見守り失敗しました
東区特殊Eクラスダンジョン。
その1層は、私がこれまで潜ってきたダンジョンとは少し雰囲気が違っていた。
洞窟のような薄暗い通路ではない。湿った土の匂いに高く伸びた木々。
足元には草が生い茂り、頭上からは木漏れ日が差し込んでいる。
まるで、どこかの森に迷い込んだみたいだ。もっとも空を見上げても本物の空ではない。青空に見える天井は、どこか作り物めいていて、遠くの方では魔力の揺らぎが薄い膜のように光っている。
綺麗ではある。綺麗ではあるのだが。
「……菜月、大丈夫かな」
私は木の陰に身を隠しながら小さく呟いた。
視線の先では、菜月が一人でスライム型の魔物と向き合っている。手には協会で貸し出された初心者用の短剣。腰には支給品らしい小さなポーチ。動きはぎこちないけれど、逃げ腰というほどではない。
ちゃんと構えて、相手を見ている。
「よし。いいよ、菜月。そのまま距離を取って。無理に突っ込まないで。そう、そうそう……!」
思わず声が出そうになり、私は慌てて口元を押さえた。
駄目だ。私は今日、菜月にバレないように後ろから見守るために来ている。
つまり、私は今——自称お姉ちゃんとして、妹の初ダンジョンを陰ながら見守っているのである。
……言い方を変えれば、尾行とも言う。
「いや、違う。これは見守り。怜奈さんもそう言っていた。見守り。合法。たぶん合法」
自分に言い聞かせるように呟く。
すると、近くを通りかかった探索者らしき男女が、こちらをちらりと見た。
「……ねえ、あの人」
「黒いフードにマスクにサングラスって、怪しすぎない?」
「ダンジョン内であの格好は目立つだろ」
「通報した方がいいかな……」
聞こえている。めちゃくちゃ聞こえている。
私はそっと木の陰に身体を寄せた。
今日の私は、怜奈さんの助言通り、目立たない格好をしている。黒いフード付きの上着。顔を隠すためのマスク。目元を隠すサングラス。尻尾は上着の内側に無理やりしまって、ツノはフードで隠している。
完璧だと思った。思ったのだが……鏡で見た時点で、少しだけ嫌な予感はしていた。
「……完全に不審者だよね、これ」
分かっている。自覚はある。
しかし、銀髪、黒ツノ、尻尾の生えた私が普通に歩いていたら、それはそれで目立つのだ。
ならば、多少怪しくても顔を隠すしかない。多少というか、かなり怪しいけれど。
「でも、菜月にバレるよりはマシ……!」
そう思って視線を戻すと、菜月が短剣を振るったところだった。
スライムの身体がぷるんと揺れ、刃が表面を浅く裂く。
けれど、核には届いていない。
「っ、硬い……!」
菜月が小さく声を漏らす。スライムは反撃するように跳ね、菜月の足元へ飛びかかった。
「菜月!」
叫びそうになって、飛び出しそうになる。
けれど、私は木の陰で足を踏み止めた。
怜奈さんの言葉が頭をよぎる。
——菜月の経験を全部奪わないこと。
分かっている。これは菜月の初めての戦い。
私が勝手に飛び出して終わらせたら、菜月は何も得られない。だから我慢。我慢だ、私。
「避けて……!」
声にならない声で呟いた瞬間、菜月は横へ転がるように回避した。
スライムが地面にぶつかり、草が跳ねる。菜月は息を荒しながらも、立ち上がった。
「……っ、まだ!」
その目を見て、胸の奥が少し熱くなる。
小さい頃はお姉ちゃん、お姉ちゃんと言いながら私の後ろをついて来ていた可愛い妹が、今は目の前のモンスターと対峙して、臆せずに戦っている。
「……頑張れ」
小さく、誰にも聞こえないように呟く。
菜月は短剣を握り直し、スライムの動きをじっと見る。
跳ねる瞬間、着地の瞬間。核が一瞬だけ表面近くに浮かぶ、その隙——。
菜月が踏み込んだ。
「やっ!」
短剣が振り下ろされる。刃がスライムの身体を裂き、奥にあった小さな核へ届いた。
ぱきん、と乾いた音と共にスライムの身体が崩れ、透明な液体のように地面へ溶けた。
菜月はしばらくその場で固まっていた。それから、ゆっくりと息を吐く。
「……倒せた」
その声が、少しだけ震えていた。
私は木の陰で、思わず両手を握りしめる。
「倒した……! 菜月が倒した……!」
叫びたい。褒めたい。今すぐ飛び出して頭を撫でたい。けれど、私は見守り役である。自称お姉ちゃんは、ここで飛び出してはいけない。だから私は木の陰で人、静かに拳を握った。
その瞬間だった。
「……あの、すみません」
背後から声をかけられた。私はぎくりと肩を跳ねさせる。
ゆっくり振り返ると、そこには協会の監視員らしき男性が立っていた。
「先ほどから、初心者探索者の後をつけているように見えるのですが」
終わった。私は黒いフードにマスクにサングラスという完全不審者スタイルのまま、静かに冷や汗を流した。
「……違います」
「違うんですか?」
「見守りです」
「見守り」
「妹の初ダンジョンを、陰ながら見守っているだけです」
「妹さんに許可は?」
「……ありません」
「では、少しお話を」
私は天を仰いだ。
怜奈さん。見守るのって、思っていたより難しいです。
* * *
その後、私は身分証を出して事情を説明し、なんとか誤解を解いた。幸いにも監視員さんは私のことを知っていたらしい。配信で見たことがあるとか、黒牙狼をテイムした半サキュバスだとか、色々と言われて心が削れたけれど、通報されなかっただけありがたい。
「危なかった……」
本当に危なかった。見守り開始から十分も経たずに職務質問されるとは思わなかった。
怜奈さんに知られたら、絶対に呆れられる。
私は木の陰に身を隠しながら、移動を始めた菜月の背中を追いかける。菜月は初心者らしく周囲をきょろきょろ見ながら歩いている。危なっかしいと言えば危なっかしいけれど、それ以上に気になることがあった。
「……なんか、菜月、めちゃくちゃ声かけられてない?」
さっきから、すれ違う探索者がちらちら菜月を見ている。
中には、初心者だと分かったのか、声をかけようとしている人もいた。
いや、分かる。
菜月は普通に可愛い。くそ可愛いのだ。
妹だから贔屓目が入っているとかではなく、普通に顔立ちは整っているし、制服姿で初心者装備を持っている今の姿は、いかにも守ってあげたくなる雰囲気がある。
分かる。分かるのだが——
「……私、半サキュバスなんだけどな」
銀髪。黒いツノ。尻尾。種族的には、むしろ声をかけられる側のはずでは?
