第3話 魔石じゃ足りない
スライムは、思っていたより速かった。半透明の身体が、石畳を弾む。
ぽよん、なんて可愛い音ではない。濡れた肉の塊が床を叩くような、嫌な音だった。
「……っ!」
反射的に横へ跳ぶ。けれど、身体が思った通りに動かない。足の位置がずれる。
男の時とでは重心が違うからだ。腕を振るだけでも、さっきまでの自分とは感覚がまるで違った。
肩口の余った制服が揺れる。頬に張りついた銀髪が、視界を邪魔する。
「くそ……!」
悪態をついたつもりだった。けれど、口から出た声は高く、細くて、どこか震えている。
その声に、一瞬だけ意識を持っていかれる。その隙に、スライムが跳ねた。
「っ、危な……!」
身体を捻るが——間に合わない。
半透明の塊が、肩をかすめた。
最弱の魔物だが、痛みはある。衝撃でバランスが崩れる。
倒れそうになりながら、壁に手をついた。
『魔力残量:低下』
『女性形態解除まで——』
「うるさいって、言ってるだろ……!」
視界の端で赤く明滅する文字に奥歯を噛みしめる。
戻りたくない。戻るくらいなら何でもする。その瞬間、指先に違和感が走った。
「……え?」
爪が伸びていた。白く細い指先から、黒く艶のある爪が刃物みたいに鋭く伸びている。
人間のものじゃない。明らかに、別の何かのものだった。
考えるより先に、身体が動いた。
跳ねてくるスライムに向かって、腕を振る。
「ぁああっ!」
爪が、スライムの身体を裂いた。
柔らかい感触。抵抗はほとんどない。
半透明の身体が二つに割れるように崩れた。
床に落ちたスライムは、びくりと震えたあと、すぐに動かなくなる。
あとに残ったのは、小さな石だった。指先ほどの、くすんだ色をした魔石。
「……これが」
魔石。魔物を倒すと残る、魔力の結晶。
探索者たちはこれを回収して売る。
ダンジョン産資源として、今ではそこらの宝石よりも価値があるものらしい。
だけど、今の俺には金なんてどうでもいい。
欲しいのは、魔力だ。
震える手でそれを拾う。極小の魔石は、指先に乗せると頼りないくらい小さかった。
でも、そこから漏れるかすかな熱に喉が鳴る。
「……食べるのか、これ」
普通なら迷う。汚いとか、危ないとか、そういう当たり前の感覚があるはずだった。
でも、今は違う。胸の奥が空っぽで、身体が冷えて、今にもこの姿がほどけてしまいそうで——迷っている余裕なんてなかった。
俺は、魔石を口に含んだ。
硬い。舌の上で小石みたいな感触が転がる。
次の瞬間、魔石がふっと溶けた。
「……っ」
甘いと思った。砂糖みたいな甘さじゃない。
もっと奥に染み込んでくるような、温かいもの。
胸の空洞に、ぽたりと雫が落ちたような感覚だった。
『魔力吸収を確認』
「……戻らない」
その文字を見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
倒せばいい。魔物を倒して、魔石を食べればいい。
そうすれば、この身体を維持できる。そう分かった瞬間、恐怖よりも先に安堵が来た。
けれど——
『警告:魔力量、必要維持量に対して不足』
「……やっぱり、駄目か?」
浮かんだ文字を見て、喉が引きつる。
胸の奥に落ちた雫は、すぐに乾いていく。
穴の空いた器に水を注いでいるみたいだ。
「……なら」
通路の奥を見る。まだいるはずだ。スライムでも何でもいい。
魔物がいるなら、魔石がある。魔石があるなら——私は、私でいられる。
「もっと、倒せばいい」
* * *
どれくらい時間が経ったのか、もう分からなかった。
最初は恐怖で震えていたはずの爪も、今は迷わずに振れるようになっていた。
スライム程度なら、一撃で裂ける。角ウサギだって、動きさえ見えれば避けられる。
少しずつ、身体の使い方にも慣れてきた。
けれど——魔力は、足りなかった。
『魔力残量:危険域』
『状態異常飢餓の兆候を確認』
「……飢餓?」
その文字を読んだ瞬間、腹の奥がきゅう、と縮んだ。
空腹とは違う。喉の渇きとも違う。胸の奥から、何かが削られていく様な感覚。
寒い。なのに身体は熱い。
頭の奥がぼやけて、視界が揺れている。
「まだ……まだ、いける……」
壁に手をつきながら、足を前に出す。
