6
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
頬に触れる土の冷たさ。
湿った草の匂い。
鼻先をくすぐる青草の青い香り。
遠くで鳴く、聞いたことのない鳥の声。
風が肌を撫でていく感触まで、妙に鮮明だった。
久遠ハルはゆっくりと目を開いた。
空があった。
青かった。
信じられないほど青く、広かった。
どこまでも、どこまでも高く続いている。
天井ではない。
雨染みの浮いたアパートのクロスでも、
黄ばんだ蛍光灯でも、
夜勤明けの朝にぼんやり見上げていた薄汚れた白でもない。
本物の空だった。
「……は?」
掠れた声が出ると思った。
だが喉から出たのは、若い男の声だった。
張りがある。
息が詰まらない。
肺の奥まで空気が入っていく。
咳も出ない。
身体が軽い。
信じられないほど軽い。
ハルは反射的に上半身を起こした。
草原だった。
見渡す限り、揺れる緑。
陽光を受けて波のようにうねる草。
遠くには黒々とした森が広がり、
さらにその向こうには、雲を突き刺す山脈が連なっている。
そして空には、白い月が二つ浮かんでいた。
昼なのに。
青空の中に。
当然のように。
「……なんだよ、ここ」
呟いた声が震えた。
夢かと思った。
だが頬をつねる前に、土の感触があまりにも現実だった。
右手を見る。
皺がない。
浮き出た血管もない。
節くれ立った指でもない。
若い手だった。
慌てて頬を触る。
たるみもない。
無精髭もない。
髪は長く、指に絡むほどしなやかだった。
「若返って……る?」
立ち上がる。
膝が鳴らない。
腰も痛まない。
足首も重くない。
四十九歳の身体なら、立ち上がるだけで覚悟が要った。
それが今は、ただ立てる。
それだけで泣きそうになる。
「……おい」
反射的に空へ向かって声を投げた。
「いるんだろ」
返事はなかった。
風が吹く。
草がざわめく。
それだけだ。
「ふざけんな。こういう時こそ説明しろよ」
沈黙。
小学三年の冬。
あの夜からずっと聞こえていた声。
中学の落選の日も。
高校で笑われた夜も。
四十九になって何も残らなかった朝も。
神様を名乗った、あの声。
それが、ない。
「……マジかよ」
胸の奥に、ぽっかり穴が開いたようだった。
うるさかった。
偉そうだった。
何度も腹が立った。
それでも、ずっといた。
その不在だけが、この広い世界より現実味を持っていた。
ハルはその場に立ち尽くした。
空は広い。
風は心地いい。
身体は若い。
なのに、妙に心細かった。
「……一人か」
その言葉を口にした瞬間だった。
草の波が、不自然に割れた。
ザザザッ、と何かがこちらへ一直線に走ってくる音。
「……?」
ハルは目を凝らした。
次の瞬間、草を押しのけてそれは現れた。
灰色の毛皮。
牛ほどもある巨体。
額から湾曲して伸びた二本の角。
肩口は異様に盛り上がり、筋肉が皮膚の下で蠢いている。
口元からは人間の拳ほどもある牙が何本も覗き、
黄色い目が、獲物を見るように細められていた。
狼。
そう呼ぶには、あまりにも巨大で、あまりにも禍々しかった。
「……うそだろ」
魔物だった。
図鑑にも、動物園にも、現実にもいないもの。
それが今、十数メートル先で涎を垂らしている。
低く唸った。
腹の底まで響くような音だった。
本能が理解する。
あれは危険だ。
あれは人間を殺せる。
あれはたぶん、殺したことがある。
「っ……!」
逃げろ。
そう思った時には足がもつれていた。
一歩目で転ぶ。
情けないほど無様に。
魔物が地面を蹴った。
速い。
巨体に似合わぬ速度で一直線に迫ってくる。
「うわあああ!」
転がる。
直後、さっきまで頭のあった場所に爪が叩き込まれた。
土が爆ぜる。
石が頬を裂いた。
痛い。
夢じゃない。
本当に死ぬ。
ハルは四つん這いで這った。
草を掴み、泥を掻き、ただ前へ進む。
