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ドラゴンが去ったあとも、風だけがしばらく草原を揺らしていた。

焦げた土の熱。

焼けた肉の臭い。

そして、自分の荒い呼吸。

久遠ハルは両手を地面についたまま、しばらく動けなかった。

心臓がうるさいほど鳴っている。

腕の傷は熱を持ち、喉はからからだった。

それでも、生きていた。


「……助かった」


口にした瞬間、全身から力が抜けた。

その場に尻もちをつき、乾いた笑いが漏れる。

「ドラゴンに助けられるって……なんだよ、それ」

返事はない。

当然だった。

あの声は、もうしない。

小学三年の冬から、四十九歳で死ぬ朝まで、ずっと頭のどこかにいた神様の声。

うるさくて、偉そうで、腹立たしいくせに――いなくなると、妙に静かだった。


「……消えるなら、なんか言ってけよ」


独り言は風にさらわれた。

その時、腹が鳴った。

ぐう、と間抜けな音が響く。

同時に視界が揺れる。


「……っ」


膝が折れかけ、慌てて手をつく。

出血。

腕の裂傷からは、まだじわじわと血が滲んでいる。

服もぼろぼろだ。

若返っていても、死ににくくなるわけじゃないらしい。


「浮かれてる場合じゃねえな……」


異世界だ。

若返った。

ドラゴンもいた。

夢みたいな話だ。

だが、夢なら痛くない。

ここは現実だ。

水がなければ渇く。

傷は放っておけば腐る。

次の魔物が来れば、たぶん死ぬ。

ハルは深く息を吸い、頭を切り替えた。


「まず水。次に傷。あと、安全な場所」


自然と口に出していた。

昔からそうだった。

家賃が足りない月。

親の入院連絡。

バイト先の穴埋め。

締切直前の故障したパソコン。

問題が起きた時、泣いている暇なんてなかった。


「……まさか、こんな経験が役に立つとはな」


少しだけ笑う。

立ち上がり、周囲を見回した。

焼け焦げた草原。

黒く炭になった魔物の死骸。

その近くに、鈍く光るものが落ちていた。

恐る恐る近づく。

漆黒の鱗だった。

人の胴ほどもある巨大な一枚。

表面は金属のような艶を帯び、縁は刃物のように鋭い。

ドラゴンの鱗。

本物だった。

ハルは震える手でそれを持ち上げる。

重い。

ずしりと、現実の重さだった。


「……いたんだな」


喉の奥が熱くなる。

小学生の頃、何百回も描いた。

笑われた落書き。

捨てろと言われた幻想。

誰にも届かなかった物語。

その欠片が、今、腕の中にある。

四十九年、何も報われなかったと思っていた。

けれど、信じ続けたものは確かに存在した。

ハルは鱗を抱えたまま、顔を上げる。

森の手前に、細い煙が見えた。

空へ真っ直ぐ伸びる白い線。

焚き火か、炊事か。

人の営みの証だった。


「……村か」


助かる保証はない。

歓迎される保証もない。

だが、この草原で一人きりよりはましだ。

ハルは服の袖を裂き、腕の傷を縛った。

痛みで顔が歪む。

それでも手は止めない。

鱗を脇に抱え、前を見る。


「行くか」


一歩、踏み出す。

草が揺れる。

また一歩。

誰かに命じられた道じゃない。

生活のためでもない。

締切に追われるためでもない。

自分の意思で、知らない世界へ進んでいる。

胸の奥に、小さな火が灯った。

振り返れば、昼空に二つの月が浮かんでいる。

神はいない。

説明もない。

優しさもない。

それでも。


「……悪くない」


久遠ハルは笑った。

そして人生で初めて、自分の物語の続きを歩き始めた。

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