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鐘の音

 ハルは唇を噛み、走った。

 村の灯りが近づく。

 背後では、鐘の音がいつまでも鳴っていた。

 村へ飛び込んだ瞬間、何人もの村人が振り返った。

 焚き火の橙色の光。

 怯えた顔。

 張りつめた空気。

 その全部が、一気に視界へ流れ込んでくる。


「ハル!?」


 リオが駆け寄ってきた。

 だがハルは返事をする余裕もなく、その場へ膝をつく。

 肺が痛い。

 喉が焼ける。

 背後の森を振り返る。

 暗い。

 ただ暗闇だけが広がっている。

 誰も出てこない。


「ダンは!?」


 誰かが叫ぶ。

 ハルは息を整えようとして、失敗した。


「……森、に……」


 それだけで、周囲の顔色が変わる。

 槍を持った男が森を見る。


「何があった」


 ハルは答えようとして、言葉を失う。

 言ってどうなる。

 お前たちが捨てた子どもの死体を、森の化け物が使ってる――そんな話、まともに信じられるわけがない。

 だが、その時だった。

 カラン。

 森の奥から、鐘の音が響いた。

 村人たちが凍りつく。

 若い女が青ざめた顔で口元を押さえた。


「……ミナ?」


 また音が鳴る。

 カラン。

 そして。


「おかあさん」


 小さな声。

 森の入り口から聞こえた。

 女が息を呑む。

 ハルは叫んだ。


「行くな!!」


 だが遅い。

 女は半狂乱で森へ駆け出していた。


「ミナ! ミナなの!?」


 村人たちが慌てて止めようとする。

 その時。

 森の闇の中で、小さな影が見えた。

 子どもだった。

 泥だらけの服。

 片方しかない靴。

 首元の鐘。

 ミナだ。

 だが、ハルの背筋は凍る。

 違う。

 あれは違う。


「戻れ!!」


 叫ぶ。

 ミナがゆっくり顔を上げる。

 焚き火の明かりが、その顔を照らした。

 村人たちの悲鳴が上がる。

 目が、真っ黒だった。

 白目がない。

 口だけが、不自然に吊り上がっている。

 カラン。

 鐘が鳴る。

 その瞬間、森の奥の闇が動いた。


「下がれぇぇッ!!」


 ハルの声と同時だった。

 黒い影が飛び出す。

 女が悲鳴を上げる。

 槍の男が反射的に前へ出た。

 槍が振るわれる。

 だが、影はありえない動きで木へ張り付き、そのまま人間みたいに首を傾けた。

 焚き火の光で、その姿が一瞬だけ見える。

 細長い腕。

 異様に痩せた身体。

 子どもの顔が、いくつも身体に貼りついている。

 村人たちが絶句する。


「なんだ……あれ……」


 誰かが震える声を漏らす。

 影は答えない。

 ただ、子どもたちの声を重ねるみたいに鳴いた。


「おかあさん」

「さむい」

「いたい」


 村人たちの顔から血の気が消える。

 それは、捨てた子どもたちの声だった。

 ハルは歯を食いしばる。

 森が覚えていた。

 捨てられた声を。

 見捨てられた痛みを。

 全部。

 影がゆっくり前へ出る。

 そのたび、鐘が鳴る。

 カラン。

 カラン。

 槍の男が後退る。


「嘘だろ……」


 老人が震えながら呟く。


「祟りだ……」


 違う、とハルは思った。

 祟りなんかじゃない。

 もっと単純だ。

 見捨て続けた結果が、形になっただけだ。

 その時、影が動く。

 一瞬で距離を詰めた。

 悲鳴。

 焚き火が倒れる。

 炎が散る。

 村が混乱に包まれる中、ハルは咄嗟にリオの腕を掴んだ。


「逃げるぞ!」

「で、でも!」


 影は笑うみたいに鐘を鳴らす。

 その身体の奥で、無数の子どもの顔が蠢いていた。

 ハルは理解する。

 あれは終わらない。

