第12話 マチアプ男編ーカウンターに現れた黒光り
「女に振られた顔をしているな、GUYS」
竜一は危うくハイボールを吹きそうになった。
「……は?」
隣に座っていたのは、いつの間にかカウンター席に入り込んでいた黒い男だった。
黒い。
でかい。
肩幅が広い。
首も太い。
顔の印象は妙に薄いのに、胸板と背中だけがやたらと存在感を放っている。
竜一は数秒、その黒い男をまじまじと見てしまった。
(なんだこの人……)
居酒屋のカウンター席に、こんなに圧のある人間が自然に座っていていいのだろうか。
場違いという感じではない。
むしろ妙に馴染んでいる。
それが余計に怖い。
「い、いきなり失礼じゃないですか」
「失礼ではない。事実確認だ」
黒い男は真顔でそう言った。
少なくとも、からかっている感じではなかった。
「たまたま前を通ったら、沈んだ雄の気配がした」
「沈んだ雄の気配……」
「だから入ってきた」
(意味がわからない)
竜一はグラスを持ち直しながら、黒い男をもう一度見た。
酔っているのかと思ったが、そういう雰囲気でもない。
むしろ異様に落ち着いている。
「……ナンパですか?」
「違う」
「宗教とか?」
「違う」
「じゃあ何なんですか」
そこで黒い男は、少しだけ胸を張った。
ただ座っているだけなのに、なんだか姿勢だけで説得されそうになるのが嫌だった。
「ガイ山ガイ児だ」
「はあ……」
「職業はトレーナーだ」
(いや、聞いてないけど)
だが、そう言われると妙に納得できる体だった。
トレーナーというより、トレーナーを極限まで煮詰めて黒くしたもの、みたいな感じではあるが。
「で、君だ」
「……俺?」
「そうだ、GUYS。話してみたまえ。なぜそんな顔をしている」
「そんな顔って……」
「女に振られた顔だ」
「だから断定がすごいんですよ」
「違うのかね」
「……違わないですけど」
そこは否定しきれなかった。
ガイ児はカウンターの向こうへ軽く手を上げると、水を頼んだ。
酒は飲まないらしい。
その時点で竜一は少しだけ興味を持った。
「聞こう」
「いや、なんで知らない人に」
「話したいから酒を飲んでいるのだろう」
ぐうの音も出なかった。
竜一はハイボールを一口飲んだ。
炭酸が喉を刺す。
少しだけ間を置いてから、ため息まじりに言った。
「……別に、すごく変なことがあったわけじゃないです」
「たいていの男はそう言う」
「今日、三回目のデートだったんです」
ガイ児は黙っている。
だが聞いている感じはあった。
「マッチングアプリで知り合った子で。最初はカフェ、次は映画、今日は水族館とレストランで……ちゃんと考えたんです。相手が楽しめそうなところとか、話しやすそうな流れとか」
「うむ」
「気も使いました。車道側歩いたり、店もちゃんと予約したり、話もなるべく向こうが話しやすいようにしたり」
「うむ」
「で、帰りに告白したんですけど」
そこで竜一は少しだけ笑った。
笑うしかなかった。
「竜一さん、すごくいい人なんですけど……彼氏としては想像できないです、って」
ガイ児は少しだけ目を細めたように見えた。
たぶん気のせいだ。顔がよくわからないから。
「なるほど」
「いや、なるほどじゃないですよ」
「典型だ」
「うわ、ちょっと傷つくな……」
竜一はグラスを指先で回した。
氷が鳴る。
「俺、別に何もしてないわけじゃないんです。むしろちゃんとしてる方だと思うんですよ。清潔感も気をつけてるし、会話も別に苦手じゃないし、仕事だって普通にしてるし」
「うむ」
「でも毎回、なんか決め手がないみたいになるんです。優しいとは言われるんですけど、それで終わる。いい人。気が利く。話しやすい。……で、終わりです」
「うむ」
「それで何が足りないのか、自分でもよくわからなくて」
ガイ児は、水の入ったグラスをゆっくり持ち上げた。
一口飲む。
それから静かに置く。
「わかった」
「え?」
「お前に足りないものがわかった」
唐突だった。
「いや、そんな簡単にわかるんですか」
「わかる」
「いやいやいや、ちょっと待ってください。俺、今けっこうちゃんと話しましたけど、そんな二、三分で核心みたいに言われても困るんですけど」
「二、三分ではない。お前の目つきと座り方、今の話し方も込みだ」
(怖っ)
竜一は思わず背筋を引いた。
するとガイ児はすぐに言った。
「ほら、今も引いた」
「……は?」
「お前はすぐ引く」
「いや、普通知らない人にそんなこと言われたら引きますって」
「違う。そういう意味ではない」
ガイ児はゆっくりと竜一の方を向いた。
