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森を駆ける

 枝が顔を掠める。湿った土に足を取られながら、ハルは無我夢中で森を駆けた。

 背後ではダンの足音が続いている。

 速い。

 森に慣れている人間の走り方だった。


「待てッ!」


 怒鳴り声が木々に反響する。

 ハルは振り返らない。

 振り返った瞬間に転ぶ気がした。 

 肺が痛い。

 腕の傷も熱を持っている。

 それでも止まれなかった。


 頭の中では、さっき聞かされた話がぐるぐる回っている。

 口減し。

 森に消えた子ども。

 村の沈黙。

 全部、人間がやっていた。

 しかも一人じゃない。

 村の連中は気づいている。

 少なくとも、薄々は。

 だから誰も森へ入りたがらなかった。

 化物を恐れていたわけじゃない。

 “真実”を見るのを恐れていた。

 その時、足が何かに引っかかった。


「っ……!」


 身体が前へ投げ出される。

 地面を転がり、肩を強く打った。

 痛みで息が詰まる。

 起き上がろうとした瞬間、背後で草を踏む音が止まった。

 ダンだ。

 数メートル先。

 荒い息遣いだけが聞こえる。


「……もうやめろ」


 低い声だった。


「逃げても無駄だ。この森で迷ったら死ぬ」


 ハルは黙ったまま周囲を見る。

 暗い。

 どこを向いても木ばかりだ。

 方向感覚なんて、とっくに消えている。

 ダンの言う通りだった。

 このまま逃げても、いずれ動けなくなる。

 だが、だからといって止まれるわけでもない。

 ゆっくり立ち上がる。

 ダンが短剣を握り直す音がした。


「悪く思うな」

「……無茶言うな」


 ハルは息を切らしながら笑う。


「殺される側に、それ言うか普通」


 ダンは何も返さなかった。

 代わりに、一歩近づいてくる。

 その顔には迷いが残っていた。

 本当に殺人に慣れている人間の顔じゃない。

 だから余計に危うい。

 追い詰められた人間は、勢いで踏み越える。

 ハルはゆっくり後退る。

 その時だった。

 カラン――。

 音が鳴った。

 金属が揺れるような、小さな音。

 ダンの動きが止まる。


「……っ」


 顔色が変わった。

 ハルは音の方を見る。

 木々の奥。

 暗闇の向こうで、何かが揺れた気がした。

 白い。

 子どもの服みたいな。


「なんだ、あれ……」


 思わず呟く。

 ダンは返事をしない。

 いや、できない。

 目を見開いたまま、その奥を凝視している。

 まるで、“見覚えがある”みたいに。

 次の瞬間。

 森の奥から、小さな声がした。


「……おにいちゃん」


 ハルの背筋が凍る。

 子どもの声だった。

 掠れていて、弱々しい。

 だが確かに聞こえた。

 ダンが一歩後ずさる。


「やめろ……」


 震えた声だった。


「なんで……」


 声が近づく。

 草を踏む、小さな足音。

 ハルは目を凝らす。

 暗闇の向こうに、小さな人影が立っていた。

 痩せ細った子ども。

 泥だらけの服。

 片方しかない靴。

 そして首元には、鈍く光る小さな鐘。

 風が吹く。

 カラン、と音が鳴る。

 ダンの顔から血の気が引いた。


「……ミナ」


 ハルは息を呑む。

 生きていた。

 だが、何かがおかしい。

 ミナはふらふらと立っているだけで、こちらへ来ない。

 表情も見えない。

 いや。

 見えた瞬間、ハルは凍りついた。

 目が、合っていない。

 焦点が空っぽだった。

 ダンが掠れた声を漏らす。


「そんな……」


 その時だった。

 ミナの後ろ。

 さらに奥の暗闇で、“何か”が動いた。

 人影みたいに見えた。

 だが妙に細長い。

 木の陰から、ゆっくり覗いている。

 ハルの全身に悪寒が走る。

 村人たちは、化物なんかいないと思っていた。

 全部、人間の罪だと。

 でも違う。

 この森には、本当に“何か”がいる。

 

