5
四九歳になった久遠ハルは、まだ諦めていなかった。
諦める理由なら、いくらでもあった。
売れなかった。
認められなかった。
筆を折りかけた時もあった。
それでも、やめられなかった。
冬の朝。
安いアパートの窓は結露し、外の光は薄かった。
六畳一間。
学生の頃と変わらない広さに、四九年分の人生だけが積み上がっていた。
本棚には売れなかった同人誌。
床には書きかけの原稿。
机の横には空き缶と栄養ドリンク。
洗っていない食器。
干しっぱなしのシャツ。
夢を追った部屋というより、夢に食われた部屋だった。
スマホが震える。
母からの着信。
しばらく見つめてから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『ハル? あんた今日、病院来れる?』
母の声は昔より細くなっていた。
『お父さん、また検査なの』
「……仕事ある」
嘘だった。
今日は夜のコンビニバイトまで予定はない。
『そう』
責めるでもなく、ただ疲れた声だった。
『無理ならいいよ』
どこか諦めた声。
通話が切れる。
しばらく、部屋は静かだった。
机の上にはノートパソコン。
長い年月の末、何台も買い替え、壊れ、
結局昔の安物に戻った。
画面には出版社の売上明細。
先月分、電子書籍印税。
七百二十四円。
紙の増刷、なし。
新規企画の連絡、なし。
担当編集からの返信も、まだない。
「……ジュースも買えねえな」
笑ってみたが、喉が乾いていた。
タイトルは『神様の声』。
高校時代に書き始め、
書き直し、削り、足し、形を変えた。
二十年以上まだ終わっていない。
『執念深いね』
天井から声がした。
四十九歳になっても、神様の声は消えていなかった。
「お前もな」
『普通は途中でいなくなるものだよ。妄想も、情熱も』
「じゃあ消えろよ」
『君がまだ書いている』
ハルは舌打ちした。
椅子に座る。
キーボードに手を置く。
だが、指は動かなかった。
何を書けばいいのかわからない。
若い頃は怒りがあった。
世界への不満。
見返したい相手。
成功したい欲望。
今は、それすら薄い。
残っているのは習慣だけだった。
『どうだった?』
声が言う。
「何が」
『創作者人生は』
ハルは答えなかった。
代わりに部屋を見回す。
古い壁紙。
安物のカーテン。
積み上がる紙。
誰にも届かなかった言葉の山。
「……最悪だよ」
やっと出た声は、思ったより小さかった。
『そうかい』
「友達もいない」
「家庭もない」
「金もない」
「代表作もない」
「なのに、やめてもいない」
喉が詰まる。
「なんなんだよ、これ」
沈黙。
長い沈黙。
やがて声は、珍しく静かだった。
『本物だ』
「ふざけるな」
『本物の敗者だ』
ハルは机を蹴った。
空き缶が倒れ、乾いた音が鳴る。
「そんな称号いらねえよ!」
『だろうね』
「俺は……」
言葉が続かない。
悔しかった。
二十年前も、十年前も、昨日も。
ずっと悔しかった。
けれどもう、何に悔しいのかも曖昧だった。
スマホがまた震える。
今度はバイト先からだった。
『今日、人足りない。早めに来れる?』
既読もつけずに伏せる。
窓の外では、小学生たちが笑いながら登校していた。
ランドセルが揺れている。
その姿を見た瞬間、
胸の奥で、何かが軋んだ。
小学三年生の冬。
教室の窓際。
ドラゴンの落書き。
「久遠って、なんか変だよな」
あの日から、どこまで来た?
どこにも着いていなかった。
ハルは立ち上がる。
ふらつく足で、机の引き出しを開けた。
一番下。
古いノートが入っていた。
黄ばんだ紙。
幼い字。
そこに書かれていた最初の一文。
これは、神になる少年の物語。
指が震えた。
視界が滲む。
「……まだ、ここかよ」
四十九歳になっても、
自分はまだ一行目にいた。
『違うよ』
声がした。
いつになく、優しく。
『ようやくプロローグが終わった』
次の瞬間。
世界が、揺れた。
天井が軋む。
窓ガラスが震える。
地震――そう思うより先に、
本棚が倒れた。
ハルの身体が床へ投げ出される。
視界が回る。
頭を打つ。
熱い。
赤い。
遠ざかる意識の中で、声だけがはっきり聞こえた。
『第二話へ行こう、久遠ハル』
闇が落ちた




