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第8話 ガイ児編-閉店後のスクワット

最後の客が帰ると、ジムは急に静かになる。


ついさっきまで響いていた声や足音が消え、換気扇の低い音だけが残った。

双葉駅前ではやたらと目立つこのジムも、閉店後だけは妙に落ち着いている。

黒を基調にした内装。銀色のマシン。床に残る熱。少しだけ濃い汗とゴムの匂い。


ガイ児は受付の奥に置いてあった黒いタオルを肩にかけると、ゆっくりとラックの前へ歩いた。


「……悪くない」


誰に聞かせるでもない声だった。


さっきまでここにいた石黒みゆきのことを思い出す。

肩は巻いていた。首も少し前に出ていた。骨盤も引けていて、全身が「すみません」の形になっていた。

だが、反応は悪くなかった。


昨日より今日。

今日より次。

そういう変化を起こせる人間特有の、わずかな火があった。


ガイ児はラックのバーにプレートを差し込んだ。

銀色の円盤が鉄の軸にはまる音が、静かなジムに硬く響く。


みゆきには椅子から十回立ってもらった。

あれでいい。最初はあれでいい。


最初から重いものはいらない。

必要なのは、自分の脚で床を押して立つ感覚だ。

「私はまだ立てる」と身体に思い出させること。それが入口になる。


だがガイ児は、もう入口にはいない。


バーの下に潜る。

黒い背中に鉄の重さを乗せる。

肩甲骨のあたりで支え、腹の内側に圧を入れる。


一歩下がる。


重い。

だが、この重さがいい。


しゃがむ。

深く。

膝だけでなく、股関節から。

胸を潰さない。

首を逃がさない。

足裏で床をつかむ。


そこから、一気に立つ。


一回。


鉄がわずかに鳴る。

脚と尻と背中が同時に働く。

身体全体が「立て」と言ってくる。


二回。

三回。


ガイ児の呼吸は深い。

力むのではない。

押し返すのだ。

重さに潰されるのではなく、重さごと起き上がる。


みゆきに教えた「立つ力」は、ここにつながっている。

椅子から立つのも、バーベルを担いで立つのも、本質は同じだ。

床を押し、下半身から身体を前向きの形へ戻す。


四回。

五回。


太ももに熱が集まり、尻の奥が起きる。

血が巡る。

心拍が少しずつ上がっていく。

それを3セット行う。


ガイ児はそこでバーをラックに戻した。

大きな音は立てない。

静かに戻す。

それが気持ちよかった。


「……最初は、軽かった」


小さく呟く。


最初からこうだったわけではない。

最初はもっと軽い重量で息を切らし、数分の有酸素で脚を止めていた。

フォームも荒かった。

呼吸も浅かった。

頭の中もうるさかった。


だが、ゼロでも積めばここまで来る。


身体は、やれば変わる。

裏切るのは、たいてい身体ではなく途中でやめる気持ちの方だ。

だから最初は、やめない形を作ることの方が大事になる。


ガイ児は首を軽く回し、次にエアロバイクの前へ立った。


サドルにまたがる。

ハンドルに手を添える。

ペダルに足を乗せる。


みゆきには三分だけ漕がせた。

あれでいい。

あの子に必要だったのは、追い込むことではなく、頭の渋滞に別の流れを作ることだった。


だがガイ児は違う。


負荷を上げる。

ペダルを踏み込む。


最初は一定。

すぐに速度を上げる。

右、左、右、左。


バイクの駆動音が徐々に強くなる。

脚が熱を持ち、呼吸が深く大きくなる。

さらに上げる。

さらに踏む。


「……よし」


独り言とともに、出力をもう一段引き上げた。


心拍数が上がる。

汗が浮く。

黒い腕に、首筋に、肩に、光が乗る。


この感覚が好きだった。


余計な思考が、出力の前で黙っていく感じ。

不安も、迷いも、理屈も、心拍が一定以上に上がると少しだけ後ろへ下がる。


もちろん、悩みが消えるわけではない。

現実は現実のままだ。

人間関係も、金の問題も、仕事のややこしさも、それ自体は残る。


だが、全力で身体を動かしている最中だけは、脳がそれだけに支配されることはなくなる。


呼吸。

心拍。

脚の回転。

腹の圧。

汗。

熱。


それらが一気に脳へ流れ込み、不安の一本道に割り込んでくる。


人は頭だけで生きているつもりになる。

だが、本当は全身で考えている。

冷えて、沈んで、呼吸が浅い状態では、思考まで後ろ向きになるのは当然だ。


逆に言えば、血が巡り、心拍が上がり、身体が起きると、思考にも別の風が入る。


ガイ児はさらに踏み込んだ。


ペダルが速い。

呼吸が荒い。

汗が落ちる。


だが苦しいだけではない。

気持ちがいい。


この「気持ちよさ」を知らない人間は多いとガイ児は思う。

疲労の快ではない。

起きていく快だ。


沈んだ身体が戻る。

閉じたものが開く。

止まっていたものが巡る。

そういう快感がある。


「……まだ終わっていない」


息のあいだに漏れた言葉だった。


誰に向けたものなのかは曖昧だった。

自分かもしれない。

みゆきかもしれない。

あるいは、双葉駅前を縮こまりながら歩いている、まだ見ぬ誰かかもしれない。


ガイ児は最後の三十秒だけ、さらに出力を上げた。


全力に近い。

脚が回る。

肺が鳴る。

心拍が跳ねる。


ここまで上げると、もう考え事の居場所はない。

身体が完全に主導権を握る。


これがいい。

これが必要だと、ガイ児は思う。


現代人は、頭で世界を見すぎる。

見すぎて、縮こまる。

だが身体をここまで起こせば、少なくとも一度は頭を黙らせられる。


それがゼロを一に変える。


ガイ児はそこで負荷を落とし、数秒クールダウンしてからバイクを降りた。


汗が首から胸へ流れている。

肩で息をするほどではないが、心拍は高い。

身体は完全に起きていた。


「……いいな」


額の汗をタオルで拭う。


気分がいい。

脚も、背中も、呼吸も、全部が前を向いていた。


みゆきに必要なのは、まだここまでではない。

だが入口はもう踏んだ。

スクワット十回。

バイク三分。

少しマシな朝。

残業を断れた夜。


それで十分だ。

人はそうやってしか変わらない。


少しずつ立つ。

少しずつ巡る。

少しずつ、自分を信じる。


ガイ児は静かなジムを見回した。

ベンチ。

ダンベル。

マット。

みゆきがさっきまで使っていたエアロバイク。


そこに今日の痕跡が残っている。


黒い男は小さくうなずいた。


「……さて、本番だ」


トレーニングは終わった。

身体は整った。

心拍も高い。

気分もいい。


ここからが、閉店後の仕事だった。


ガイ児はタオルを肩にかけ直すと、磨かれた床の上を静かに歩き出した。

ダンベルを揃え、ベンチを拭き、今日の空気をきちんと整えるために。

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