 ダンが後ずさる。

 落ち葉を踏む音がやけに大きく響いた。


「……なんでだ」


 掠れた声だった。


「なんで、生きて……」


 ミナは答えない。

 ただ、ぼんやりとそこに立っている。

 風に揺れる髪。

 泥に汚れた服。

 首元の小さな鐘。

 カラン。

 また音が鳴る。

 その後ろ。

 木々の隙間にいる“何か”は、じっとこちらを見ていた。

 動かない。

 だが、確かにいる。

 ハルは喉が乾くのを感じた。

 暗くて輪郭は見えない。

 なのに、目だけはわかる気がした。

 見ている。

 値踏みするみたいに。

 その時、ダンが震える声で呟いた。


「……違う」


 ハルは横目で見る。

 ダンの顔は青ざめきっていた。


「あれは、ミナじゃねぇ」


 空気が冷える。

 ミナだったものが、一歩前へ出た。

 ぎこちない動きだった。

 糸で引かれているみたいに、不自然に首が揺れる。


「お、おい……」


 ハルが思わず声を漏らす。

 ミナの顔がゆっくり上がった。

 目は虚ろだ。

 だが口だけが、妙に歪んでいる。

 笑っていた。

 子どもの顔なのに、人形みたいに。

 カラン。

 また鐘が鳴る。

 その瞬間、後ろの暗闇が動いた。

 細長い影が、木の間を滑るように移動する。

 速い。

 

