第2話 私は、絶対に戻らない
ダンジョンは世界中に存在している。
確認されているだけでも数千。未発見のものを含めれば一万はあるとも言われている
誰が作ったのか、何のために存在しているのか——未だに分からない。
ただ一つ確かなのは、そこに入れば何かが変わるということだけだ。
俺が向かったのは——Fクラスダンジョン。
探索者の間では、もはや訓練場みたいな扱いを受けている場所だ。
中にいる魔物は弱いし罠も少ない。死ぬ危険はほとんどない。
中高生でも入れる、いわば体験コース。
だからこそ、人は来ない。わざわざそんな場所に潜る理由がないから。
もっと稼げる場所はいくらでもある。
もっと強くなれる場所も、いくらでもある。
だからここは、いつも空いている。
静かで、人気がなくて——ちょうどいい。
「はぁ……はぁ……っ」
息が切れる。校門からここまで、ほとんど全力で走ってきた。それでも足は止めない。
視界の先には街の外れにぽっかりと空いた、黒い歪み。それがダンジョンの入口だった。
近づくほどに、空気が変わる。
肌にまとわりつくような、重たい感覚。
怖くないと言えば嘘になる。
でも——
「……関係ない」
小さく呟く。
ここまで来て、引き返す理由なんてない。
俺は、一歩踏み出した。黒の中へ。
* * *
感覚が一瞬だけ消えて、次の瞬間——足元に固い感触。
目を開けると、そこは石造りの空間だった。
薄暗い通路に湿った空気。鉄臭い匂い。
「……ここが」
ダンジョン。
実際に入るのは、これが初めてだが思っていたよりも現実的だと感じる。
もっと非現実的な光景を想像していたのに、妙に地続きの感覚がある。
それでも、ここは確かに違う場所だ。
その証拠に——視界の端に文字が浮かんだ。
『初回入場を確認。初期スキルの選択が可能になりました』
心臓が強く跳ね、手が震えてしまう。怖いのか興奮しているのか、自分でも分からない。
「……」
目を閉じて、息を整える。
ここで焦る必要はない。
初期スキルの選択は一度きり。取り消しはできない。
だから——落ち着くんだ。俺。
目一杯の深呼吸の後、ゆっくりと目を開く。
「……出せ」
呟くと同時に、視界にウィンドウが展開された。
『初期選択スキル一覧』
並ぶ文字は見覚えのあるものばかりだ。
身体強化。魔力操作。感覚拡張。
どれも、探索者なら誰もが欲しがるスキル。
普通なら、迷う。
どれを選ぶかで、これからの人生が変わる。
でも——俺には全部、どうでもいい。
手を動かしスクロールしていくと見つける。
『性転換』
それを見つけた瞬間——呼吸が止まった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
ここで、これを選べば、もう戻れない。
全部が変わる。身体も人生も全部。
「……はっ、はは……やっとだ」
声が、漏れた。
震えていたはずなのに不思議と笑っていた。
ずっと欲しかったもの。ずっと手に入らなかったもの。
それが、今——俺の目の前にある。選べる。自分で。誰にも否定されずに自分の意思で。
「……これでいい」
迷いは俺にはなかった。
指を伸ばして、そのまま——触れる。
『スキル:性転換を選択しました』
次の瞬間——世界が、歪んだ。
* * *
最初に感じたのは、熱だった。身体の奥に、火種を放り込まれたような感覚。
胸の中心から、指先へ、足先へ、背骨へ、じわじわと何かが広がっていく。
「……っ、ぐぁ」
膝から力が抜けた。
慌てて壁に手をつく。石の冷たさが掌に触れたはずなのに、その感覚すら遠い。
自分の身体なのに、自分のものじゃないみたいだった。
視界の端で文字が揺れる。
『肉体再構成を開始します』
『骨格、筋肉、声帯、魔力回路を再編成』
『副作用:半サキュバス化を確認』
「……半、サキュバス?」
