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久遠ハルが、自分はこの世界に向いていないのだと初めて思ったのは、小学三年生の冬だった。
教室の窓際。
昼休み。
クラスの男子たちは校庭でサッカーをしている。女子たちは机を寄せ合って笑っている。
そのどこにも、ハルの居場所はなかった。
誘われなかったわけではない。
最初の頃は、自分から混ざろうとしたこともある。
けれど、走れば転ぶ。
ボールを蹴れば明後日の方向へ飛ぶ。
話しかければ、会話の間が変になる。
「久遠って、なんか変だよな」
誰かが笑いながら言ったその一言が、ずっと耳に残っていた。
変。
その言葉は便利だった。
みんなと違うこと。
うまくできないこと。
空気を読めないこと。
ひとりでノートに絵ばかり描いていること。
全部まとめて、変。
ハルは机に伏せながら、ノートの端に竜の絵を描いた。
牙を剥き、炎を吐く巨大な黒竜。
その前に立つ、小さな剣士。
現実の自分は、ボールひとつまともに蹴れない。
でも紙の上なら、どんな英雄にもなれた。
「また落書きしてる」
後ろからノートを取り上げられる。
振り返ると、クラスの中心にいる男子、沢村ユウタがニヤニヤしていた。
「うわ、ドラゴンだって。子どもかよ」
周囲から笑い声が起こる。
ハルは立ち上がってノートを奪い返そうとしたが、ユウタはひょいと手を上げた。
背が高い。届かない。
「返して」
「やだね」
「返せよ」
声が震えていた。
するとユウタは、ふっと真顔になって言った。
「久遠さ、お前いつまでそういうのやってんの?」
その一言に、教室の空気が変わった。
笑い声が止む。
「もう三年生だぜ?」
三年生。
たったそれだけの年齢に、どれほどの意味があるのかハルにはわからなかった。
けれどみんなにとって、それは“子どもを卒業し始める年齢”らしかった。
竜や勇者を描いて喜んでいるやつは、遅れている。
そういう目だった。
ユウタはノートを机の上へ放り投げた。
「大人になれよ」
その言葉だけが、やけに重く落ちた。
家に帰ると、ハルはランドセルを投げ出して部屋にこもった。
六畳の狭い部屋。
机の上にはノートが山積みになっている。
そこには何冊分もの物語があった。
魔王を倒す騎士。
空を駆ける海賊。
死んだ妹を蘇らせる錬金術師。
誰にも理解されない少年が、異世界で王になる話。
現実では笑われるものが、ここでは命を持つ。
ハルは椅子に座り、無言でペンを走らせた。
描く。
描く。
描く。
気づけば外は暗くなっていた。
夕飯の時間を告げる母の声も聞こえなかった。
ただ、世界を作っていた。
その夜。
布団に潜っても眠れなかった。
「大人になれよ」
ユウタの声が何度も蘇る。
大人ってなんだ。
ドラゴンを描かないことか。
勇者を笑うことか。
夢を捨てることか。
もしそうなら、そんなものにはなりたくなかった。
ハルは天井を見つめながら、小さく呟いた。
「この世界、つまんない」
その瞬間だった。
『――そんなに、この世界が嫌かい』
声がした。
男とも女ともつかない。
遠くから響くようで、耳元で囁くようでもある声。
ハルは飛び起きた。
「だ、誰!?」
部屋には誰もいない。
カーテンが揺れているだけだ。
『安心するといい』
声は続ける。
『君がおかしいのではない』
『この世界が、つまらなすぎるのだ』
ハルの喉が鳴った。
怖い。
けれど、それ以上に聞きたかった。
「……なんなんだよ、お前」
しばらく沈黙があり、やがて声は笑うように告げた。
『神だよ』
「は?」
『この世界は偽物だ』
ハルは息を止めた。
『誰かが作った世界。決められたルール。決められた価値観。決められた幸福』
『だが安心してくれ』
『その世界を作った者もまた、誰かに作られた存在だ』
意味はわからなかった。
けれど、不思議と胸の奥が熱くなった。
『君には資格がある、久遠ハル』
名前を呼ばれ、背筋が震える。
『子どもの無邪気さを失わず、誰にも褒められず、それでも創り続ける者』
『そういう者だけが――神になれる』
ハルは布団を握りしめた。
「……神に、なれる?」
『ああ』
『この退屈な世界を、上書きする神に』
部屋の空気が震えた気がした。
窓の外、夜の街は静かだった。
何も変わらない。
けれどハルの中では、何かが確かに始まっていた。
『描け』
声は最後にそう言った。
『誰よりも描け。書け。創れ』
『生涯を、それに捧げろ』
『そしていつか――君自身の世界を持て』
次の瞬間、声は消えた。
静寂だけが残る。
ハルは震える手で机へ向かった。
ノートを開く。
白紙のページ。
そこへ、ゆっくりと一行目を書いた。
これは、神になる少年の物語。
そのとき、久遠ハルはまだ知らなかった。
その言葉が、40年後の絶望と、
二度目の人生へ繋がっていることを。




