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冷たい。


最初に感じたのは、それだった。


頬に触れる土の冷たさ。


湿った草の匂い。


鼻先をくすぐる青草の青い香り。


遠くで鳴く、聞いたことのない鳥の声。


風が肌を撫でていく感触まで、妙に鮮明だった。


久遠ハルはゆっくりと目を開いた。


空があった。


青かった。


信じられないほど青く、広かった。


どこまでも、どこまでも高く続いている。


天井ではない。


雨染みの浮いたアパートのクロスでも、


黄ばんだ蛍光灯でも、


夜勤明けの朝にぼんやり見上げていた薄汚れた白でもない。


本物の空だった。


「……は?」


掠れた声が出ると思った。


だが喉から出たのは、若い男の声だった。


張りがある。


息が詰まらない。


肺の奥まで空気が入っていく。


咳も出ない。


身体が軽い。


信じられないほど軽い。


ハルは反射的に上半身を起こした。


草原だった。


見渡す限り、揺れる緑。


陽光を受けて波のようにうねる草。


遠くには黒々とした森が広がり、


さらにその向こうには、雲を突き刺す山脈が連なっている。


そして空には、白い月が二つ浮かんでいた。


昼なのに。


青空の中に。


当然のように。


「……なんだよ、ここ」


呟いた声が震えた。


夢かと思った。


だが頬をつねる前に、土の感触があまりにも現実だった。


右手を見る。


皺がない。


浮き出た血管もない。


節くれ立った指でもない。


若い手だった。


慌てて頬を触る。


たるみもない。


無精髭もない。


髪は長く、指に絡むほどしなやかだった。


「若返って……る?」


立ち上がる。


膝が鳴らない。


腰も痛まない。


足首も重くない。


四十九歳の身体なら、立ち上がるだけで覚悟が要った。


それが今は、ただ立てる。


それだけで泣きそうになる。


「……おい」


反射的に空へ向かって声を投げた。


「いるんだろ」


返事はなかった。


風が吹く。


草がざわめく。


それだけだ。


「ふざけんな。こういう時こそ説明しろよ」


沈黙。


小学三年の冬。


あの夜からずっと聞こえていた声。


中学の落選の日も。


高校で笑われた夜も。


四十九になって何も残らなかった朝も。


神様を名乗った、あの声。


それが、ない。


「……マジかよ」


胸の奥に、ぽっかり穴が開いたようだった。


うるさかった。


偉そうだった。


何度も腹が立った。


それでも、ずっといた。


その不在だけが、この広い世界より現実味を持っていた。


ハルはその場に立ち尽くした。


空は広い。


風は心地いい。


身体は若い。


なのに、妙に心細かった。


「……一人か」


その言葉を口にした瞬間だった。


草の波が、不自然に割れた。


ザザザッ、と何かがこちらへ一直線に走ってくる音。


「……?」


ハルは目を凝らした。


次の瞬間、草を押しのけてそれは現れた。


灰色の毛皮。


牛ほどもある巨体。


額から湾曲して伸びた二本の角。


肩口は異様に盛り上がり、筋肉が皮膚の下で蠢いている。


口元からは人間の拳ほどもある牙が何本も覗き、


黄色い目が、獲物を見るように細められていた。


狼。


そう呼ぶには、あまりにも巨大で、あまりにも禍々しかった。


「……うそだろ」


魔物だった。


図鑑にも、動物園にも、現実にもいないもの。


それが今、十数メートル先で涎を垂らしている。


低く唸った。


腹の底まで響くような音だった。


本能が理解する。


あれは危険だ。


あれは人間を殺せる。


あれはたぶん、殺したことがある。


「っ……!」


逃げろ。


そう思った時には足がもつれていた。


一歩目で転ぶ。


情けないほど無様に。


魔物が地面を蹴った。


速い。


巨体に似合わぬ速度で一直線に迫ってくる。


「うわあああ!」


転がる。


直後、さっきまで頭のあった場所に爪が叩き込まれた。


土が爆ぜる。


石が頬を裂いた。


痛い。


夢じゃない。


本当に死ぬ。


ハルは四つん這いで這った。


草を掴み、泥を掻き、ただ前へ進む。


背後で獣の息遣いが聞こえる。


近い。


近すぎる。


