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森は、外から見たよりずっと深かった。

遠くに見えていた煙は近そうで、いくら歩いても辿り着かない。

陽射しは強く、喉は焼けるように乾いていた。腕の傷は歩くたび熱を持ち、服に滲んだ血が肌へ張りつく。

それでも、止まれば終わる気がした。

久遠ハルは重い足を前へ出し続ける。

草を踏む音。

荒い呼吸。

時折、どこかで枝が鳴る。

そのたびに、巨大な狼の牙が脳裏をよぎった。


「……また出たら終わりだな」


乾いた笑いが漏れる。

若返った身体でも、痛みは痛みだった。

むしろ感覚が鮮明な分、余計につらい。


あれから随分時間が経った。

どれくらい歩いただろう。

そろそろ限界かと思い始めた頃、地面の色が変わった。

草の海が途切れ、踏み固められた細い土道が現れる。

轍の跡。

靴底の痕。

人が通っている道だった。


さらに進むと、水の音が聞こえた。

小川だった。

透き通った水が石の間を流れ、陽光を受けてきらきらと光っている。

ハルはふらつく足で川辺へ下り、その場に膝をついた。

両手ですくった水を、一気に飲む。

冷たい。

ただそれだけで、生き返る気がした。

夢中で何度も喉へ流し込み、荒い息を吐く。


「……っ、生き返った……」


そのまま顔も洗う。

泥と汗が流れ、ようやく少しだけ人間に戻れた気がした。

腕の傷も水で流す。

鋭い痛みに顔が歪む。

だが、骨までは届いていないようだった。


「若い身体ってすげえな……」


四十九歳の頃なら、ここまで歩く前に倒れていたかもしれない。

ハルは川辺の石に腰を下ろし、しばらく呼吸を整えた。

その時だった。

向こう岸で、草が揺れた。

反射的に身体が強張る。

だが現れたのは魔物ではなかった。

小柄な人影。

十歳くらいの少年だった。

茶色い髪。

日に焼けた顔。

背中に薪束を背負い、こちらをじっと見ている。

その目だけが妙に鋭かった。

ハルと視線が合う。

少年はすぐには逃げなかった。

だが近づいてもこない。


「……誰?」


先に口を開いたのは少年だった。

警戒心を隠そうともしない声。

当然だとハルは思う。

血まみれの男が森から現れたのだ。

ハルはゆっくり両手を見せた。


「怪しいもんじゃない」


言ってから、自分で苦笑する。

説得力は皆無だった。

少年は無言で距離を取る。

いつでも逃げられる位置。


「近くに村、あるか」


少しの沈黙。

少年はハルを頭から足まで観察していた。

傷。

服。

泥。

そして疲れ切った顔。

やがて短く答える。


「ある」

「遠い?」

「もう少し」


ハルは安堵の息を漏らした。

少年はまだ警戒を解いていない。

それでも、完全に拒絶しているわけでもなかった。


「名前は?」


ハルが聞くと、少し間が空く。


「……リオ」


短い返事。


「お兄ちゃんは?」


お兄ちゃん。

その呼び方に、ハルは少しだけ笑いそうになった。

身体は若返っていても、中身は四十九歳のままだ。


「ハル」


久遠ハル。

この世界で初めて、自分の名を口にする。

リオは小さく頷いた。

それから、不意に森の奥へ目を向ける。


「最近、この辺、変だから」

「変?」


リオは声を潜めた。


「子どもが消える」


風が止まった気がした。

ハルは無意識に森を見る。

木々の隙間は暗く、奥が見えない。


「魔物か?」

「わかんない」


リオは首を振る。


「いつの間にかいなくなってる」


冗談ではないとすぐわかった。

リオ自身、怖がっている。

それでも薪を取りに来ていた。

生活のためだ。

生きるためには、危険な森にも入らなければならない。

その感覚は、ハルにも少しわかった。

嫌でも働かなければ生きられなかった昔と、どこか似ていた。


「……それでも一人で来たのか」

「薪がないと困るから」


当たり前みたいに言う。

ハルは苦笑した。

異世界でも、生きるのは簡単じゃないらしい。

しばらく沈黙が続く。

やがてリオは、小さく息を吐いた。


「……歩ける?」

「ギリギリ」

「なら、ついてきて」


完全な善意ではない。

でも見捨てもしない。

その距離感が妙に現実的だった。

リオは背を向け、土道を歩き始める。

ハルは一歩遅れて、その後を追った。

森は静かだった。

静かすぎた。

鳥の声すら少ない。

聞こえるのは、土を踏む音だけ。

しばらく歩くと、リオがぽつりと言う。


「村の人、多分おじさん嫌うよ」

「だろうな」

「今、みんな怖がってるから」


ハルは苦笑した。


「慣れてる」


その返事に、リオが少しだけ振り返る。


「……変なの」

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