第1話 勉強してる場合じゃねえ!
俺、黒井彩音は走っている。
名前だけなら女みたいだと、よく言われる。
けれど、そんなことは今どうでもいい。
ただ一つだけ確かなのは、今ここで足を止めたら——全部終わる、ということだった。
廊下を蹴る音が、やけに大きく響く。昼下がりの校舎は、授業中ということもあって静まり返っていた。その静寂をぶち壊すように、俺の足音だけが異物のように反響している。
「こら! 授業中だぞ、黒井!」
背後から教師の声が飛ぶ。
振り返らない。振り返ったら、止められる。
「体調悪いんで早退します!」
口から出たのは、適当な言い訳だった。体調なんて悪くない。
むしろ、ここ最近で一番冴えている。頭は妙に冷静で、身体だけが勝手に動き続けている。
心臓がうるさくて呼吸が浅い。それでも足は勝手に前へ出る。
向かう先は、決まっている——ダンジョン。
五年前、突如として世界に現れた異界の門。誰が、何のために、なんてことは未だに分かっていない。
ただ一つ確かなのは、そこに入った者には力が与えられるということだ。
——探索者。
そう呼ばれるようになった人間たちは、ダンジョンに潜り、魔物を狩り、報酬を得る。
命の危険は常に付きまとうが、それに見合うだけの見返りがあった。金。名誉。権力。
そして——才能。
普通の人間が持たないはずのものを、手に入れられる場所。
思春期の子供なら、誰もが一度は夢を見るような世界。
……だけど、俺は違った。興味がなかった。そんなもの、どうでもよかった。
強くなりたいとも、金持ちになりたいとも、有名になりたいとも思わない。
ただ一つ。それ以外、何もいらない。
「——女になれるなら、それでいい」
息の合間に零れた言葉は、自分でも驚くほど迷いがなかった。
その一言に、俺の全部が詰まっている。
* * *
——二時間前。
リビングの空気は、いつも通りだった。
テレビの音が流れている。朝のニュース番組はダンジョン関連の話題が適当に取り上げられては適当に消えていく。今ではもう、珍しくもなんともない光景だ。
「お兄ちゃんってさ……」
その中に、妹の声が混じった。
軽い調子。何気ない、いつもの呼びかけ。
だからこそ、油断していた。
「何でそんな気持ち悪い喋り方してんの?」
——刺さった。
ナイフみたいに鋭いわけじゃない。もっと鈍い。鈍くて重い。確実に中に残る様な言葉。
反射的に、言葉が出ない。何か言い返せばいいのに、それができない。
「男なんだからさ、もっとちゃんとしなよ」
追い打ちみたいに、もう一言。
笑いながら言っている。
妹に悪気なんてないのは、分かっている。
だから余計に、質が悪い。
「……」
何も言えなかった。
父も、母も、何も言わない。
興味がないのだと、分かっている。
昔は違った。小さい頃は——俺は、女の子だった。いや、違うな。そう扱われていた。
可愛い服を着せられて、髪を伸ばされて、名前も仕草も、全部女の子らしく矯正されていた。
それが当たり前だったから俺は疑問なんて持たなかった。そういうものだと思っていた。
だけど——成長するにつれて、全部が歪み始めた。身体が変わり、声が変わり、周りの目が変わる。
そして、気づいてしまう。ああ、自分は——違うんだ、と。男だと、思い知らされる。
それでも。もう、戻れなかった。男として生きることも女として生きることもできない。
どっちつかずのまま、放り出された。
居場所がない。最初から、なかったみたいに。
「……っ」
喉の奥が、ひりつき、泣きそうになるのを、無理やり押し込める。
そんな時だった——机の上に置いてあったスマホが、小さく震えた。
『速報:Fランクダンジョンで新たな初期スキルを発現したと話題に』
どうでもいい、いつものネットニュース。
普段なら、見向きもしない。なのに、その時だけは何故か指が動いた。
画面を開き、指でスクロールしていく。
流し見でいいはずだった。
だけど——ある一行で、指が止まる。
『新たに見つかった初期選択スキル一覧』
その下に並ぶ、ありきたりな能力たち。
身体強化。魔力操作。感覚拡張。
