8
森は、外から見たよりずっと深かった。
遠くに見えていた煙は近そうで、いくら歩いても辿り着かない。
陽射しは強く、喉は焼けるように乾いていた。腕の傷は歩くたび熱を持ち、服に滲んだ血が肌へ張りつく。
それでも、止まれば終わる気がした。
久遠ハルは重い足を前へ出し続ける。
草を踏む音。
荒い呼吸。
時折、どこかで枝が鳴る。
そのたびに、巨大な狼の牙が脳裏をよぎった。
「……また出たら終わりだな」
乾いた笑いが漏れる。
若返った身体でも、痛みは痛みだった。
むしろ感覚が鮮明な分、余計につらい。
あれから随分時間が経った。
どれくらい歩いただろう。
そろそろ限界かと思い始めた頃、地面の色が変わった。
草の海が途切れ、踏み固められた細い土道が現れる。
轍の跡。
靴底の痕。
人が通っている道だった。
さらに進むと、水の音が聞こえた。
小川だった。
透き通った水が石の間を流れ、陽光を受けてきらきらと光っている。
ハルはふらつく足で川辺へ下り、その場に膝をついた。
両手ですくった水を、一気に飲む。
冷たい。
ただそれだけで、生き返る気がした。
夢中で何度も喉へ流し込み、荒い息を吐く。
「……っ、生き返った……」
そのまま顔も洗う。
泥と汗が流れ、ようやく少しだけ人間に戻れた気がした。
腕の傷も水で流す。
鋭い痛みに顔が歪む。
だが、骨までは届いていないようだった。
「若い身体ってすげえな……」
四十九歳の頃なら、ここまで歩く前に倒れていたかもしれない。
ハルは川辺の石に腰を下ろし、しばらく呼吸を整えた。
その時だった。
向こう岸で、草が揺れた。
反射的に身体が強張る。
だが現れたのは魔物ではなかった。
小柄な人影。
十歳くらいの少年だった。
茶色い髪。
日に焼けた顔。
背中に薪束を背負い、こちらをじっと見ている。
その目だけが妙に鋭かった。
ハルと視線が合う。
少年はすぐには逃げなかった。
だが近づいてもこない。
「……誰?」
先に口を開いたのは少年だった。
警戒心を隠そうともしない声。
当然だとハルは思う。
血まみれの男が森から現れたのだ。
ハルはゆっくり両手を見せた。
「怪しいもんじゃない」
言ってから、自分で苦笑する。
説得力は皆無だった。
少年は無言で距離を取る。
いつでも逃げられる位置。
「近くに村、あるか」
少しの沈黙。
少年はハルを頭から足まで観察していた。
傷。
服。
泥。
そして疲れ切った顔。
やがて短く答える。
「ある」
「遠い?」
「もう少し」
ハルは安堵の息を漏らした。
少年はまだ警戒を解いていない。
それでも、完全に拒絶しているわけでもなかった。
「名前は?」
ハルが聞くと、少し間が空く。
「……リオ」
短い返事。
「お兄ちゃんは?」
お兄ちゃん。
その呼び方に、ハルは少しだけ笑いそうになった。
身体は若返っていても、中身は四十九歳のままだ。
「ハル」
久遠ハル。
この世界で初めて、自分の名を口にする。
リオは小さく頷いた。
それから、不意に森の奥へ目を向ける。
「最近、この辺、変だから」
「変?」
リオは声を潜めた。
「子どもが消える」
風が止まった気がした。
ハルは無意識に森を見る。
木々の隙間は暗く、奥が見えない。
「魔物か?」
「わかんない」
リオは首を振る。
「いつの間にかいなくなってる」
冗談ではないとすぐわかった。
リオ自身、怖がっている。
それでも薪を取りに来ていた。
生活のためだ。
生きるためには、危険な森にも入らなければならない。
その感覚は、ハルにも少しわかった。
嫌でも働かなければ生きられなかった昔と、どこか似ていた。
「……それでも一人で来たのか」
「薪がないと困るから」
当たり前みたいに言う。
ハルは苦笑した。
異世界でも、生きるのは簡単じゃないらしい。
しばらく沈黙が続く。
やがてリオは、小さく息を吐いた。
「……歩ける?」
「ギリギリ」
「なら、ついてきて」
完全な善意ではない。
でも見捨てもしない。
その距離感が妙に現実的だった。
リオは背を向け、土道を歩き始める。
ハルは一歩遅れて、その後を追った。
森は静かだった。
静かすぎた。
鳥の声すら少ない。
聞こえるのは、土を踏む音だけ。
しばらく歩くと、リオがぽつりと言う。
「村の人、多分おじさん嫌うよ」
「だろうな」
「今、みんな怖がってるから」
ハルは苦笑した。
「慣れてる」
その返事に、リオが少しだけ振り返る。
「……変なの」




