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夜明け

夜明けの頃には、森の火もようやく勢いを失っていた。

まだ所々で煙は燻っている。それでも、昨夜のような炎はもうない。

村人たちは疲れ切っていた。

誰も眠っていない。

怪我人の手当て。

焼けた家の確認。

死体の回収。

誰もが黙々と動いていた。

声を出す余裕すら残っていない。

ハルは村の外れに腰を下ろし、灰色の空をぼんやり見上げていた。

頭が重い。

熱でもあるみたいだった。

森が静かになってから、あの奇妙な“文字”は一度も現れていない。

結局、なんだったのか。

わからないままだ。


「……ここにいたんだ」


声に振り向く。

リオだった。

両手に木の器を抱えている。湯気が立っていた。


「飲む?」

「……ありがたい」


受け取る。

薄いスープだった。けれど、空っぽの胃には妙に沁みた。

リオは少し離れた場所へ腰を下ろす。

しばらく、二人とも何も喋らなかった。

ただ、燃えた森を見ていた。

やがて、リオがぽつりと呟く。


「みんな、ハルのこと怖がってる」

「だろうな」


苦笑が漏れる。

当然だった。

突然現れた余所者が、村の秘密を暴き、森を焼かせた。

感謝だけで済むはずがない。


「でも、助かったとも思ってる」


リオは膝を抱えながら言う。


「変な感じなんだ。誰も、どうしたらいいかわかってない」


ハルは器の中を見る。

薄いスープに、自分の顔がぼんやり映っていた。


「……俺もわからないよ」


本音だった。

自分はこの世界の人間じゃない。

人が隠したがるもの。

リオが小さく笑った。


「でも、ハルが来なかったら、たぶん村なくなってた」

「運が良かっただけだ」

「違うよ」


即答だった。

ハルは少し驚く。

リオは燃え跡を見つめたまま続けた。


「大人たち、みんな目を逸らしてたから」


その言葉が妙に残った。

ハルは何も返さない。

代わりに空を見る。

灰が流れていた。

まるで雪みたいに。

――その時だった。

村の入口の方がざわつく。

何人かの村人が、慌てた様子で集まり始めていた。


「……?」


ハルとリオは顔を見合わせる。

次の瞬間、誰かが叫んだ。


「人だ!」


空気が変わる。

村人たちの顔が強張り、反射的に武器へ手が伸びる。

ハルもゆっくり立ち上がった。

燃え跡の向こう。

朝靄の中から、一人の男が歩いてくる。

黒い外套。

長い杖。

鳥のくちばしのような形状をした仮面。

男は焼けた森を見渡し、ゆっくり足を止める。

そして低く呟いた。


「……遅かったかな」


その一言で、村の空気が凍った。

男の視線が、静かにハルへ向く。

仮面の奥。

細い目が、わずかに細められた。


「君か。核を壊したのは」


背筋に冷たいものが走る。

知っている。

こいつは――あれを知っている。

村人たちがざわつく。

だが、誰も前へ出ようとはしなかった。

昨夜の出来事で、もう普通の感覚が壊れかけている。

目の前の男が危険なのかどうかすら、判断できないのだ。

男は焼け跡へ目を向け、小さく息を吐いた。


「完全に燃やしたのか」

「……悪いか?」


低く返す。

男は首を横に振った。


「いや。正しい。そうするしかなかっただろう」


あっさりした口調だった。

責める気配はない。

――それが、逆に不気味だった。

男は杖をつきながら、ゆっくり村へ入ってくる。

村人たちが後ずさった。

その反応にも慣れているようだった。


「安心しろ。私は敵じゃない」

「信用できると思うか?」


ハルが言うと、男は少しだけ笑った。


「思わないな」


仮面のせいで表情は見えない。

だが、声には妙な落ち着きがあった。


「……ひとつ聞いていいか」

「構わない」

「なんで俺が核を破壊したと分かった」


村人たちが小さくざわつく。

リオも不安そうに二人を見比べていた。

男は少しだけ首を傾げた。


「気づいていないのか」

「何が」


男は杖の先で、焼け跡の灰を軽く突く。


「目だ」

「……目?」

「君、森を見ていただろう」


昨夜のことを思い出す。

燃える森。

奇妙な“文字”。

【痕跡】

【追跡可能】

【核】

あれを見ていた時の感覚。

世界が少し遠くなって、

代わりに、見えないものだけが妙に鮮明になるような。

男は静かに続ける。


「読める者は、目が変わる」


ハルの眉が寄る。


「読める?」

