怪しいもんじゃありません
「……」
リオも何も言わないまま歩いている。
森を抜けるにつれ、足元の土は踏み固められた道へ変わっていった。
やがて木々が途切れ、視界の先に、小さな村が見えた。
低い柵。
煙の上がる屋根。
畑を囲う木の杭。
どこにでもありそうな、小さな集落だった。
だが、妙に静かだった。
人の姿はある。
井戸で水を汲む女。
干した布を取り込む老人。
けれど誰も、大声で話していない。
笑い声もない。
空気が張っている。
その理由を考えるより先に、畑仕事をしていた男がこちらへ気づいた。
鍬を持ったまま、目を細める。
その視線がハルで止まった。
森の方角から現れた見知らぬ男。
服は裂け、腕には布が巻かれている。
川で泥と血は洗い流したが、まともな旅人には見えなかっただろう。
男の表情が変わった。
「リオ!」
その声に、リオが足を止めた。
「そいつは誰だ!」
空気が張りつめる。
家の窓が開く。
扉の隙間から視線が覗く。
警戒が、ゆっくり村全体へ広がっていった。
リオが小さく答える。
「森で会った」
「森だと?」
男の顔がさらに険しくなる。
「こんな時に……!」
家々から何人もの大人が出てくる。
農具。
木の棒。
槍のようなもの。
武器になる物を、誰もが自然に持っていた。
ハルは立ち止まり、ゆっくり両手を上げる。
「怪しいもんじゃ――」
言いかけて、自分でやめた。
説得力がなかった。
男の一人が前へ出る。
四十代くらいだろうか。
日に焼けた顔に、深い疲労が刻まれている。
槍の穂先が、ハルへ向いた。
「ここから先へ入るな」
声は低かった。
怒りというより、切羽詰まった響きだった。
ハルは小さく息を吐く。
「……やっぱりな」
「何者だ」
「旅人……って言っても信じないだろうけど」
「当たり前だ」
別の男が吐き捨てる。
「最近、この村じゃ子どもが消えてる」
周囲の空気がさらに重くなる。
「そんな時に森から現れた奴を、簡単に入れられるか」
当然だった。
むしろ正しい。
ハルだって逆なら疑う。
リオが少し困った顔で口を開く。
「でも、この人かなり弱ってて……」
「だからって連れてくるな!」
怒鳴られ、リオが黙る。
ハルはそのやり取りを見ながら、妙に冷静だった。
慣れている。
輪の外に立たされることには。
期待したわけじゃない。
異世界なら違うかもしれない――そんな考えが、少し頭をよぎっていただけだ。
「……なら、外にいる」
そう言いかけた瞬間だった。
村の奥から、女の悲鳴が響いた。
空気が凍る。
「いない……!」
家の扉が勢いよく開く。
若い女が飛び出してきた。
顔面蒼白だった。
「ミナがいないの!」
その瞬間、村人たちの顔色が変わる。
誰かが舌打ちした。
「またかよ……!」
「いつからだ!」
「さっきまで家にいたのに……!」
女は半泣きで周囲を見回している。
村の空気が、一気に崩れた。
張りつめていた警戒が、今度は焦りへ変わっていく。
ハルは黙ってその様子を見ていた。
そして、ふと気づく。
村人たちの足元。
地面に、何か跡がある。
土の上を擦るように続く、不自然な線。
まるで――何かを引きずったような跡だった。
ハルは目を細めた。
土の上に残った細い跡。
荷車の轍ではない。
村人たちの足跡とも違う。
もっと浅く、不規則で、
何か重いものを無理やり動かしたような痕だった。
しかも新しい。
まだ土が乾ききっていない。
周囲では誰も気づいていない。
女を囲み、口々に叫んでいる。
「家は見たのか!」
「井戸の方は!?」
「森へ行ったんじゃ……!」
恐怖が、村人たちから冷静さを奪っていた。
ハルはしゃがみ込み、地面を見る。
線は家の裏手へ続いている。
そこで途切れていた。
いや。
正確には――見えにくくなっている。
草が倒れている。
わずかに。
意図的に隠したみたいに。
「……」
嫌な感覚だった。
昔、徹夜で推理小説ばかり読んでいた頃の感覚に似ている。
違和感。
説明できない引っかかり。
頭の奥で何かが繋がりかけていた。
「おい」
低い声。
顔を上げると、さっき槍を向けていた男が睨んでいた。
「何してる」
「……これ」
ハルは地面を指差す。
男は眉をひそめた。
「跡?」
「誰か、引きずられてる」
空気が止まった。
女の顔が青ざめる。
「ミ、ミナ……?」
「まだわからない」
ハルは立ち上がる。
視線を周囲へ走らせた。
家々。
柵。
畑。
そして村の外れ。
森へ続く方向へ、草の乱れが続いている。
誰かが通った跡だ。
しかも、一人ではない。
「おい待て」
男が険しい顔になる。
「勝手なこと言うな」
「なら他に説明できるか?」
「……っ」
男が言葉に詰まる。
「森……?」
リオが小さく呟く。
村人たちがざわつく。
行きたくない。
その感情が顔に出ていた。
当然だ。
子どもが消える森。
しかも今は日が傾き始めている。
ハルは森の奥を見る。
暗い。
昼間なのに、妙に黒い。
まるで光を拒んでいるみたいだった。
その時だった。
耳鳴りみたいな感覚が走る。
視界の奥で、
何かが“引っかかった”。
森の入り口近く。
木の幹。
そこに――薄く、文字みたいなものが見えた。
【痕跡】
一瞬だった。
瞬きをすると消える。
「……は?」
ハルは目を見開く。
今のはなんだ。
疲労による幻覚か。
だが次の瞬間。
別の場所にも、淡い光が浮かんだ。
草の上。
引きずり跡の先。
【追跡可能】
頭の奥で、何かが軋む。
熱い。
脳が焼けるような感覚。
同時に、
無数の情報が流れ込んできた。
視線。
足運び。
草の倒れ方。
土の削れ方。
全部が、
一本の線として繋がっていく。
まるで世界そのものが、
犯人はこっちだ
と教えてきているみたいだった。
ハルは息を呑む。
「……なんだよ、これ」
誰にも聞こえない声で呟く。
だが胸の奥では、
別の感情が静かに燃え始めていた。
恐怖じゃない。
理解だった。
――物語を読むみたいに、
世界の構造が見える。
その瞬間。
久遠ハルは、
この世界で初めて“能力”に触れた。