いや、声をかけられたいわけではない。ないのだけれど。
「なんで菜月の方がナンパされてるんだろう……」
自分で言って、すぐに虚しくなった。いや、今の私は黒いフードを被った怪しい人。
声をかけられる以前の問題か。さっきも通りすがりの探索者に道を譲られたし。
「……そりゃそうか」
私は自分の格好を見下ろし、小さくため息を吐いた。
サキュバス。ただし、不審者仕様。
これでは魅了も何もあったものではない。
そんなくだらない事を考えていた時だった。
「だからさ、初心者なんでしょ? 俺たちと一緒に行った方が安全だって」
軽い男の声が聞こえた。私は足を止める。
視線の先、少し開けた場所に菜月がいた。
その前には探索者らしい男が二人。片方の肩には小型の配信用ドローンが浮かんでいる。
「……」
いや、マジか。ダンジョンでナンパする奴いるのか……
私は木の陰に身を寄せ、息を殺した。
「嫌です」と菜月は、はっきりと言っているが、男は笑って菜月に捲し立てるように喋りかけて、聞く耳を持っていないようだ。さらに男の視線が顔から胸へ、その下へと動いていて——明らかに下心しかない。
これ、でしゃばってもいいのかな?
アウトじゃないよね。可愛い妹を守るのも家族——お姉ちゃんの役目だよね?
私はゆっくり木の陰から出ていき、菜月と男の間に入る。否、菜月の肩に腕を回した。
「お兄さんたち、この子、私の連れだからさ——他を当たってくれないかな?」
男たちは、いきなり現れたフード姿の人物に頭が追いつかずに固まった。
けれど、すぐに正気に戻って、捲し立てるように喋り出す。
「なっ、なになに!? 彼氏さん?フード被ってるとかどんだけ顔に自信ないんだよ?」
「それな! 彼女さんが1人寂しく歩いてたから声掛けたのに、ナンパ男扱いですかぁ〜」
こいつ、私を彼氏と言ったか? 女だが! いや、落ち着け。ここで怒ったら負けだ。
菜月もいる。配信ドローンもある。大人として、穏便に済ませるべきだ。
「……しつこいよ」
菜月を背に庇ったまま、私は低く言った。男の顔が歪む。
「はは、なんだよ。彼女の前だからってカッコつけてんじゃねーよ!」
男の指先から短い刃のような魔力が伸びた。
次の瞬間、男の手が動いた。
反射的に避けようとして私は踏みとどまる。
背後には菜月がいる。だから避けられない。
鋭い何かが頬を掠める。
同時に、ぱさりと被っていたフードが外れた。
銀色の髪が肩に落ちて、黒いツノが露わになり、背中の尻尾がぴたりと止まった。
一瞬、場の空気が凍った。
頬に熱が走る。遅れて、赤い血が一筋、重力に引かれるように伝っていった。
配信用ドローンが、こちらを向いたまま固まっている。
「今の、菜月に当たってたらどうするつもりだったの?」
声が自分のものとは思えないほど、冷たい。
男は額から汗を流し、一歩下がる。
「い、いや、これは、その……」
「——答えて」
甘さなんて、もうなかった。あるのは、腹の底から煮えるような怒りだけだった。
「私が大人しくしてたの、分からない?」
男たちの顔から薄い笑みが消える。私は頬を伝う血を指で拭い、赤く濡れた指先を見た。
今のが、菜月に当たっていたら。そう思った瞬間、頭の奥がすっと冷えた。
「ねえ」
上着の中で、尻尾が静かに揺れる。
「誰に手を出したのか、分からせてあげようか?」
背後で、菜月が息を呑む気配がした。
見守りは失敗した。隠密も失敗した。お姉ちゃんとして冷静でいることにも失敗した。
それでも。
菜月を傷つけようとした相手を前にして、黙っていられるほど、私は大人ではなかった。