「痕跡や因果を拾う者だ」


男は仮面を軽く指で叩いた。


「普通の人間にはわからない。だが同じ側の者なら見分けがつく」


風が吹く。

灰が静かに流れた。


「焦点が深くなる。景色を見ているようで、別のものを見ている目になる」


ハルは無意識に自分の目元へ触れる。


「……そんなの、自分じゃわからないだろ」

「大抵はな」


男の声だけ、少し重くなった。


「だから厄介なんだ」


男は焼けた森を見渡す。

黒く焦げた木々。

まだ燻る地面。


「見なくていいものまで見える」


少しだけ間が落ちる。


「人が隠した感情。土地に残ったもの。時には、壊れる前兆まで」


ハルは黙る。

昨夜、村の空気が妙にわかった理由。

言葉にならない不気味さ。

あれを思い出していた。

男が改めてハルを見る。

まるで値踏みでもするみたいに。

やがて男は焼けた森へ目を向けた。


「昨夜のあれは、“残響”だ」

「残響?」

「人の強い感情が土地に染みつき、形を持ったものだ」


男は杖で灰を軽く突く。


「特に、死と飢えは残りやすい」


ハルは黙って聞いていた。

作り話には思えなかった。

昨夜、自分が見たものを考えれば、むしろ妙に納得できる。

「普通は、時間と共に薄れる。だが長く繰り返されると、“核”が生まれる」

男は焼け跡へ視線を向けた。

黒く炭化した木々。

灰。

まだ燻る地面。


「昨夜のものは、かなり大きい部類だ。村一つ消えていても不思議じゃなかった」


リオの顔が青くなる。

男は続けた。



「君、この先行く当ては?」

「ない」

「なら来るか」


ハルが眉を寄せる。


「どこへ」


男は少し空を見上げた。

曇った朝空だった。


「同じ異能を扱う連中がいる場所だ」


リオが不安そうに口を開く。


「……ハル、行くの?」


ハルはすぐに答えられなかった。

村を見る。

焼け跡。

疲れ切った人たち。

灰になった森。

ここに残る理由は、もうほとんどない。

それに――

あの“文字”について、知る必要がある気がした。

男が静かに言う。


「君はもう、普通には戻れない」


その声には、脅しも同情もなかった。

ただ、事実を置くみたいに静かだった。

ハルは何も言わず、燃えた森を見る。

黒い灰の匂いが、まだ残っている。

昨夜の光景が頭から離れなかった。

子どもの声。

鐘の音。

燃える“母体”。

あれを見たあとで、元の生活に戻れる気はしない。

そもそも、自分には“元の生活”なんて、もうない。

異世界へ来た時点で、とっくに失われている。


「……あんた、何者なんだ」


男は少し考えるように間を置いた。


「“観測者”と呼ばれている」

「胡散臭いな」

「よく言われる」


あっさりした返答だった。

思わず、ハルは少しだけ肩の力を抜く。

リオが恐る恐る尋ねる。


「その……観測者って、何をする人たちなんですか」

「異形を探し、処理する」


簡潔だった。


「放置すれば土地が壊れる。村一つ消える程度なら、まだ小さい方だ」


村人たちの顔色が変わった。

男は焼け跡へ目を向ける。


「昨夜の件も、本来なら我々が来る予定だった。だが遅れた」


その声に、わずかな悔しさが混じる。

ハルは眉をひそめた。


「……よくあるのか?」

「増えている」


男は短く答えた。


「飢饉。戦。疫病。人が追い詰められるほど、異形は濃くなる」


嫌な話だった。

しかも、妙に現実的だ。

ハルは小さく笑う。


「最悪な世界だな」

「人間は、どこでも似たようなものだ」


その言葉に、ハルは少し黙った。

……確かに、そうかもしれない。

世界が違っても、人は簡単には変わらない。

――その時だった。

村の奥から、年配の女が歩いてくる。

目の下には深い隈。

昨夜、ミナを探していた母親だった。

女はハルの前で立ち止まり、深く頭を下げる。


「……ありがとう」


掠れた声だった。

ハルは返事に困る。

助けられなかった。

ミナは戻らなかった。

感謝される資格なんてない気がした。

女は涙を堪えるように唇を噛む。


「でも……終わらせてくれた」


その言葉をきっかけに、周囲の村人たちも静かに頭を下げ始めた。

感謝。恐怖。罪悪感。憎しみ。

全部が混ざった顔だった。

ハルは居心地の悪さを覚え、視線を逸らす。

男が静かに言う。


「出るなら今日だ」

「急だな」

「異形は連鎖する」


男の声が少し低くなる。


「異形が現れた場所には、別のものが寄ってくることがある」


