森の案内人
誰もすぐには口を開かなかった。
風が畑を撫で、乾いた土の匂いが流れていく。その中で、村人たちは揃って森を見ていた。正確には、“見ないようにしている”ようにも見えた。
ハルはその空気を感じながら、もう一度地面へ視線を落とす。
引きずった跡。
乱れた草。
途中から不自然に消えかけている痕跡。
そして、さっき一瞬だけ視界に浮かんだ文字。
【痕跡】
頭がおかしくなったのかと思った。
だが、あれを見た瞬間から妙に感覚が冴えている。視界に入るもの全部が、意味を持って繋がって見えた。
とはいえ、何でもわかるわけじゃない。
犯人の顔が見えるわけでも、未来が読めるわけでもない。
ただ、“違和感”が前より鮮明に見える。
それだけだった。
「……森で何があった」
ハルが静かに尋ねると、槍を持った男が険しい顔になる。
「何がって?」
「子どもが消えるようになった原因だよ」
男は苛立ったように舌打ちした。
「わかってたら苦労しねぇ」
「探したんだろ」
「当たり前だ」
吐き捨てるような声だった。
「最初に消えた時は村総出で森を回った。罠も張ったし、夜通し見張りもした。それでも何も見つからなかった」
後ろにいた老人が、重い声で続ける。
「見つからなかったどころか、探しに行った連中までおかしくなった」
空気がわずかに強張る。
老人は森を見たまま言った。
「奥へ行った奴らが、急に道がわからなくなるんだ。気づけば同じ場所をぐるぐる回ってる。声が聞こえたって言う奴もいた」
「じいさん」
槍の男が止めようとする。
だが老人は構わず続けた。
「帰ってきた後も、何があったか思い出せねぇ。熱出して寝込んだ奴もいる。だから誰も森へ入りたがらん」
若い女が不安そうに娘の名前を呼ぶ。
その声を聞きながら、ハルは森を見る。
暗かった。
昼間なのに、奥だけ夜みたいに黒い。
しかも妙に静かだ。
鳥の声がしない。
虫の音も薄い。
森そのものが息を潜めているみたいだった。
「……でも、今回は違う気がする」
気づけば口にしていた。
村人たちの視線が集まる。
「何が違う」
ハルは地面を指差した。
「この跡。隠そうとしてる」
「は?」
「完全には消してない。急いで誤魔化した感じがする」
槍の男が眉をひそめる。
「そんなもん見てわかるのか」
「わかるっていうか……気になる」
うまく説明できなかった。
昔からそうだった。
会話のズレや、不自然な間ばかり気になる。人が流すような違和感に、妙に目が行く。
それが今、この世界ではもっと鮮明になっている。
その時だった。
カラン、と。
また、あの音が鳴った。
小さな金属音。
今度は村人たちもはっきり反応した。
誰かが息を呑み、若い女が顔を強張らせる。
「まただ……」
老人が青ざめた顔で呟く。
ハルは音のした方を見る。
森の入り口近く。
木々の隙間で、何か白いものが揺れた気がした。
一瞬だった。
子どもの服みたいにも見えたが、すぐに奥へ消える。
「おい!」
反射的に声が出る。
だが村人たちは誰も動かなかった。
森を見つめる目に、はっきり恐怖が浮かんでいる。
ハルは小さく息を吐いた。
怖いのは自分も同じだった。
こんな怪しい森、普通なら近づきたくない。
それでも、頭の奥の引っかかりだけが消えない。
まだ間に合う。
根拠もなく、そんな感覚だけが残っていた。
「……俺、行ってくる」
静まり返る。
槍の男が信じられないものを見る顔をした。
「正気か?」
「たぶん正気じゃない」
ハルは苦笑する。
「でも、あの跡見つけたの俺だしな」
「森を甘く見るな」
「甘く見てないよ。むしろめちゃくちゃ嫌な感じしてる」
本音だった。
背筋がずっと冷たい。
それでも足は森へ向こうとしていた。
その時、不意に後ろから声が飛ぶ。
「待て」
振り返ると、三十代くらいの男が立っていた。
痩せ気味で、帽子を深く被っている。
さっきからずっと黙っていた男だった。
「ダン、お前……」
槍の男が目を見開く。
ダンと呼ばれた男は嫌そうに頭を掻いた。
「森なら俺が案内する」
「馬鹿、やめとけ」
「放っとけねぇだろ」
ダンは森を睨む。
その横顔には、怯えと苛立ちが混ざっていた。
「……またガキが消えるのは気分悪い」
それだけ言って、腰の短剣を確かめる。
ハルはその姿を見ながら、もう一度森へ視線を向けた。
