をひそめる。
「しつけだ」
「違う」
即答していた。
ビックリするぐらい喉が痛くて、手はガタガタに震えていた。そして、心臓がうるさい。
それでも、今度は逃げなかった。
「それは、しつけじゃない」
父の目が鋭くなる。
「親が子供を叱って何が悪い」
「叱るのと、殴るのは違う」
声はまだ震えていた。
でも、止まらなかった。
「それは、虐待だよ」
父の顔が、わずかに歪んだ。
「勝手に家を出ていった人間が、今さら家族面するとはな」
「家族だよ」
私は菜月の手を握った。
「菜月は、私の妹だから」
父が一歩近づく。反射的に身体が強張った。
怖い。今でも怖い。探索者になって力だって私の方が強いはずなのに、怖かった。
それでも、菜月の前からはどかなかった。
母が慌てたように父の腕を掴む。
「あなた、やめて。人が見てるから」
「……」
その言葉に、私は母を見た。
人が見てるから。そうじゃない。
殴ったから、止めるんじゃない。
菜月が傷ついたから、止めるんじゃない。
見られているから、止めるのだ。
そのことが、ひどく冷たく胸に落ちた。
「彩音、お願い。お父さんを怒らせないで」
母が小さく言った。
その瞬間、頭の奥がすっと冷える。
「怒らせたら、殴っていいの?」
母の口が止まった。
私は菜月の手を握ったまま、父を見る。
「菜月は連れていく」
「何を勝手なことを言っている」
「勝手じゃない」
私は震える息を吐いた。
「菜月は、もうこの人たちのところには置いていけない」
「家族の問題だ」
「なら、協会にも、警察にも、そう説明すればいい」
言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。でも、言えた。言ってしまえた。
昔なら絶対にできなかった。父の目を見るだけで息が詰まっていた相手を、今、真正面から見ている。
菜月が、私の後ろで小さく息を呑んだ。
「……彩音」
その声は震えていた。
けれど、私の手を握る力は緩まなかった。
「帰ろう」
父の目がわずかに細くなる。
「そうだ。分かれば——」
「違う」
私は父の言葉を遮った。
「私と一緒に帰る」
父の表情が固まり、母の顔が青ざめた。
私は菜月の手を握ったまま、一歩下がった。
「菜月は、もうここには戻さない」
父は何かを言おうとして、けれどすぐには言葉が出ないようだった。母も青ざめた顔で、私と菜月を交互に見ている。
昔なら、その沈黙だけで動けなくなっていただろう。父の不機嫌そうな顔を見るだけで、謝らなきゃいけない気がしていた。母の困ったような顔を見るだけで、自分が悪いのだと思っていた。
でも、今は違う。
私の後ろで菜月が小さく息を震わせている。
握った手が、まだ熱い。叩かれた頬が痛いだろうに、それでも菜月は私の手を離さない。
だったら——私も離さない。
「行こう、菜月」
できるだけ優しく言ったつもりだった。
けれど、声はまだ少し震えていた。
菜月は一瞬だけ父と母を見る。
それから、私を見て、小さく頷いた。
「……うん」
その返事を聞いた私は、菜月の手を引いた。
父が何かを言いかける。
母が一歩、こちらへ踏み出しかける。
でも、私は振り返らなかった。背中に父の視線を感じるだけで、足が竦みそうになる。
それでも、止まらなかった。菜月だけは、この手だけは、絶対に離さない。
私は菜月の手を握ったまま、駐車場を後にした。
駐車場の隅では、小さな赤いランプが点滅している。
その意味に、その時の私はまだ気づいていなかった。




