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四九歳になった久遠ハルは、まだ諦めていなかった。


諦める理由なら、いくらでもあった。


売れなかった。


認められなかった。


筆を折りかけた時もあった。


それでも、やめられなかった。


冬の朝。


安いアパートの窓は結露し、外の光は薄かった。


六畳一間。


学生の頃と変わらない広さに、四九年分の人生だけが積み上がっていた。


本棚には売れなかった同人誌。


床には書きかけの原稿。


机の横には空き缶と栄養ドリンク。


洗っていない食器。


干しっぱなしのシャツ。


夢を追った部屋というより、夢に食われた部屋だった。


スマホが震える。


母からの着信。


しばらく見つめてから、通話ボタンを押した。


「もしもし」


『ハル? あんた今日、病院来れる?』


母の声は昔より細くなっていた。


『お父さん、また検査なの』


「……仕事ある」


嘘だった。


今日は夜のコンビニバイトまで予定はない。


『そう』


責めるでもなく、ただ疲れた声だった。


『無理ならいいよ』


どこか諦めた声。

通話が切れる。


しばらく、部屋は静かだった。


机の上にはノートパソコン。


長い年月の末、何台も買い替え、壊れ、


結局昔の安物に戻った。


画面には出版社の売上明細。


先月分、電子書籍印税。


七百二十四円。


紙の増刷、なし。


新規企画の連絡、なし。


担当編集からの返信も、まだない。


「……ジュースも買えねえな」


笑ってみたが、喉が乾いていた。


タイトルは『神様の声』。


高校時代に書き始め、


書き直し、削り、足し、形を変えた。


二十年以上まだ終わっていない。


『執念深いね』


天井から声がした。


四十九歳になっても、神様の声は消えていなかった。


「お前もな」


『普通は途中でいなくなるものだよ。妄想も、情熱も』


「じゃあ消えろよ」


『君がまだ書いている』


ハルは舌打ちした。


椅子に座る。


キーボードに手を置く。


だが、指は動かなかった。


何を書けばいいのかわからない。


若い頃は怒りがあった。


世界への不満。


見返したい相手。


成功したい欲望。


今は、それすら薄い。


残っているのは習慣だけだった。


『どうだった?』


声が言う。


「何が」


『創作者人生は』


ハルは答えなかった。


代わりに部屋を見回す。


古い壁紙。


安物のカーテン。


積み上がる紙。


誰にも届かなかった言葉の山。


「……最悪だよ」


やっと出た声は、思ったより小さかった。


『そうかい』


「友達もいない」


「家庭もない」


「金もない」


「代表作もない」


「なのに、やめてもいない」


喉が詰まる。


「なんなんだよ、これ」


沈黙。


長い沈黙。


やがて声は、珍しく静かだった。


『本物だ』


「ふざけるな」


『本物の敗者だ』


ハルは机を蹴った。


空き缶が倒れ、乾いた音が鳴る。


「そんな称号いらねえよ!」


『だろうね』


「俺は……」


言葉が続かない。


悔しかった。


二十年前も、十年前も、昨日も。


ずっと悔しかった。


けれどもう、何に悔しいのかも曖昧だった。


スマホがまた震える。


今度はバイト先からだった。


『今日、人足りない。早めに来れる?』


既読もつけずに伏せる。


窓の外では、小学生たちが笑いながら登校していた。


ランドセルが揺れている。


その姿を見た瞬間、


胸の奥で、何かが軋んだ。


小学三年生の冬。


教室の窓際。


ドラゴンの落書き。


「久遠って、なんか変だよな」


あの日から、どこまで来た?


どこにも着いていなかった。


ハルは立ち上がる。


ふらつく足で、机の引き出しを開けた。


一番下。


古いノートが入っていた。


黄ばんだ紙。


幼い字。


そこに書かれていた最初の一文。


これは、神になる少年の物語。


指が震えた。


視界が滲む。


「……まだ、ここかよ」


四十九歳になっても、


自分はまだ一行目にいた。


『違うよ』


声がした。


いつになく、優しく。


『ようやくプロローグが終わった』


次の瞬間。


世界が、揺れた。


天井が軋む。


窓ガラスが震える。


地震――そう思うより先に、


本棚が倒れた。


ハルの身体が床へ投げ出される。


視界が回る。


頭を打つ。


熱い。


赤い。


遠ざかる意識の中で、声だけがはっきり聞こえた。


『第二話へ行こう、久遠ハル』


闇が落ちた

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