第11話 マチアプ男編-いい人、だけどただのいい人
ある土曜日の昼前、35歳サラリーマンの川崎竜一は、
鏡の前で三度目の前髪チェックをしていた。
「……大丈夫、だよな」
そう呟いてみるものの、言った瞬間に自信がなくなる。
分け目は変じゃないか。
ワックスがつきすぎていないか。
眉毛は整っているか。
シャツの襟はよれていないか。
ジャケットは堅すぎないか。
靴は汚れていないか。
一通り確認して、スマホを開く。
今日のデートプランをもう一度見直す。
十三時、双葉駅で待ち合わせ。
そのあと水族館。
夕方に少し休憩を挟んで、十八時に駅前のイタリアンを予約済み。
その帰りに、駅近くの公園。
ベンチがあって、夜はそこまで人も多くない。
たぶん落ち着いて話せる。
告白するなら、今日だと思っていた。
マッチングアプリで知り合って、一回目はカフェ。
二回目は映画。
そして今日が三回目。
メッセージのやり取りも悪くない。
向こうから返ってくる頻度も普通だし、絵文字もちゃんとある。
少なくとも嫌われてはいないはずだ。
ここまで来たら、もう行くしかない。
そう思っているのに、胸の奥にはうっすらとした不安が残っていた。
「……よし」
竜一はスマホを伏せ、財布とハンカチを確認した。
香水は強すぎない程度。
口臭ケアも済ませた。
爪も昨日の夜に切った。
準備としては、たぶん問題ない。
部屋を出る前に、もう一度だけ鏡を見る。
そこに映っているのは、三十五歳の、そこそこちゃんとして見える男だった。
営業職。
年収も極端に低いわけではない。
清潔感にも気を使っている。
会話も別に苦手ではない。
むしろ職場では「川崎さんって話しやすいですよね」と言われることが多い。
なのに、彼女ができない。
これまで何人かと会ってきた。
アプリで知り合って、メッセージをして、実際に会って、二回目までは行く。
でもだいたいそこで終わる。
三回目まで来たとしても、最後に何かが足りない。
優しい。
気が利く。
一緒にいて安心する。
そう言われる。
そのわりに、選ばれない。
それが竜一には、ずっとわからなかった。
待ち合わせ場所には十分前に着いた。
十分前どころか、十五分前だった。
こういうところだよな、と自分でも思う。
悪いことじゃないはずだ。
でも、こういうちゃんとしてる感が、逆に面白みのなさになっている気もする。
ほどなくして、今日の相手がやってきた。
白いブラウスに、落ち着いた色のスカート。
アプリの写真より、実物の方がやわらかい印象だった。
「すみません、お待たせしました」
「いや、全然。俺もちょうど今来たところだから」
嘘だった。
でもこういう嘘は、たぶん必要だと思っている。
「今日はありがとうございます」
「こちらこそ。水族館、楽しみですね」
にこっと笑うその顔はかわいかった。
竜一はその笑顔を見るたびに、やっぱり今日、ちゃんと伝えたいと思った。
水族館では、竜一はなるべく相手が楽しめるように動いた。
混んでいる場所では少し前に出て道を作る。
相手が足を止めた水槽では、自分も一緒に立ち止まる。
クラゲのコーナーで彼女が「これ好きなんです」と言えば、「わかる、癒されるよね」と合わせる。
写真も撮る。
角度も気にする。
撮ったあとに「こっちの方が盛れてるかも」と見せる。
会話は途切れなかった。
むしろ、うまくいっている方だと思った。
「川崎さんって、本当に気が利きますよね」
ペンギンのエリアから出たあたりで、彼女がそう言った。
「え、そうかな」
「そうですよ。なんか、ちゃんと見てくれてる感じがして」
その言葉に、胸の奥が少し明るくなる。
「いや、まあ……せっかく一緒にいるし」
「そういうの、自然にできるのすごいです」
自然にできているように見えるならよかった。
実際にはかなり意識してやっている。
でも、それが伝わらないならその方がいい。
水族館を出たあと、予約していたレストランへ向かった。
道はもちろん車道側を歩く。
彼女の歩幅が少し小さいことにも気づいていたので、無理に速く歩かない。
レストランの席は窓際だった。
店の雰囲気も悪くない。
料理もちゃんとしている。
予約サイトの口コミもちゃんと見た。
女性客の評価が高いところを選んだつもりだ。
会話もそれなりに弾んだ。
仕事の話。
休日の過ごし方。
子どものころに見ていたアニメ。
最近ハマっている店。
マッチングアプリあるあるみたいな、軽い笑い話。
笑ってくれる。
目も合う。
相槌もある。
いけるかもしれない、と何度か思った。