ハルの眉が寄った。


「……まだ終わってないのかよ」

「昨夜の件は終わった」


男は静かに続ける。


「だが、君はもう“こちら側”だ」


その言葉が妙に重かった。

望もうが望むまいが。

これからも関わる――そんな響きだった。

リオが再び尋ねる。


「……行くの?」


ハルは少しだけ考えた。

けれど、答えは案外すぐ出た。


「面倒だが、行くあてもないしな」


男が小さく笑う。


「賢明だ」

「褒められてる気がしないな」


男は杖を鳴らした。

ハルは燃えた森を最後に見る。

灰の向こう。

もう鐘の音は聞こえなかった。

だから、ゆっくり頷く。

「……行くよ」



村を出たのは、昼前だった。

空は曇っている。

昨夜の煙がまだ空気に残っているせいか、陽の光までどこか鈍く見えた。

ハルは借りた外套を羽織り、村の入口に立っていた。

荷物らしい荷物はない。

元々、この世界に来た時から何も持っていなかった。

リオが、少し気まずそうに口を開く。


「……本当に行くんだ」

「まあな」

「戻ってきたりする?」

「いつか必ず戻るよ」


ハルは苦笑した。

正直、自分でもわからない。

この先どうなるのか。

どこへ行くのか。

何が待っているのか。

観測者を名乗った男――クロウは、少し離れた場所で待っていた。

黒い外套のまま、杖を地面につき、じっと曇り空を見上げている。

相変わらず胡散臭い。

それでも、少なくとも昨夜の化け物について知っているのは確かだった。

リオはしばらく迷ったあと、小さな袋を差し出す。


「干し肉。少しだけだけど」

「……助かる」


受け取る。

軽い。

けれど、妙にありがたかった。

リオは少し笑った。


「最初、絶対ヤバい人だと思った」

「否定できないな」

「今もちょっと思ってる」

「ひどいな」


そう返すと、リオがようやく声を出して笑った。

昨夜以来、初めて見る顔だった。

少しだけ安心する。

全部が終わったわけじゃない。

この村は、きっと長い間苦しむ。

自分たちがしてきたことを忘れられないだろう。

それでも、生きていくしかない。

リオが少し視線を逸らして言う。


「……帰ってきたら、またスープくらい出す」


ハルは少し目を丸くした。

それから、小さく笑う。


「期待しとく」


その言葉に、リオも少しだけ笑った。

クロウが振り返る。


「行くぞ」


短い声だった。

ハルは頷き、歩き出す。

村を離れ、街道へ出る。

焼けた森が遠くに見えた。

まるで、世界に刻まれた黒い傷跡みたいだった。

しばらく無言で歩いたあと、ハルが口を開く。


「で、どこ行くんだ」

「王都方面だ」

「遠いのか?」

「歩けば十日ほど」

「うわ……」


思わず顔が引きつる。

現代人には厳しすぎる距離だった。

クロウが少し肩を揺らす。

笑ったのかもしれない。


「馬車を拾えれば短くなる」

「拾えなかったら?」

「歩く」


シンプルすぎた。

ハルは早くも不安になる。

ちゃんとした人選だったのか、本当に怪しい。

――その時だった。

クロウがふいに足を止める。


「……どうした」

「静かだ」

「は?」


言われて、気づいた。

妙だった。

風の音しかしない。

静かすぎる。

世界から音が抜け落ちたみたいだった。

次の瞬間。

道脇の草むらから、何かが転がり出る。

――人間だった。

いや。

人間“だったもの”。

喉が深く裂けている。

目を見開いたまま、完全に死んでいた。

ハルの呼吸が止まる。

胃の奥が冷えた。

クロウはゆっくり周囲を見回した。


「……遅かったか」


昨夜と同じ言い方だった。

ハルは眉をひそめる。


「まさか、また残響か?」

「違う」


クロウの声が低くなる。


「これは人間だ」


その瞬間。

――ガチャリ。

金属音。

ハルが反射的に振り向く。

森の影。

そこに、人影が立っていた。

鎧。

剣。

そして、顔を覆う鉄仮面。

ひとりじゃない。

木々の隙間から、次々に現れる。

二人。

三人。

五人――

まだいる。

無言だった。

ただ、こちらを見ている。

空気が張り詰める。

クロウが小さく舌打ちした。


「……面倒なのに見つかったな」


ハルの喉が乾く。


「誰だよ、あれ」


クロウは視線を逸らさないまま、短く答えた。


「異形狩りだ」

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