 この村だけじゃない。

 捨てられたもの。

 見ないふりをされたもの。

 そういうものを喰って、増えていく。


 悲鳴が飛び交う。

 倒れた焚き火から火の粉が散り、乾いた藁へ燃え移る。誰かが水を運び、誰かが子どもを抱えて逃げ惑い、誰かは 腰を抜かしたまま動けなくなっていた。

 だが、その混乱の中心にいる“影”だけは妙に静かだった。

 木の上に張りつき、じっと村人たちを見下ろしている。

 まるで観察しているみたいに。

 カラン。

 鐘が鳴る。

 その音を聞いた瞬間、若い女が崩れるように膝をついた。


「ミナ……」


 影の身体の奥で、子どもの顔が蠢く。

 泣いている顔。

 怯えている顔。

 苦しそうな顔。

 そのどれもが、村人たちに見覚えのあるものだった。

 老人が震えながら後退る。


 「なんで……」


 答える者はいない。

 だが、誰もが理解していた。

 あれは突然現れた化け物じゃない。

 自分たちが森へ捨てたものの成れ果てだ。

 ハルはリオを庇うように前へ出る。

 足が震えていた。

 怖い。

 頭では逃げろと叫んでいる。

 それでも視線だけは、影から逸らせなかった。

 影がゆっくり首を傾ける。

 その動きは、どこか人間を真似ているみたいだった。

 学習している。

 人の声を。

 仕草を。

 悲鳴を。

 そして次の瞬間。

 影の中から、小さな手が伸びた。

 子どもの手だった。


「っ……」


 ハルの喉が詰まる。

 その手が、助けを求めるみたいに空を掴む。

 だがすぐに、黒い肉の中へ沈んでいった。

 リオが怯えた声を漏らす。


「まだ……生きてるの……?」

「違う」


 ハルは低く言う。

 そうじゃない。

 あれはたぶん、“残っている”だけだ。

 食われた記憶が。

 痛みが。

 声が。

 影はそれを抱え込んでいる。

 その時だった。

 槍を持った男が、震える足で前へ出る。

 顔面は真っ青だった。

 それでも槍を握る手だけは強く力が入っている。


「……俺たちのせいなら」


 掠れた声。


「ここで終わらせる」


 誰も止めなかった。

 止められなかった。

 男は一歩ずつ影へ近づく。

 影は逃げない。

 ただ、じっと見ている。

 そして。


「ごめんな」


 男が呟いた瞬間だった。

 影の中の子どもの顔が、一斉に笑った。

 ぞっとするほど無邪気な笑顔だった。

 次の瞬間、影が落ちる。

 黒い塊が男へ覆い被さった。

 悲鳴。

 肉の裂ける音。

 村人たちが叫びながら後退る。

 ハルはリオの目を塞いだ。


「見るな!」


 だが遅い。

 血が飛び散る。

 影は男を押し倒したまま、ゆっくり首を傾ける。

 そして、口みたいに裂けた暗闇の奥から、子どもの声を漏らした。


「おなかすいた」


 村人たちの恐怖が限界を超える。

 誰かが逃げ出した。

 それを合図にしたみたいに、全員が一斉に散る。

 影は追わない。

 ただ、ぐちゃぐちゃになった男の身体の上で、鐘を鳴らしていた。

 カラン。

 カラン。

 ハルは唇を噛む。

 理解した。

 あれは復讐じゃない。

 怒ってすらいない。

 ただ、“そういうもの”になってしまっただけだ。

 捨てられた命を喰って。

 人の声を覚えて。

 空腹だけを抱え続ける化け物。

 だから止まらない。

 村人が全員死んでも、たぶん終わらない。


「ハル……」


 リオの声が震えている。

 ハルはゆっくり森を見る。

 暗闇の奥。

 そこにはまだ、無数の気配があった。

 カラン。

 遠くで、また別の鐘が鳴る。

 ハルの背筋が凍った。

 一つじゃない。


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