7
ドラゴンが去ったあとも、風だけがしばらく草原を揺らしていた。
焦げた土の熱。
焼けた肉の臭い。
そして、自分の荒い呼吸。
久遠ハルは両手を地面についたまま、しばらく動けなかった。
心臓がうるさいほど鳴っている。
腕の傷は熱を持ち、喉はからからだった。
それでも、生きていた。
「……助かった」
口にした瞬間、全身から力が抜けた。
その場に尻もちをつき、乾いた笑いが漏れる。
「ドラゴンに助けられるって……なんだよ、それ」
返事はない。
当然だった。
あの声は、もうしない。
小学三年の冬から、四十九歳で死ぬ朝まで、ずっと頭のどこかにいた神様の声。
うるさくて、偉そうで、腹立たしいくせに――いなくなると、妙に静かだった。
「……消えるなら、なんか言ってけよ」
独り言は風にさらわれた。
その時、腹が鳴った。
ぐう、と間抜けな音が響く。
同時に視界が揺れる。
「……っ」
膝が折れかけ、慌てて手をつく。
出血。
腕の裂傷からは、まだじわじわと血が滲んでいる。
服もぼろぼろだ。
若返っていても、死ににくくなるわけじゃないらしい。
「浮かれてる場合じゃねえな……」
異世界だ。
若返った。
ドラゴンもいた。
夢みたいな話だ。
だが、夢なら痛くない。
ここは現実だ。
水がなければ渇く。
傷は放っておけば腐る。
次の魔物が来れば、たぶん死ぬ。
ハルは深く息を吸い、頭を切り替えた。
「まず水。次に傷。あと、安全な場所」
自然と口に出していた。
昔からそうだった。
家賃が足りない月。
親の入院連絡。
バイト先の穴埋め。
締切直前の故障したパソコン。
問題が起きた時、泣いている暇なんてなかった。
「……まさか、こんな経験が役に立つとはな」
少しだけ笑う。
立ち上がり、周囲を見回した。
焼け焦げた草原。
黒く炭になった魔物の死骸。
その近くに、鈍く光るものが落ちていた。
恐る恐る近づく。
漆黒の鱗だった。
人の胴ほどもある巨大な一枚。
表面は金属のような艶を帯び、縁は刃物のように鋭い。
ドラゴンの鱗。
本物だった。
ハルは震える手でそれを持ち上げる。
重い。
ずしりと、現実の重さだった。
「……いたんだな」
喉の奥が熱くなる。
小学生の頃、何百回も描いた。
笑われた落書き。
捨てろと言われた幻想。
誰にも届かなかった物語。
その欠片が、今、腕の中にある。
四十九年、何も報われなかったと思っていた。
けれど、信じ続けたものは確かに存在した。
ハルは鱗を抱えたまま、顔を上げる。
森の手前に、細い煙が見えた。
空へ真っ直ぐ伸びる白い線。
焚き火か、炊事か。
人の営みの証だった。
「……村か」
助かる保証はない。
歓迎される保証もない。
だが、この草原で一人きりよりはましだ。
ハルは服の袖を裂き、腕の傷を縛った。
痛みで顔が歪む。
それでも手は止めない。
鱗を脇に抱え、前を見る。
「行くか」
一歩、踏み出す。
草が揺れる。
また一歩。
誰かに命じられた道じゃない。
生活のためでもない。
締切に追われるためでもない。
自分の意思で、知らない世界へ進んでいる。
胸の奥に、小さな火が灯った。
振り返れば、昼空に二つの月が浮かんでいる。
神はいない。
説明もない。
優しさもない。
それでも。
「……悪くない」
久遠ハルは笑った。
そして人生で初めて、自分の物語の続きを歩き始めた。