振り向いた瞬間、牙が目の前にあった。


「っ!」


腕で庇う。


衝撃。


鋭い痛み。


服が裂け、血が散った。


「ぐっ、あああ!」


焼けるように痛い。


息ができない。


涙が勝手に出る。


魔物は一歩下がり、獲物の苦しむ様子を眺めていた。


遊んでいる。


理解した瞬間、背筋が凍った。


こいつは余裕なのだ。


自分が死ぬことは、もう決まっている。


「ふざけ……んな……」


四十九年。


売れなかった。


認められなかった。


何者にもなれなかった。


それでもようやく来た異世界で、


開始数分で獣の餌。


そんな終わり方があるか。


魔物が再び姿勢を低くする。


次で終わる。


ハルは震える手で石を掴んだ。


小さな石ころだった。


笑えるほど頼りない。


それでも握るしかなかった。


「来いよ……!」


声が裏返る。


足が震える。


膀胱が緩みそうになる。


情けない。


惨めだ。


だが、死にたくなかった。


魔物が走った。


世界が遅くなる。


角。


牙。


黄色い目。


迫る死。


その瞬間だった。


風向きが変わった。


生温い風が、一気に熱へ変わる。


草原全体がざわめいた。


影が落ちる。


太陽が隠れた。


ハルも魔物も同時に空を見上げた。


そこに、山があった。


違う。


山が、飛んでいた。


巨大な翼が空を覆い、


一振りするたびに大気そのものが震える。


漆黒の鱗は陽光を鈍く返し、


一枚一枚が鎧のように重なっていた。


長大な首。


城門のような顎。


そこに並ぶ牙は、剣の列のようだった。


黄金の瞳。


それだけで、世界の頂点にいるとわかる目だった。


ドラゴン。


ハルが幼い頃、


ノートの端に何百回も描いた存在。


笑われた空想。


誰にも理解されなかった憧れ。


その本物が、空にいた。


竜が口を開く。


喉の奥が赤く灯る。


次の瞬間。


世界が炎になった。


轟音。


空気そのものが爆発したかと思う熱量。


火柱が魔物を飲み込む。


断末魔すら一瞬だった。


灰色の巨体は炎の中でもがき、


数歩よろめき、


黒い塊になって倒れた。


草原の一帯が熱で揺らめく。


ハルは顔を庇いながら、その光景を呆然と見ていた。


ドラゴンはゆっくり降下した。


着地の衝撃で地面が揺れる。


近くで見ると、なおさら巨大だった。


家など比較にならない。


小さな砦が一つ歩いてきたような質量だった。


鼻息だけで草がなぎ倒される。


竜は焼けた魔物の死骸を前足で押さえ、


顎を下ろし、


バリ、と喰いちぎった。


骨が砕ける音。


肉が裂ける音。


煙と血の臭い。


圧倒的だった。


幻想ではない。


可愛いマスコットでも、乗り物でも、守護者でもない。


生き物だった。


捕食者だった。


この世界の上位者だった。


ドラゴンが首を巡らせる。


黄金の瞳が、ハルを捉えた。


心臓が止まりそうになる。


視線だけで膝が笑った。


次は自分かもしれない。


そう思った。


だが竜は興味をなくしたように鼻を鳴らし、


翼を広げた。


暴風。


草原が伏せる。


ハルは地面にしがみついた。


数度の羽ばたきで巨体は宙へ浮かび、


そのまま空高く昇っていく。


雲を裂き、


太陽の中へ溶けるように消えていった。


静寂が戻る。


焦げ臭さ。


焼け跡。


血の滲む腕。


震える呼吸。


ハルはその場にへたり込んだ。


しばらく何も言えなかった。


ようやく、掠れた声が出る。


「……死ぬところだった」


次に、笑いが漏れた。


震えながら。


泣きそうになりながら。


「……ドラゴン、マジでいたのかよ」


四十九年、誰にも届かなかった物語。


笑われた夢。


諦めきれなかった幻想。


その全部が、


さっき空を飛び、


目の前で獲物を喰っていた。


ハルは血のついた手で地面を掴む。


この世界は優しくない。


若返っても強くはない。


何も特別ではない。


油断すれば、すぐ死ぬ。


それでも。


口元が、ゆっくり吊り上がった。


「……最高じゃねえか」


久遠ハルの第二の人生は、


死と竜の咆哮から始まった。

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