 ハルは叫んだ。


「逃げろ!!」


 ほぼ同時だった。

 影が飛び出す。

 黒い。

 いや、黒すぎて形がわからない。

 腕だけが異様に長く、地面を這うみたいに迫ってくる。

 ダンは反射的に横へ飛んだ。

 直後、背後の木が鈍い音を立てる。

 幹が深く抉れていた。


「っ……!」


 息が止まる。

 ダンが短剣を振るう。

 だが、届かない。

 影は音もなく後退し、また木々の奥へ消えた。

 静寂。

 荒い呼吸だけが残る。

 ハルは信じられないものを見る目でダンを見た。


「なんだよ、あれ……」


 ダンは答えなかった。

 いや、答えられなかった。

 顔面が蒼白になっている。


「知らねぇ……」


 本気だった。

 演技じゃない。

 ダンたちも、本当に知らなかったのだ。

 村がやっていた口減し。

 その死体を、この森は受け取っていた。

 そして――。

 カラン。

 また鐘が鳴る。

 ミナが立っている。

 いや、“立たされている”。

 その背後の闇と繋がるみたいに。

 ハルの頭の奥で、また熱が走った。


 影がまた動く。

 今度は、木の上。

 ぬるりと張り付きながら、こちらを見下ろしている。

 ハルは全身の毛が逆立つのを感じた。

 あれは、人を真似る。

 死んだ子どもの姿を使って。

 だから村では、“森に呼ばれる”なんて噂ができた。

 死んだはずの子どもの声で呼ばれれば、誰だって近づく。

 ダンの唇が震える。


「……俺たちのせいだ」


 その言葉は、懺悔みたいだった。


「捨てたから……森に……」


 最後まで言えなかった。

 影が落ちる。

 一瞬で距離を詰めてきた。


ダンが叫ぶより早く、影の腕が振り下ろされた。

 鈍い音。

 ダンの身体が横へ吹き飛ぶ。


「がっ……!」


 地面を転がり、木の根に叩きつけられる。

 短剣が手から離れた。

 ハルは凍りつく。

 速すぎた。

 どこから動いたのかすら見えなかった。

 影は木々の間に着地すると、不自然な動きで首を傾ける。

 骨のない生き物みたいだった。

 その足元で、ミナがふらふら立っている。

 鐘が鳴る。

 カラン。

 耳障りな音だった。

 ダンが苦しそうに咳き込む。


 ハルは動けなかった。

 影がこちらを見ている。

 目はない。

 顔も曖昧だ。

 なのに、“見られている”感覚だけが異様に強い。

 その時だった。

 影の身体が、ゆっくりミナへ近づく。

 細長い腕が伸びる。

 まるで抱き寄せるみたいに。

 ハルはそこで気づいた。

 あれは食っているんじゃない。

 “使っている”。

 死体を。

 人の形を被って、誘き寄せている。

 だから鐘を鳴らす。

 だから声を真似る。

 村人たちが聞いていた“子どもの声”は、本物じゃなかった。

 ダンが地面を掴みながら呻く。


「……俺たちが、捨てたから」


 ハルは視線を向ける。

 ダンは泣きそうな顔をしていた。


「森に埋めた。見つからないように。……化物にするつもりは無かった。」


 その言葉で理解する。

 最初は人間の罪だった。

 だが、途中から何かが混ざった。

 森が死体を拾った。

 そして、人の真似を覚えた。

 影が動く。

 今度は、まっすぐハルを見た。

 ぞっとするほど静かだった。

 頭の奥が熱を持つ。

 一瞬だけ、視界の端に文字が浮かぶ。

【逃走経路】

 それだけ。

 だが十分だった。

 ハルは反射的に横へ飛ぶ。

 直後、さっきまでいた場所を影の腕が抉る。

 地面が裂け、土が跳ねた。


「走れッ!」


 ハルはダンに怒鳴る。

 ダンとハルは迷わず駆け出した。

 木々の隙間を縫う。

 倒木を飛び越える。

 後ろで鐘の音が鳴る。

 カラン。

 カラン。

 追ってきている。

 振り返らなくてもわかった。

 森の空気そのものが迫ってくるみたいだった。

 息が切れる。

 肺が焼ける。

 それでも止まれない。

 頭の中では、ずっと同じ考えが回っていた。

 もしダンたちが子どもを捨てていなければ。

 もし最初の一人で終わっていれば。

 あれは生まれなかったのか。

 答えはわからない。

 だが、後悔だけが森に積もっていった。

 その結果が、あれだ。

 背後で木が折れる音がした。

 近い。

 ハルは歯を食いしばる。

 その時、前方にわずかな光が見えた。

 森の出口。

 村だ。

 ハルは最後の力で駆ける。

 だが――。

 視界の端で、何かが動いた。

 木の上。

 黒い影。

 先回りされている。


「っ!」


 足が止まりかける。

 その瞬間だった。

 


 背後で、何かが激突する鈍い音が響く。


「がっ……!」


 ダンの声だった。


 ハルは反射的に振り返る。


 ダンの身体が、木へ叩きつけられていた。

 肩から血が飛び散っている。

 いつ追いつかれたのかもわからなかった。

 黒い影が、細長い腕でダンを押さえつけている。


「く、そ……!」


 ダンが身を捩る。

 逃げようとしている。

 だが動けない。


 鐘が鳴る。


 カラン。


 少し後ろ。

 ミナが立っていた。

 いや、“立たされている”。


 焦点の合わない目で、ただこちらを見ている。


 影が動く。


 ぬるり、と。


 骨のない生き物みたいに、ダンへ覆いかぶさる。


「やめ……っ!」


 ダンの声が震えていた。

 恐怖だった。

 さっきまでの余裕なんて、もう欠片もない。


 ハルの足が止まる。


 助けるべきだ。


 そう思った。


 だが、身体が動かなかった。


 勝てない。


 頭のどこかで、はっきり理解していた。


 戻れば、自分も死ぬ。


 一瞬だけ、ダンと目が合う。


 怒りだったのか。

 助けを求めたのか。

 あるいは、ただ怖かったのか。


 わからない。


 次の瞬間、影の腕が振り下ろされた。


 血が飛ぶ。


 ダンの悲鳴が森に響いた。


 ハルは唇を噛み、走った。


 肺が焼ける。

 足がもつれる。

 それでも止まれない。


 村の灯りだけを目指して駆ける。


 背後では、鐘の音がいつまでも鳴っていた。


 カラン。


 カラン。

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