でも、そのたびに、もう一人の自分がブレーキを踏む。
ここで変な踏み込みをしたらどうする。
恋愛っぽさを出しすぎて引かれたらどうする。
嫌われたらどうする。
だから結局、会話はずっと感じのいい人の範囲から出なかった。
食事を終えて店を出る。
夜風が少しだけ涼しい。
「このあと、少しだけ歩きません?」
竜一がそう言うと、彼女は「はい」と笑ってうなずいた。
公園までの道は短かった。
短いのに、心臓は嫌になるくらい鳴っていた。
ベンチの近くまで来て、二人で立ち止まる。
夜の公園は思っていたより静かだった。
遠くで電車の音がする。
街灯の明かりが足元に薄く落ちている。
今だ、と思った。
たぶん、ここを逃したら終わる。
わかっている。
わかっているのに、言葉が少し引っかかる。
「あの、今日はありがとうございました」
違う。
それは導入としてはいいけど、本題じゃない。
「いや、すごく楽しくて」
それも違う。
いや、違わないけど弱い。
彼女は静かに竜一を見ていた。
その視線がやさしい分だけ、余計に怖くなる。
「その……もしよかったら、これからちゃんと……お付き合い、というか……」
自分でも、歯切れが悪いと思った。
ちゃんとって何だ。
というかって何だ。
言っているのに、出切っていない。
押し切れていない。
逃げ道を残した告白だった。
彼女は少しだけ困ったように笑って、それから視線を落とした。
その瞬間、もうだめかもしれないとわかった。
「あの……竜一さん、本当にすごくいい人なんです」
来た、と思った。
「優しいし、一緒にいて安心するし、ちゃんと考えてくれてるのも伝わってて……」
やめてくれ、その先はたぶん知ってる。
「でも……彼氏としては、ちょっと想像できないです」
胸の真ん中が、妙に静かになった。
ショックで頭が真っ白になる、みたいな感じではない。
むしろ逆で、変にクリアだった。
またこれか。
また、いい人で終わるのか。
「ごめんなさい。うまく言えないんですけど……」
「いや、うん。全然。言ってくれてありがとう」
気づけば、そんなことを言っていた。
ほんとに全然なわけがないのに、反射でそう返してしまう。
最後まで、感じのいい人だった。
別れて一人になると、急に脚が重くなった。
さっきまで車道側を歩いていたのが嘘みたいに、どこをどう歩いているのかよくわからない。
双葉駅の改札前まで来て、竜一は立ち止まった。
駅前には人がたくさんいる。
笑っているカップル。
酔っている会社員。
コンビニ袋を提げた大学生っぽい男。
みんなそれぞれの夜を生きている。
その中で、自分だけがうまく人間になれていない気がした。
「彼氏としては想像できない、か……」
口に出すと、思ったより刺さった。
彼女は悪くない。
たぶん本音だった。
優しい人だとも思う。
問題は、自分の方だ。
気を使った。
店も選んだ。
歩く位置も気にした。
会話も合わせた。
相手が楽しいかどうかをずっと考えていた。
なのにだめだった。
じゃあ何が足りないんだ。
もっと面白さか。
もっと押しの強さか。
もっと男らしさか。
でもそのもっとが、竜一にはずっとわからない。
駅前の居酒屋の明かりが目に入る。
今日はもう、まっすぐ帰る気にはなれなかった。
せめて少し酒を飲んで、頭を鈍らせたい。
考えたくない。
でも考えないと、また同じことを繰り返す気もする。
竜一は暖簾をくぐった。
一人だと伝えると、カウンターに通される。
とりあえずハイボールを頼んだ。
運ばれてきたグラスを見つめながら、竜一は小さく息を吐いた。
十連敗。
そこまで数えるのもどうかと思うが、たぶんそれくらいは続いている。
初回で終わることもある。
二回目で消えることもある。
そしてたまに、今日みたいに三回目まで行って、最後にいい人で終わる。
もう年齢のせいにもしたくない。
相手のせいにもしたくない。
でも、自分の何がだめなのかは、やっぱりよくわからなかった。
ハイボールを一口飲む。
喉に冷たさが落ちる。
その瞬間だった。
「……なるほど」
低くて、妙に通る声が隣からした。
竜一がそちらを見ると、いつの間にか一人の男がカウンター席に座っていた。
黒い。
でかい。
そして妙に堂々としている。
その背中だけで、店の空気が少し変わった気がした。
竜一はグラスを持ったまま、固まった。
知らない男だった。
なのに、なぜか目を離しづらかった。
その男は、竜一を見ないまま、静かに言った。
「女に振られた顔をしているな、GUYS」
竜一は思わずハイボールを吹きそうになった。