そしてダンを先頭に、二人は森へ足を踏み入れた。
村の境を越えた瞬間、空気が変わる。
湿っている。
外はまだ夕方の明るさが残っていたはずなのに、森の中は妙に暗かった。木々が空を覆っているだけではない。光そのものが奥へ届くのを拒まれているみたいな圧迫感がある。
ダンは慣れた様子で獣道を進んでいく。
「絶対に離れるなよ」
「わかってる」
「あと、変な音がしても勝手に動くな」
ハルは少し眉をひそめる。
「変な音?」
ダンは前を向いたまま答えた。
「呼ぶ声とか、足音とかだ。森じゃ当てにならん」
その言い方が妙に現実味を帯びていて、ハルはそれ以上聞かなかった。
森の中は静かだった。
風の音はする。
葉も揺れている。
なのに、生き物の気配がほとんどない。
ハルは歩きながら地面を見る。
引きずった跡は、まだかろうじて続いていた。だが途中から、露骨に見えづらくなっている。柔らかい土を避け、草の多い場所を選ぶように進んでいた。
人間だ。
少なくとも、“隠そうとしている何か”がいる。
その時だった。
ダンが急に立ち止まる。
「……見ろ」
低い声につられて視線を向ける。
木の根元に、小さな靴が落ちていた。
泥だらけの、子どもの靴。
ハルの胸がざわつく。
「ミナのか?」
「たぶんな」
ダンがしゃがみ込み、靴を拾う。
その手つきが妙に硬い。
ハルは周囲を見回した。
木々。
湿った地面。
倒れた草。
そして、少し先。
不自然に土が盛り上がっている場所がある。
「……あれ」
ハルは思わず呟く。
ダンの肩がわずかに揺れた。
「どうした」
「そこ、掘り返した跡に見える」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
ダンの顔が固まった。
だがすぐに、何でもない顔を作る。
「獣だろ」
「いや、違う」
ハルは近づく。
土が新しい。
しかも表面だけ雑に枯葉を被せてある。
隠した跡だ。
ハルは息を呑んだ。
嫌な予感がする。
妙に、胸が冷たい。
「……ダン」
呼びかける。
返事がない。
振り返ると、ダンが数歩後ろに立っていた。
その手には短剣が握られている。
空気が変わった。
「何してる」
ハルが低く言う。
ダンはすぐには答えなかった。
帽子の影で表情が見えない。
やがて、掠れた声が落ちる。
「……仕方なかったんだ」
ハルの背筋が冷える。
「何が」
「村に食い物が足りねぇ」
風が吹く。
木々がざわめく。
ダンは顔を上げた。
その目は、ひどく疲れていた。
「冬を越えられない年が続いた。病人も増えた。子ども全部育ててたら、村ごと死ぬ」
ハルは何も言えなかった。
ダンは笑う。
乾いた、壊れかけた笑いだった。
「最初は、本当に事故だったんだ。森で一人消えた。……そしたら、少しだけ食い扶持が減った」
「お前……」
「次からは、選んだ」
言葉が、重く落ちる。
「親のいねぇガキ。病弱なガキ。消えても騒ぎが小さい奴から」
ハルの胃が軋む。
頭の奥で、今までの違和感が全部繋がった。
森の噂。
消える足跡。
村人たちの怯え。
化物なんかじゃない。
人間だ。
この村が、自分たちでやっていた。
「……ミナもか」
「今回は予定じゃなかった」
ダンは苦しそうに顔を歪める。
「でも、お前が余計なことに気づいた」
短剣を握る手に力が入る。
「外の人間に知られたら終わりだ」
ハルはゆっくり後ずさる。
だが背後には木。
逃げ場がない。
ダンの目は揺れていた。
本当に殺したいわけじゃない。
それでも、やるしかないと思い込んでいる目だった。
「……村のためか」
「そうだ」
「違うな」
ハルは低く返す。
「お前、自分を納得させたいだけだ」
ダンの顔が歪む。
「黙れ」
「本当に村のためならこんなことはおかしい。自分たちだけ被害者みたいな顔して――」
「黙れッ!お前に何がわかる。」
ダンが踏み込む。
短剣が振り下ろされる。
ハルは咄嗟に避けた。
刃が木に突き刺さる。
鈍い音。
その瞬間、ハルの視界の端で何かが光った。
【逃走経路】
一瞬だけだった。
ハルは反射的に動いていた。
倒木を飛び越え、草の薄い場所へ滑り込む。
背後でダンの怒鳴り声が響く。
「待て!」
だがハルは止まらない。
心臓が嫌になるほど暴れていた。
森は暗い。
足場も悪い。
それでも今は、とにかく走るしかなかった。




