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森と影

 森の奥、さらに深い暗闇から、いくつもの音が重なる。

 村人たちが絶望した顔で森を見た。


「……嘘だろ」


 誰かが掠れた声を漏らす。

 ハルも同じ気持ちだった。

 あれが一体だけでも最悪だったのに、まだいる。

 しかも、奥に。

 暗闇の向こう。

 木々の隙間で、何かが動く。

 小さい影。

 細長い影。

 四つ足みたいに這う影。

 そのどれもが、人の形を真似しきれていない。

 リオがハルの服を掴む。


「……なに、あれ」


 答えられなかった。

 影たちは森から出てこない。

 境界線の手前で止まり、じっと村を見ている。

 様子を窺っているみたいだった。

 その中央で、最初の化け物がゆっくり首を傾ける。

 血に濡れた口元。

 身体の中で蠢く子どもの顔。

 そして。


「おかあさん」


 また、子どもの声。

 若い女が泣き崩れる。


「やめて……」


 だが声は止まらない。


「くらいよ」

「いたいよ」

「さむいよ」


 村人たちの顔が歪む。

 聞き覚えがあるのだ。

 埋めた子どもたちの声だから。

 ハルはそこで、ふと違和感に気づいた。

 影たちは村へ入ってこない。

 さっきから、ずっと森の境で止まっている。

 偶然じゃない。

 何かを警戒している。

 ハルは周囲を見る。

 倒れた焚き火。

 散った火の粉。

 燃え残る松明。

 その瞬間、頭の奥が微かに熱を持った。

 一瞬だけ、文字が掠める。


【忌避】


 すぐ消えた。

 ハルは息を呑む。

 火だ。

 影たちは、火を避けている。


「……火を持て!」


 思わず叫ぶ。

 村人たちが振り向く。


「火だ! 松明を集めろ!」


 槍の男はもう死んだ。

 誰も指示を出せない。

 だから混乱したまま、村人たちは顔を見合わせる。


「早く!!」


 ハルが怒鳴る。

 その声でようやく何人かが動いた。

 燃えかけの木を拾う。

 焚き火を広げる。

 油壺を運ぶ。

 影たちがざわめいた。

 木々の上を、ぬるりと移動する。

 落ち着かないように。

 警戒するみたいに。

 ハルは確信する。

 効いてる。


「リオ、下がってろ」

「ハルは!?」

「……時間稼ぐ」


 本当は自分でも何をする気なのかわからなかった。

 だが、ここで誰かが前に立たなければ、村は終わる。

 ハルは燃えた木切れを掴む。

 熱い。

 火の粉が散る。

 影がそれを見て、わずかに後退った。

 その時だった。

 森の奥から、低い唸り声みたいなものが響く。

 空気が変わる。

 影たちが一斉に静止した。

 次の瞬間。

 奥の闇から、“大きいもの”が動く。

 木々が揺れた。

 地面が軋む。

 ハルの背筋を冷たいものが走る。

 今までの影とは比べ物にならない。

 森のさらに奥に、もっと巨大な何かがいる。

 子どもたちは、ただの一部だった。

 カラン。

 無数の鐘が一斉に鳴る。

 影たちがゆっくり頭を垂れた。

 まるで、親が現れたみたいに。


 森の奥で、木々が軋む。

 ミシ、ミシ、と。

 何か巨大なものが、ゆっくり体を引きずるみたいな音だった。

 村人たちは完全に動けなくなっていた。

 逃げることすら忘れ、ただ森を見ている。

 ハルも同じだった。

 本能が理解してしまったのだ。

 あれは駄目だ、と。

 今までの影とは格が違う。

 森そのものが歩いてくるみたいな圧迫感だった。

 カラン。

 鐘が鳴る。

 すると、境界線近くにいた影たちが一斉に下がった。

 怯えている。いや、従っている。

 ハルは燃えた木切れを握りしめたまま、奥を睨む。

 暗闇の向こうで、“何か”が蠢いている。

 形は見えない。

 ただ異様に大きい。

 木の幹より高い位置に、ゆっくり何かが動くのだけが見えた。

 その時だった。

 頭の奥が、ずきりと痛む。

 視界の端に文字が掠める。

【母体】

 一瞬だった。

 だが、それだけで十分だった。

 ハルは息を呑む。

 母体。

 つまり、あれが――。

「……元か」

 影たちを生み出しているもの。

 捨てられた死体。

 森に溜まった飢え。

 見捨てられた感情。

 そういうもの全部を抱え込んだ“核”。

 カラン。

 また鐘が鳴る。

 その瞬間、奥の闇の中で何かが開いた。

 目だった。

 巨大な、黒い目。

 木々の隙間から、じっと村を見ている。

 誰かが悲鳴を上げる。

 リオが震えながらハルの腕を掴んだ。


「ハル……」


 ハルは答えられなかった。

 あれは見てはいけないものだ。

 見ているだけで、頭の奥がざわつく。

 耳鳴りがする。

 村人の一人が、ふらりと前へ歩き出した。


「おい!」


 誰かが止める。

 だが男は聞こえていないみたいに森へ向かう。

 口元が緩んでいた。


「……母さん」


 呟く。

 ハルの背筋が凍る。

 違う。

 呼ばれている。

 影たちと同じだ。

 声で誘っている。

 次の瞬間、森の奥から優しい女の声が響いた。


「おかえり」


 男が泣きそうな顔になる。