魔石なら、食べた。何個も食べた。
それなのに、まるで足りない。
Fランクの魔物では、足りないのだ。
その事実が、ようやく頭に染み込んできた。
『警告:状態異常飢餓発生』
赤い文字が、視界を覆う。
次の瞬間、匂いがした。
「……あ」
甘い。
そう思った。けれど、これは匂いじゃない。鼻で感じているわけじゃない。
もっと深いところ——胸の奥。本能みたいな場所が、それを見つけていた。
魔力。通路の奥に、濃い魔力がある。
さっきまで食べていた小さな魔石とは比べものにならない。強くて、澄んでいる魔力。
「欲しい」
そう思った瞬間、自分の足が勝手に動いた。
駄目だ。そう思うのに、身体が止まらない。
ダンジョンの最深部。
そこに——少女がいた。
少女の肩の少し後ろに、小さな球体が浮いていた。
淡い青い光を点滅させながら、静かに空中で停止している。
けれど、その時の私には、それが何なのかを考える余裕なんてなかった。
黒い探索者用ジャケットに、腰に下げた細身の剣。肩口で切りそろえられた黒髪。
年齢は、私とそう変わらないように見える。
薄暗いダンジョンの中で、少女は私に気づいて静かにこちらを見てくる。
「人間……? いえ、反応がおかしい」
冷たい声だった。でも、その声よりも先に、私の身体は彼女の魔力を見ていた。
ジャケットの上からでも分かる細身の身体から濃厚な甘い魔力を感じる。
欲しい。触れたい。満たされたい。
「……魔力」
喉から、知らない声が漏れる。
少女の目が細くなる。
「吸収してる……? まさか」
その言葉の意味を考える余裕はなかった。
気づけば、私は彼女の手を掴んでいた。
「――っ」
少女が反応するより早く、指が絡む。
手のひら越しに、温かい魔力が流れ込んできた。
「……ぁ」
胸の奥で暴れていた飢えが少しだけ静まる。
『接触による魔力補給を確認』
『状態異常飢餓を一時緩和』
視界の赤が薄れていき、息がしやすくなる。
さっきまでバラバラになりそうだった身体が、ようやく自分の輪郭を取り戻していく。
「離して」
少女が言った。声はやっぱり冷たい。
でも、無理やり振り払うことはしなかった。
「……私の魔力を吸ってるのね」
少女は、静かに言った。責めるような声ではなかった。
ただ、状況を確認しているだけのような冷たい声色。
「魔物……にしては、服を着ている。どこかの制服ね」
その視線が、私の肩口で余った制服に向けられる。
次に、乱れた銀色の長い髪。それから、黒く伸びた鋭い爪へ。
「見た目は人間。けど、魔力反応が普通じゃない」
少女はほんの少しだけ眉を寄せた。
「変身系スキル? それとも何か別の——」
「……ごめん」
声が震える。
「少しだけ……少しだけ、このままにして」
少女は黙ったまま、私を見下ろしていた。怖いくらい整った顔。感情の読めない瞳。
それなのに、握った手は温かかった。数秒の沈黙のあと、少女が小さく息を吐く。
「敵意はなさそうね」
「……」
「このまま放置したら倒れそうだし。少しだけ魔力を渡すわ。暴れないで」
「え……?」
「倒れるよりは、ましでしょ」
そう言って彼女は私の手を握り返した。
その瞬間、胸の奥に残っていた飢えが急速に満たされていく。
彼女自ら私に魔力を譲渡したのだと分かる。
『高濃度魔力補給を確認』
『状態異常飢餓を一時解除』
「あっ、ありが、とう」
「……あなた、名前は?」
少女が静かに尋ねる。私は、まだ彼女の手を離せないまま、かすれた声で答えた。
「黒井……彩音」
「そう」
少女は少しだけ目を伏せた。
「私は、氷室怜奈ひむろれいな。Bランク探索者」
その名前を聞いた瞬間、頭の片隅で何かが引っかかった。
氷室怜奈。確か、探索者ランキングでも見たことがある名前。
でも、そんなことより今は——
「……ご、めん。ねむ……い」
情けない声で呟く。
安心したせいだろうか。限界まで張り詰めていた意識が、急にほどけていく。
膝から力が抜けて倒れる、と思った。けれど、床の冷たさは来なかった。
代わりに、氷室さんの腕が私を支える。
「……本当に、何があったのよ」
最後に聞こえたのはそんな小さな呟きだった。
私は、繋がれたままの手に縋るようにして、意識を手放した。