妙に落ち着いた声だった。
「お前は、恋愛の場面でも、仕事でも、最後の一歩で引いている」
その一言が、妙に刺さった。
竜一は反射的に反論しようとした。
でも言葉が出なかった。
思い当たることがありすぎたからだ。
告白の瞬間もそうだった。
ちゃんと伝えるつもりだったのに、言葉の途中で逃げ道を作った。
押しきれなかった。
相手に気を使った、という言い方もできる。
でも本当は、傷つくのが怖かっただけかもしれない。
「お前には優しさがある」
「……それは、はい」
「だが、優しさだけではオンリーワンにはなれん」
その言葉に、竜一は少しだけ顔を上げた。
「相手に気を使う。考える。傷つけないようにする。結構。立派だ。だが、それだけだといい人で終わる男は多い」
「……」
「なぜだと思う」
「いや……わかんないから困ってるんですけど」
「雄の圧がないからだ」
竜一は思わず顔をしかめた。
「すごい言い方しますね」
「本質だからだ」
本質らしい。
「男は、ただ相手に合わせればいいわけではない。必要な場面で前へ出ねばならん。決める場面で決める。受け止める場面で受け止める。守る場面で守る。その手応えがないと、彼氏としては想像できない、になる」
その理屈は、乱暴なのに妙にわかる気がした。
竜一は今まで、自分ではかなりやっているつもりだった。
でもたしかに全部、嫌われないための優しさだったかもしれない。
相手が喜ぶ店を選ぶ。
相手が話しやすい空気を作る。
相手が不快にならないように振る舞う。
それは全部大事だ。
でも、その中に自分がいなかった。
「……じゃあどうすればいいんですか」
ガイ児は一拍置いた。
そして、低く、はっきりと言った。
「鍛えろ」
「え?」
「身体だ」
「いや、そこに行くんですか?」
「そこに行く」
「いや、でも俺、今恋愛の話してましたよね?」
「恋愛は身体を通る」
(なんか名言っぽいこと言い始めたぞ)
竜一は怪しさを感じながらも、なぜか席を立つ気にはなれなかった。
というより、ガイ児の背中から目が離せなかった。
座っているだけなのに広い。
押しつけがましいわけではない。
でも、妙に(この人は前に出られる人だ)と思わせる何かがある。
それは、言葉より先に身体から伝わっていた。
「優しさを支える土台が要る」
ガイ児は続けた。
「足。胸。背中だ」
「足、胸、背中……」
「そうだ。踏み込む脚。受け止める胸。語る背中」
竜一はぽかんとした。
だが、その語感だけは妙に残る。
「明日来い」
「は?」
「説明してやる」
「いや、ちょっと待ってくださいよ。急に何なんですか」
「双葉駅前、ガイジマックスジム。昼から開いている」
「マックス……何?」
ガイ児はポケットから、妙にピカピカしたビラを一枚取り出した。
どこから出したのかよくわからなかった。
カウンターの上に置かれたそれは、居酒屋の照明の下でもやたらと目立った。
「怪しすぎる……」
「だが気になるだろう」
「……」
否定できなかった。
竜一はビラを手に取った。
文字面はだいぶ変だ。
店名も頭がおかしい。
でも、なぜか安っぽい感じはしない。
そこが余計に怖い。
「明日は日曜だ」
ガイ児は席を立ちながら言った。
その瞬間、竜一はまた少し息を呑んだ。
立ち上がった背中が、やっぱり異様に大きかったからだ。
無駄な力みはない。
でも引けてもいない。
ただ立つだけで、何かが違って見える。
(……この人、なんなんだ)
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだね」
「俺、酒飲んでますけど」
「だから明日だ」
「いや、そうじゃなくて……本当に行く前提なんですか?」
ガイ児は少しだけ肩を揺らした。
たぶん笑ったのだろう。
「来い、GUYS」
それだけ言うと、ガイ児は会計を済ませ、何事もなかったみたいに店を出ていった。
竜一はしばらく、カウンターに残されたピカピカのビラを見つめていた。
店の外を歩いていくガイ児の背中が、ガラス越しに少しだけ見えた。
広い。
まっすぐだ。
それだけで、少し話を聞いてみてもいいかもしれないと思ってしまう。
「……なんなんだよ、あの人」
誰に聞かせるでもなく呟く。
ハイボールはまだ半分残っていた。
でも、さっきまでのやけ酒の味とは少し変わっていた。
竜一はビラを折りたたみ、財布の横にしまった。
(明日、か……)
怪しい。
かなり怪しい。
でも、十連敗中の男にとっては、怪しさより先に気になる何かがあった。
双葉駅の夜は、まだ少しだけざわついていた。




