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第9話  ガイ児編-黒光りの掃除人

「……さて、本番だ」


そう呟いてから、ガイ児はタオルを肩にかけ直した。


トレーニングを終えた直後のジムには、独特の静けさがある。

換気扇の音。

まだ少し熱の残った空気。

汗とゴムと金属の匂い。

それらが混ざり合って、この場所だけの夜を作っていた。


ガイ児はまず、バーベルのプレートを一枚ずつ外し始めた。


鉄の円盤を持ち上げる手つきは丁寧だった。

雑には置かない。

音を立てすぎない。

シャフトも、ラックも、床も、全部少しずつ位置を整える。


昼間のあの勢いを知っている人間が見たら驚くだろう。

大声で「GUYS!!!!」と叫び、股間を前に出せだの脚をやれだの言っている男が、閉店後にはこんなに静かに器具を拭いているのだから。


だがガイ児にとっては、これもトレーニングの続きだった。


物を乱暴に扱う人間は、だいたい自分の身体も乱暴に扱う。

逆に、使ったものを整えられる人間は、自分を整える素質がある。


プレートを戻し終えると、今度はベンチを拭く。

黒いシートに残ったわずかな汗の跡を、タオルで丁寧に消していく。

端の方まで。

脚の金具も。

床に落ちたチョークの粉も見逃さない。


「よし」


小さく呟く。


ガイ児は見た目のわりに、かなり細かい。

いや、見た目のわりに、ではないのかもしれない。

身体を作るということは、結局、細かい反復を積むことだ。

大雑把な人間に見えるのは、声がでかいからであって、中身まで雑ではここまで仕上がらない。


ガイ児は床の隅に視線を落とした。

小さなゴミがひとつ、マシンの脚の近くにある。

しゃがんで拾う。


その動きの中で、ふと、みゆきが最初に座っていたパイプ椅子が目に入った。


「……少しは立てるようになったか」


独り言が漏れる。


たった二日で人間が激変することはない。

そんなことはガイ児が一番よく知っている。

だが、人によっては二日で確かに方向が変わる。


ストゼロを飲まなかったこと。

朝、少しだけ起きやすかったこと。

会社で姿勢を意識したこと。

残業を断れたこと。

そして、今日またここへ来たこと。


あれは全部、小さい。

小さいが、無ではない。


小さい変化を軽く見る人間は多い。

だが人間は、だいたいそういう変化でしか立ち上がれない。

いきなり人生を変えるのではない。

少しだけマシな選択を、何度か続ける。

その積み重ねが、やがて見える形になる。


ガイ児は椅子を持ち上げ、脚の位置をぴたりと揃えた。


少しでも斜めになっているのが気になる。

床と平行であること。

通路の邪魔にならないこと。

次に来た客が、余計なストレスなく座れること。


それらは小さいことだ。

小さいが、小さいことを整えられない人間が、大きなことを整えられるとは思わない。


「部屋の乱れは、心の乱れだ」


これもガイ児の持論だった。


もちろん、部屋が散らかっている人間が全員だめなわけではない。

疲れていれば散らかる。

忙しければ後回しにもなる。

みゆきの部屋だって、たぶんそんな感じだろう。


それでも、乱れた空間は、人の意識を少しずつ削る。


脱ぎっぱなしの服。

飲みかけの缶。

床に置かれた袋。

開きっぱなしの引き出し。

そういうものは全部、「まだ終わっていないこと」として目に入ってくる。


人は思っている以上に、目から疲れる。

そして疲れた目は、心まで雑にする。


だから掃除をする。

整える。

揃える。

拭く。

戻す。


それは客のためでもあるが、自分のためでもある。


ガイ児は受付のカウンターへ移動した。

パンフレットを揃える。

角が少しずれている。

それをきっちり合わせる。

入会申込書の束も、端を揃えて置き直す。


「……よし」


また小さく言う。


このルーティンは、もう何年も続けていた。

営業が終わればトレーニングをして、汗をかいて、心拍を上げる。

それから掃除をする。

器具を拭き、床を見て、紙を揃え、空気を整える。


誰に言われたわけでもない。

誰かに褒められるわけでもない。

だが、これをやらないと一日が締まらない。


掃除というのは不思議なもので、床を拭いているうちに頭も静かになる。

考えすぎていたことが、少しずつ落ち着いていく。

余計な感情が沈殿していく。

身体を動かしたあとにやると、特にいい。


整った場所に立つと、自分まで整ったような気がする。

いや、気のせいではない。

人は、立っている空間にかなり影響される。


汚れた部屋で、堂々とはしづらい。

散らかった床の上で、前向きなことばかり考えるのは難しい。

だからこそ、まず外側を整える。

外側を整えれば、内側も少しずつその形に引っ張られる。


ガイ児はモップを持ち、マットの周辺をゆっくり拭いた。

筋トレのあとの身体には、この単調な動作がちょうどいい。


押して、戻す。

押して、戻す。


単純だ。

だが、単純な反復は人を裏切らない。


「自信も同じか」


ぽつりと漏らす。


自信という言葉を、ガイ児はあまりふわふわしたものだと思っていない。

自信とは、突然湧いてくる気分ではない。

ちゃんと積んだ人間に、あとから乗ってくる感覚だ。


起きた。

漕いだ。

鍛えた。

掃除した。

飯を食った。

寝た。


そういう当たり前を、自分で崩さずに続ける。

すると人は少しずつ、「自分はまたやれる」と思えるようになる。

それが自信の正体に近いとガイ児は思っている。


だからルーティンは大事だ。

飽きるほど大事だ。


大きな一発で人生を変えようとする人間は多い。

だが本当に人を作るのは、毎日の型の方だ。


ガイ児は最後に、入口近くのガラスを拭いた。

昼間は外のLEDが反射して見えにくいが、夜になるとそこに自分の影がうっすら映る。


黒い。

でかい。

顔はよく見えない。

だが姿勢だけはよくわかる。


胸を張りすぎず、引けてもいない。

骨盤は立っている。

脚は床を押している。


「……悪くない」


そう呟いて、ガイ児はタオルで手を拭いた。


ジムの中は、もう十分に整っていた。

床はきれいだ。

器具も揃っている。

空気も、最初より少し静かで深い。


明日また、誰かがここへ来る。

縮こまったまま来るかもしれない。

疲れた顔で来るかもしれない。

半信半疑でビラを握って来るかもしれない。


それでいい、とガイ児は思う。


最初から堂々としている必要はない。

ここへ来た時点で、少しだけ前に出ている。

あとは整えるだけだ。


ガイ児は受付の照明をひとつだけ落とした。


静かなジムに、換気扇の音だけが残る。


「明日もやるか」


その声は小さかった。

だが、昼間のどんな「GUYS!!!!」よりも、まっすぐだった。

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