言葉の意味を考えるより先に身体が軋んだ。痛い、というより気持ち悪い。内側から形を変えられている。骨の位置がずれ、筋肉の付き方が変わり、皮膚の下を知らない何かが這っているみたいだった。
息が詰まるようで、喉が熱い。
「ぁ……」
漏れた声に、思考が止まった。高くて細くて俺の声じゃない。
けれど、その声は不思議なくらい耳に馴染んだ。
「……これ、が」
声を出すだけで、胸の奥が震えた。
腕が細くなり、指が少し長く、白くなる。
身体の重心が違う。立っているだけなのに、バランスが崩れそうになる。
髪が頬に触れた。
最初は何かの紐かと思った。けれど違う。
視界の端で揺れたそれは、月明かりみたいな銀色をしていた。
「……銀、髪」
震える指で髪に触れる。さらりと滑る感触。
それだけで、現実味が一気に増した。
『肉体再構成が完了しました。スキル:性転換を取得。種族変化:半サキュバス』
『警告:女性形態の維持には魔力を常時消費します』
『警告:魔力残量が一定以下になると、状態異常飢餓が発生します』
次々と浮かぶ文字を、ぼんやりと見つめる。
意味は分かる。でも、頭が追いつかない。
女性形態の維持。魔力消費。半サキュバス。飢餓。
どれも明らかに危険な言葉なのに、今の俺にはそれ以上に大きな事実があった。
「……なれた」
声が震える。
膝をついたまま、両手を見下ろす。
小さくて、細い手。男として生きてきた自分の手ではない。
「……なれたんだ」
涙が落ちた。ぽたりと、石の床に小さな染みを作る。
笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からない。
ただ胸の奥だけが、ぐちゃぐちゃだった。
『魔力残量:低下。警告:女性形態の維持に必要な魔力が不足しています』
「……え?」
その文字を見た瞬間、身体の奥が冷えた。
さっきまで満ちていた熱が急速に抜ける。
指先が震え、呼吸が浅くなり、胸の奥に空洞ができたような感覚が広がった。
———まずい。
直感で分かった。このままだと、戻る。
「嫌だ……」
声が漏れた。
「嫌だ、絶対に手放さない……!」
立ち上がろうとして、足がもつれる。身体の使い方が分からない。
重心が違う。力の入れ方も違う。ほんの少し動くだけで、全身がばらばらになりそうだった。
制服の肩口が、少し余っている。
逆に胸元と腰まわりだけが妙に窮屈だった。
身長も、少し縮んだのだろう。さっきまでと壁の高さが違って見える。
変わっている。
本当に、変わっている。
だからこそ、戻りたくなかった。
壁に手をついて、無理やり立ち上がる。
魔力。魔力が必要……だったら、手に入れるしかない。
ダンジョンなら、魔物がいる。Fランクなら弱い。俺でも倒せるはずだ。
そう思った瞬間———通路の奥から、ずるり、と何かが動く音がした。
「……」
顔を上げる。薄暗い通路の向こう。ぬめった音を立てながら、一匹のスライムが姿を現した。丸く、半透明の小さな魔物。Fランクダンジョンの代表みたいな相手。探索者志望の人間なら、怖がる必要なんてないのかもしれない。
でも、俺は違う——探索者になりたくて来たわけじゃない。
戦う覚悟なんて、最初からなかった。
足は震えている。
身体はまともに動かない。
魔力は減り続けている。
それでも。
「……来いよ」
震える声で、呟く。
銀色の髪が頬に張りつく。
視界の端では、警告文が赤く明滅している。
『魔力残量:低下』
『状態不安定』
『女性形態解除まで——』
「うるさい!」
奥歯を噛みしめる。戻りたくない。
それだけが、全身を動かす理由だった。
「俺は……」
いや、違う。
もう、その一人称すら少しだけ遠く感じる。
でも、今はどうでもいい。
この身体を失うくらいなら。
このまま何もできずに戻るくらいなら。
「私は、絶対に戻らない」
その言葉と同時に、スライムが跳ねた。