「母さん……!」


 走り出そうとした瞬間、ハルは咄嗟に燃えた木切れを投げた。

 火が男の足元へ転がる。

 同時に、森の声が途切れた。

 男がはっとした顔で立ち止まる。


「……え?」


 ハルは叫んだ。


「聞くな!!」


 その声で男が我に返る。

 直後、森の奥で低いうなり声が響いた。

 不満そうな音だった。

 巨大な目が細まる。

 ハルは理解する。

 火だけじゃない。

 “正気”を保たないと駄目なんだ。

 あれは声で揺さぶる。

 罪悪感や後悔を使って、人を森へ引き込む。

 だから村人たちは帰ってこれなくなった。

 化物に襲われたんじゃない。

 自分から森へ入っていた。

 老人が震える声で呟く。


「どうすればいい……」


 誰も答えられない。

 倒せる気がしなかった。

 あれは怪物というより、現象に近い。

 森そのものだ。

 その時。

 ハルの頭に、ふと一つの考えが浮かぶ。

 ――飢えてる。

 子どもの声。

 空腹。

 呼び声。

 全部、“欲しがっている”。

 なら。


「……火を広げろ」


 ハルが低く言う。

 リオが振り返る。


「え?」

「森を焼く」


 空気が止まった。

 村人たちが目を見開く。


「正気か!?」

「このままなら全員死ぬ」


 ハルは森を見る。

 巨大な目が、じっとこちらを見返していた。

「巣ごと消すしかない」


 村人たちは動けなかった。

 森を焼く。

 その言葉の意味が重すぎたのだ。

 この森は生活の一部だった。

 薪を拾い、獣を狩り、水を引く。恐れていても、完全には切り離せない場所だった。

 それを焼く。

 つまり、この土地そのものを捨てるに近い。


「無理だ……」


 老人が呟く。


「こんな森、燃え広がったら村まで――」

「その前に食われる」


 ハルは遮る。

 自分でも驚くくらい冷たい声だった。

 だが、そう言うしかない。

 森の奥では、巨大な“母体”がじっとこちらを見ている。

 待っているのだ。

 迷うのを。

 諦めるのを。

 その間にも、鐘の音は増えていく。

 カラン。

 カラン。

 カラン。

 まるで腹を空かせた子どもたちの泣き声みたいだった。

 リオが小さく震えながら言う。


「……本当に、燃やすの?」

「たぶん、もうこれしかない」


 ハルは森を睨む。

 もし普通の獣なら逃げれば終わる。

 だが、あれは違う。

 人を覚えている。

 声を真似る。

 後悔につけ込む。

 放っておけば、別の村でも同じことを繰り返す。

 その時だった。

 森の奥から、また声が響く。


「たすけて」


 子どもの声。

 今度は、リオによく似た声だった。

 リオの肩がびくりと震える。


「おねえちゃん」


 ハルは即座にリオの耳を塞いだ。


「聞くな」


 リオの顔が青ざめる。


「いま……弟の声……」


 ハルは答えない。

 森は、人の弱い場所を探している。

 たぶん、誰にでも“そういう声”が聞こえるのだ。

 その証拠に、村人たちの顔が次々変わっていた。

 死んだ家族の名前を呟く者。

 泣き出す者。

 森へ近づきかける者。

 まずい。

 長引けば崩れる。


「油を持ってこい!」


 ハルが怒鳴る。

 槍の男はもういない。

 だから、誰かが決めなければならなかった。


「納屋の油でも酒でもいい! 火を回せ!」


 村人たちは迷っていた。

 だが、森から聞こえる声が増えるたび、その迷いは恐怖へ変わっていく。

 やがて一人の女が動いた。

 油壺を抱えてくる。


「……もう嫌だ」


 泣きながら呟く。


「こんなの……終わってよ……」


 それをきっかけに、他の村人たちも動き出した。

 油。

 薪。

 松明。

 ハルは火のついた枝を握りしめる。

 熱い。

 でも、その熱だけが現実だった。

 森の影たちがざわめく。

 境界線の向こうで揺れている。

 嫌がっている。

 その奥で、“母体”の巨大な目がゆっくり細まった。

 怒っているみたいだった。

 次の瞬間。

 森全体が鳴いた。

 鐘の音。

 子どもの声。

 女の泣き声。

 男の怒鳴り声。

 全部が混ざって響く。

 村人たちが耳を塞ぐ。

 リオがしゃがみ込む。

 ハルも頭が割れそうだった。

 それでも、歯を食いしばる。


「投げろ!!」


 油壺が森へ飛ぶ。

 続けて、火。

 次の瞬間。

 轟、と炎が上がった。

 乾いた葉が一気に燃え広がる。

 影たちが叫んだ。

 人間の声だった。

 子どもの泣き声。

 女の絶叫。

 獣みたいな唸り。

 森の奥で巨大なものが蠢く。

 木々が揺れ、地面が震える。

 だが炎は止まらない。

 長年積もった枯葉を伝い、赤い舌みたいに奥へ走っていく。

 母体の目が、初めて大きく見開かれた。

 その時、ハルは見た。

 炎の中で。

 黒い肉の奥に、無数の子どもの影が浮かぶのを。

 泣いていた。

 助けを求めるみたいに。

 だが次の瞬間、炎が全部を呑み込む。

 鐘の音が狂ったように鳴り響いた。

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