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第10話 ガイ児編-部屋と日記とガイ児

ジムの照明を落とし、最後に鍵をかけると、双葉駅前の夜気が少しだけ肌に冷たかった。


花輪はまだ残っている。

LEDもまだ派手だ。

昼間はそれでいい。

目に留まらなければ、最初の一歩は生まれにくい。


だが営業を終えたあとのガイ児は、わりと静かだった。


駅前の雑踏を抜け、コンビニの前を通り、帰りの道を歩く。

夜の街には、縮こまった背中が多い。

スマホを見ながら歩く若者。

肩をすぼめて足早に帰る会社員。

疲れた顔のままタクシーを待つ男。

みんなそれぞれに事情があり、それぞれに今日を生き延びていた。


「悪くない」


ガイ児は小さく呟いた。


悪くない、というのは、街に対してではない。

今日という一日に対してだった。

石黒みゆきは二日続けて来た。

それだけで十分だ。

まだ不安定だし、まだ浅い。

だが、入口には立っている。


部屋に戻ると、ガイ児は靴を揃えて脱いだ。

部屋は広くはない。

だが整っていた。


机。

椅子。

小さな本棚。

黒いノート。

壁際の観葉植物。

プロテインのシェイカー。

余計なものは少ない。

少ないが、冷たい部屋ではなかった。


ガイ児は手を洗い、顔を洗い、冷たい水を一杯飲んだ。

それから机に向かい、黒い表紙のノートを開いた。


これは毎晩の習慣だった。

閉店後に身体を動かし、ジムを整え、最後にその日のことを書く。

今日あったこと。

客の反応。

身体の感覚。

気づいたこと。

明日へ残す言葉。

派手な内容ではない。

だが、この反復が自分を鈍らせないとガイ児は知っていた。


ジャーナリング、などと横文字で言うと少し洒落て聞こえるが、

やっていることは単純だ。

今日あったこと。

身体の感覚。

客の反応。

気づいたこと。

少し先のこと。

それを書き留める。


ガイ児はペンを取った。


しばらく空白を見てから、ゆっくり書き始める。


双葉駅前新装開店 二日目。


石黒みゆき、再来。


昨日より目線が少し上がっていた。

まだ浅いが、反応はある。


そこでペンが止まる。

ガイ児は少し考え、また書いた。


脚の弱い人間は、心も座りたがる。

だが今日は、自分でまた来た。

“来た”の時点で前進。


ガイ児は文字を見つめた。

我ながら、あまり愛想のない文だと思う。

だが、それでいい。


石黒みゆきのような人間は多い。

真面目。

疲れている。

考えすぎる。

でも完全には腐っていない。


そういう人間は、強い。

最初から強いわけではない。

むしろ、縮こまっていて、怯えていて、動きが小さい。

だが、火がつけば変わる。


問題は、火がつく前に、自分を終わったものだと思ってしまうことだ。


ガイ児はまた書く。


マックスガイジは、最初からマックスではない。


最初はみんな縮こまっている。

肩が巻いている。

骨盤が引けている。

呼吸が浅い。

目線が低い。


だが、それでも動ける。


そこまで書いて、ガイ児は少しだけ椅子にもたれた。


部屋は静かだった。

換気扇の音もない。

ジムの夜の残響とは違う静けさだ。


ガイ児は、この部屋の静けさが好きだった。


整っているからだろう、と自分でも思う。

床に物が落ちていない。

机の上に余計な紙がない。

椅子がきちんと収まっている。

小さな整いが積み重なって、部屋全体の呼吸を浅くしない。


部屋の乱れは、心の乱れ。

それは他人を責めるための言葉ではない。

自分への戒めに近かった。


何度も崩れた。

何度も荒れた。

だからこそわかる。

床の上に物が増えると、頭の中にも未処理が増える。

部屋を整えると、少しだけ自分を信じやすくなる。


自信とは、もっと曖昧なものだと思っている人間が多い。

だがガイ児にとって、自信はもっと地味なものだった。


起きる。

漕ぐ。

鍛える。

掃除する。

食う。

寝る。

また起きる。


そういう反復を自分で崩さずに続ける。

その積み重ねが、ある日「自分はまたやれる」という感覚になる。

それが自信だ。


ガイ児はペンを置かず、さらに書いた。


マックスガイジとは、筋肉の量だけではない。


堂々と立てること。

必要なときに出力できること。

飯を軽く見ないこと。

部屋を荒らしっぱなしにしないこと。

自分で自分を起こせること。


そして、前向きであること。


大げさな希望はいらない。

世界を変えるとか、人生を完全に塗り替えるとか、そういう話ではない。


朝、少し起きやすい。

酒を一本減らせる。

姿勢を一回戻せる。

残業を断れる。

またジムに来る。


そういう前向きが、たとえ小さくても、いちばん強い。


ガイ児はペン先を軽くノートに当てたまま、しばらく考えた。


双葉駅前でジムを始めたことにまだ少し高揚している。


新しい街だ。

新しい客が来る。

まだ会っていない人間がいる。

まだ縮こまったままの誰かがいて、まだその誰かは、

自分が少し立てるようになることを知らない。


それを思うと、妙にわくわくした。


街が変われば、来る人間も変わる。

悩みも少しずつ違う。

背中の丸まり方も、声の小ささも、言い訳の仕方も、みんな違う。


だが、入口はだいたい似ている。


疲れ。

縮こまり。

諦め。

そして、まだ完全には消えていない火。


ガイ児は、それを見るのが嫌いではなかった。

いや、好きだった。


「導く」などというと、少し偉そうかもしれない。

だが、入口まで連れていくことはできる。

脚を使わせることはできる。

呼吸を深くさせることはできる。

少しだけ目線を上げさせることもできる。


そこから先は本人だ。

だが、最初の一歩に関われるのは、やはり面白い。


ガイ児は最後に一行だけ書き足した。


つぎはこの街だ。


ノートを閉じる。


黒い表紙が手の中で小さく鳴った。


ガイ児は立ち上がり、部屋を見回した。

机は整っている。

床もきれいだ。

明日の朝、またここから始められる状態になっている。


それでいい、とガイ児は思う。


マックスガイジとは、完璧な人間ではない。

毎日、自分を起こし、整え、堂々と立ち直れる人間のことだ。


何度でも。

少しずつでも。

前へ出られる人間のことだ。


ガイ児は部屋の電気を落とした。


暗くなる直前、窓の向こうに双葉駅前の光が少しだけ見えた。

あの街には、まだ会っていない誰かがいる。

まだ来ていない客がいる。

まだ胸を張れると知らない人間がいる。


そのことを思うと、黒い男の口元は少しだけ上がった。


「ヘイGUYS」


誰もいない部屋で、小さくそう呟く。


昼間ほどの大声ではなかった。

だが、その声には確かな熱があった。


新しい街。

新しい客。

新しい入口。


明日もまた、やるだけだ。

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