背後で獣の息遣いが聞こえる。
近い。
近すぎる。
振り向いた瞬間、牙が目の前にあった。
「っ!」
腕で庇う。
衝撃。
鋭い痛み。
服が裂け、血が散った。
「ぐっ、あああ!」
焼けるように痛い。
息ができない。
涙が勝手に出る。
魔物は一歩下がり、獲物の苦しむ様子を眺めていた。
遊んでいる。
理解した瞬間、背筋が凍った。
こいつは余裕なのだ。
自分が死ぬことは、もう決まっている。
「ふざけ……んな……」
四十九年。
売れなかった。
認められなかった。
何者にもなれなかった。
それでもようやく来た異世界で、
開始数分で獣の餌。
そんな終わり方があるか。
魔物が再び姿勢を低くする。
次で終わる。
ハルは震える手で石を掴んだ。
小さな石ころだった。
笑えるほど頼りない。
それでも握るしかなかった。
「来いよ……!」
声が裏返る。
足が震える。
膀胱が緩みそうになる。
情けない。
惨めだ。
だが、死にたくなかった。
魔物が走った。
世界が遅くなる。
角。
牙。
黄色い目。
迫る死。
その瞬間だった。
風向きが変わった。
生温い風が、一気に熱へ変わる。
草原全体がざわめいた。
影が落ちる。
太陽が隠れた。
ハルも魔物も同時に空を見上げた。
そこに、山があった。
違う。
山が、飛んでいた。
巨大な翼が空を覆い、
一振りするたびに大気そのものが震える。
漆黒の鱗は陽光を鈍く返し、
一枚一枚が鎧のように重なっていた。
長大な首。
城門のような顎。
そこに並ぶ牙は、剣の列のようだった。
黄金の瞳。
それだけで、世界の頂点にいるとわかる目だった。
ドラゴン。
ハルが幼い頃、
ノートの端に何百回も描いた存在。
笑われた空想。
誰にも理解されなかった憧れ。
その本物が、空にいた。
竜が口を開く。
喉の奥が赤く灯る。
次の瞬間。
世界が炎になった。
轟音。
空気そのものが爆発したかと思う熱量。
火柱が魔物を飲み込む。
断末魔すら一瞬だった。
灰色の巨体は炎の中でもがき、
数歩よろめき、
黒い塊になって倒れた。
草原の一帯が熱で揺らめく。
ハルは顔を庇いながら、その光景を呆然と見ていた。
ドラゴンはゆっくり降下した。
着地の衝撃で地面が揺れる。
近くで見ると、なおさら巨大だった。
家など比較にならない。
小さな砦が一つ歩いてきたような質量だった。
鼻息だけで草がなぎ倒される。
竜は焼けた魔物の死骸を前足で押さえ、
顎を下ろし、
バリ、と喰いちぎった。
骨が砕ける音。
肉が裂ける音。
煙と血の臭い。
圧倒的だった。
幻想ではない。
可愛いマスコットでも、乗り物でも、守護者でもない。
生き物だった。
捕食者だった。
この世界の上位者だった。
ドラゴンが首を巡らせる。
黄金の瞳が、ハルを捉えた。
心臓が止まりそうになる。
視線だけで膝が笑った。
次は自分かもしれない。
そう思った。
だが竜は興味をなくしたように鼻を鳴らし、
翼を広げた。
暴風。
草原が伏せる。
ハルは地面にしがみついた。
数度の羽ばたきで巨体は宙へ浮かび、
そのまま空高く昇っていく。
雲を裂き、
太陽の中へ溶けるように消えていった。
静寂が戻る。
焦げ臭さ。
焼け跡。
血の滲む腕。
震える呼吸。
ハルはその場にへたり込んだ。
しばらく何も言えなかった。
ようやく、掠れた声が出る。
「……死ぬところだった」
次に、笑いが漏れた。
震えながら。
泣きそうになりながら。
「……ドラゴン、マジでいたのかよ」
四十九年、誰にも届かなかった物語。
笑われた夢。
諦めきれなかった幻想。
その全部が、
さっき空を飛び、
目の前で獲物を喰っていた。
ハルは血のついた手で地面を掴む。
この世界は優しくない。
若返っても強くはない。
何も特別ではない。
油断すれば、すぐ死ぬ。
それでも。
口元が、ゆっくり吊り上がった。
「……最高じゃねえか」
久遠ハルの第二の人生は、
死と竜の咆哮から始まった。