どれも、探索者としては普通の選択肢。
興味はない。見慣れたものばかりだ。
だが、その中に一つ異質なものがあった。
『性転換』
「……は?」
思わず、声が漏れる。見間違いかと思った。
スクロールして、戻って、もう一度見る。
消えない。そこに、確かに存在している。
『※ランクSの希少スキル』
『※強力なランダムデバフあり』
『※取得非推奨』
警告が並んでいる。まるで、それを選ぶこと自体が間違いだと言わんばかりに。
だけど。そんなもの——どうでもいい。
「……あ」
声が、漏れた。
気づいた時には、笑っていた。
抑えきれないみたいに、口元が歪む。
「……あるじゃん」
ずっと、なかったもの。
どこにも存在しなかった選択肢。
それが、今——目の前に現れてしまった。
「お兄ちゃん。どうしたの?」
「ん? いや、何でもないよ」
スマホの画面を閉じて、何事も無かった様に妹に笑いかけた。
でも頭では、あの一文、性転換という言葉が頭から離れなかった。
——行けば、俺が欲しかった物が手に入る。
それだけで世界の見え方が変わってしまう。
けれど、俺はすぐには動かなかった。動けなかった、という方が正しいのかもしれない。
急に全部を捨てる勇気なんて、そんな都合よく湧いてくるものじゃない。
だから——いつも通りにする。何も変わらないフリをして、家を出る。
学校へ向かう。
それが、当たり前だから。
* * *
教室に入ると、いつも通りの空気があった。
男達の笑い声。女子の雑談。誰かがペンを走らせる音。
誰も俺を見ていない。
いや、正確には——見ないようにしている。
触らぬ神に祟りなし。
そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。
でも、彼らが正解だと俺も思う。男なのに見た目も声も女に似せてるヤバい奴なんて、普通なら誰も関わりたくないに決まってる。だから俺も同じように。誰とも目を合わせず、静かに席に座る。
話しかけない。話しかけられない。存在していないみたいに、そこにいる。
居心地は最悪だが、慣れている。
机に肘をつきながら、ポケットの中のスマホを意識する。あの文字が焼き付き離れない。
『性転換』
何度も、何度も浮かぶ。それと同時に——今ここにいる自分が急におかしく思えてくる。
なんで、ここにいる?
なんで、こんな場所で時間を潰してる?
今までなら身を任せ流されるだけだった。
でも、今は違う。
——選択肢を知ってしまったから。
チャイムが鳴る。一限目の開始を告げる音だ。
ざわついていた教室が、少しずつ静かになっていき、皆が席につく。
いつもの当たり前の流れ。いつもの当たり前の一日。その中に、俺もいるはずだった。
「……」
動けない。いや、動きたくないのか……
椅子に座ったまま、天井を見上げる。
胸の奥が、ざわついている。
このままここにいたら、どうなる?
授業を受けて昼になって、また時間が過ぎて。
何も変わらないまま、一日が終わるだろう。
明日も、明後日も、その先も。
ずっと、このまま変わらずに。
はたして——それでいいのか?
「……いや」
答えなんて、とっくに出ている。
分かっているのに——最後の一歩が、踏み出せない。
怖いからじゃない。ただ今までと同じでいる方が楽だから。変わらない方が簡単だから。
でも——それでも。
「……勉強してる場合じゃねえ」
ぽつりと、言葉が零れた。
自分でも驚くくらい、はっきりした声。
その瞬間、身体が動いた。
椅子を引いて、勢いよく立ち上がる。
周りの視線が、一瞬だけ向くが気にしない。
——どうでもいい。
ここにいる理由なんて、一つもない。
なら——行くしかないだろ。
俺は、女の子になってやる!
教室のドアへ向かう。
「黒井?」
教師が何か言うが俺は聞かずにドアを開け、そのまま——
「すいません! 早退します!」
言い捨てて、走り出す。
心臓がうるさくて、呼吸は浅い。
それでも——止まらない。
視界の先。校門の向こう。
その先にあるものは、もう分かっている。
——ダンジョン。
俺は、そこへ向かって走っていた。




