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久遠ハルが“神様の声”を聞いた翌日、世界は何ひとつ変わっていなかった。
朝。
台所では母が味噌汁をよそい、テレビでは天気予報のお姉さんが笑っている。
「早く食べなさい、遅れるよ」
いつもの声。
いつもの食卓。
いつもの朝。
けれど、ハルだけは昨日までと違っていた。
世界は偽物だ。
神が言っていたその言葉が頭から離れない。
父は新聞をめくりながら、会社の愚痴をこぼしている。
母は今日の買い物と近所付き合いの話をしている。
二人とも真面目に生きている。
ちゃんと働き、ちゃんと食べ、ちゃんと明日を迎えている。
それなのに、どこか疲れた顔をしていた。
この人たちは、本当にこれを望んでいたのだろうか。
ハルは箸を止めた。
「どうしたの?」
母が聞く。
「……なんでもない」
言えるわけがなかった。
あなたたちの世界は偽物だ、なんて。
学校へ向かう通学路。
ランドセルを揺らしながら歩く子どもたち。
スーツ姿で駅へ急ぐ大人たち。
みんな同じ方向へ進んでいく。
決められた時間。
決められた場所。
決められた役割。
まるで、見えないレールの上だ。
『気づいたようだね』
突然、あの声がした。
ハルは立ち止まる。
「……お前」
周囲の誰も反応しない。
他の人には聞こえていないらしい。
『君だけに聞こえる』
「なんなんだよ、本当に神なのか?」
『そう名乗ったほうが都合がいい』
ふざけた声色だった。
「都合ってなんだよ」
『君は肩書きを信じる生き物だからさ』
ハルはむっとした。
『それより見てごらん』
声に促され、ハルは前を見る。
駅へ向かう大人たち。
うつむいた顔。
急ぎ足。
誰とも目を合わせない。
『彼らも昔は、空を飛びたいと言っていた』
『剣士になりたい者もいた。歌手になりたい者も、世界を変えたい者もいた』
『だが大人になるにつれ、少しずつ削られていった』
『現実という名の鉋でね』
ハルには難しい言葉だったが、意味はわかった。
削られる。
丸められる。
形を変えられる。
『やがて夢を語らなくなる』
『その代わりに、現実的になる』
『賢くなるとも言う。大人になるともね。』
「それって悪いことなのかな…」
ハルは思わず言った。
『悪くはない』
『ただ、つまらない』
声はあっさり答えた。
ハルも、同じことを思った。
けれどーーそう素直にうなずくのも、なぜだか癪だった。
教室に入ると、ざわめきが止まった。
数人がハルを見て、すぐ視線を逸らす。
昨日のことが広まっていた。
ユウタがニヤニヤしながら近づいてくる。
「よう、ドラゴン先生」
周囲が笑う。
ハルは何も言わず席に着いた。
「今日は何描くんだ? 魔法使い? 宇宙人?」
笑い声。
昨日までなら、胸が苦しくなっていた。
けれど今日は違った。
こいつらは知らない。
この世界が偽物だということを。
僕だけが教えてもらった。
そして自分には神になる資格があることを。
そう思うと、奇妙なくらい落ち着いた。
「無視かよ」
ユウタが机を蹴る。
ガタン、と音が鳴る。
「なあ久遠。お前ってさ、ずっと子どものままだよな」
教室が静まり返る。
「みんなもう、そういうの卒業してんだよ」
子どものまま。
その言葉は、ハルの胸の奥へ深く沈んだ。
周りは大人になっていく。
空気を読めるようになり、損得を覚え、夢を笑う側へ回っていく。
自分だけが取り残されている。
その感覚は、ずっと前からあった。
ハルはゆっくり顔を上げた。
「……だったら、子どものままでいい」
教室がざわつく。
ユウタも一瞬言葉を失った。
「は?」
「お前らみたいになるくらいなら、ずっと子どもでいい」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
ユウタの顔が赤くなる。
「なんだと――」
そのとき、担任の先生が教室へ入ってきた。
「席につけー」
騒ぎはそこで終わった。
けれどハルの中では、何かが決定的に変わっていた。
放課後。
ハルは家へ帰るなり机に向かった。
ノートを開く。
鉛筆を握る。
今日は竜ではない。
王国でも魔王でもない。
教室だった。
笑う子どもたち。
取り残される少年。
そして空から声が降ってくる。
現実を物語に変える。
嫌なことも、痛いことも、全部材料にする。
『いい目だ』
神様の声が言った。
『苦しみを呪う者は多い』
『だが、それを薪に変えて燃やせる者は少ない』
「……薪?」
『創作の火種さ』
ハルは夢中で描き続けた。
夕方になり、夜になっても止まらなかった。
ノート一冊が埋まるころ、指が痛くなっていた。
それでも嬉しかった。
生きている気がした。
『覚えておくといい、久遠ハル』
声が静かに告げる。
『君はこれから何度も絶望する』
『才能に、現実に、年齢に、他人に、自分自身に』
ハルの手が止まる。
「……何度もって」
『それでも描け』
『それでも創れ』
『神になる道は、そこにしかない』
窓の外では、街の灯りが瞬いていた。
箱のような建物の中で、たくさんの大人たちが疲れた顔で明日の準備をしている。
ハルは白紙の次のページを開いた。
そして、新しい世界を書き始めた。




