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第5話 憂鬱なOL編-少しマシな朝

ジムを出たとき、夜風が少しだけ気持ちよかった。


来る前と同じ双葉駅前のはずなのに、ほんの少しだけ景色が違って見えた。

いや、景色が違うんじゃない。

たぶん、私の呼吸が少しだけ深くなっていた。


脚は重い。

特に太ももがじんわり熱を持っている。

たかが椅子から立っただけでこれか、と思うと情けない。

でも、不思議と嫌ではなかった。


「見学ってこんなに疲れるんだ……」


私は小さくつぶやいて、駅へ向かって歩き出した。


駅前のネオンはいつも通りだった。

コンビニの明かりも、居酒屋の赤提灯も、酔っぱらいの笑い声も変わらない。

それなのに、頭の中だけが少し静かだった。


いつもなら、会社で言われたこととか、今日返せなかったメールとか、課長の顔とか、将来のこととか、そういうものが雑然と頭の中を埋めている。

それが今日は、少しだけ遠い。


代わりに脚のだるさがあった。

肩の奥がじんわり開いた感じもあった。

身体の感覚が、考え事の席を少しだけ奪っているみたいだった。


家に帰ると、私はいつものようにコンビニの袋を机の上に置いた。


部屋は相変わらず散らかっている。

昨日の夜の残骸。

脱ぎっぱなしの服。

読みかけの雑誌。

中身の少しだけ残ったペットボトル。


何も変わっていない。

変わっていないはずなのに、ひとつだけ違うことがあった。


私は冷蔵庫を開けた。

そこには、いつものストゼロが冷えていた。


一本取り出す。

缶の冷たさが手に気持ちいい。


飲みたくないわけじゃない。

むしろ、いつも通りなら迷わずプシュッとやっていた。


でも今日は、なぜか手が止まった。


『GUYS、若いのにそんなものばかり食べていてはだめだぞ!!!!!!』


「……うるさいなぁ」


誰もいない部屋で、私は思わずそう言った。


缶を見つめる。

銀色の表面に、だらしない顔をした自分が少しだけ映っていた。


別に、酒を飲んだから人生が終わるわけじゃない。

今日だって一本くらいなら、何も問題ない。

そう思う。思うのに、なぜか開ける気になれなかった。


私はしばらくそのまま立ち尽くして、それからため息をひとつついた。


「……今日はいいか」


ストゼロを冷蔵庫に戻す。


自分でも少し驚いた。

こんなこと、いつぶりだろう。


その代わりに私は、冷蔵庫の奥にあった麦茶を取り出した。

コップに注いで一口飲む。


味気ない。

でも、嫌じゃなかった。


コンビニ弁当のふたを開ける。

レンジで温め直したご飯を、テレビもつけずに食べる。

静かな部屋だった。


静かなのに、昨日までみたいな寂しさはそこまでなかった。

太ももがじんわり痛いせいかもしれない。

身体に少しだけ意識がいっていると、余計なことを考えずに済むのかもしれなかった。


「脚が弱いと、心もすぐ座りたがるぞGUYS!!!!!!」


「なんなのよ、それ……」


思い出して、少しだけ笑ってしまった。

あの人の理論はめちゃくちゃなのに、言葉だけ妙に残る。


食べ終わったあと、私は珍しくすぐにシャワーを浴びた。

髪を乾かして、ベッドに入る。

スマホを手に取る。


いつもならここから、だらだらと動画を見て、Xを見て、誰かの人生と自分を比べて、気づけば夜が深くなっている。

でもその夜は、少しだけ画面がまぶしかった。


私はスマホを伏せて置いた。


「……明日、絶対脚痛いんだろうな」


そう思いながら目を閉じる。


不安がゼロになったわけじゃない。

何かが解決したわけでもない。

会社は明日もあるし、課長もいるし、将来は相変わらずよくわからない。


それでも、寝る前の気分が昨日より少しだけましだった。


次の日、目が覚めた瞬間に異変は来た。


「痛っ……!」


起き上がろうとしただけで、太ももが悲鳴を上げた。

ベッドの上で思わず顔をしかめる。


「うそでしょ……たった十回で……?」


情けない。

でも、なんだか少しだけおかしかった。


昨日のことは夢じゃなかったらしい。

私の脚が、それを証明していた。


ベッドから降りる。

痛い。

でも立てる。

歩ける。

それだけで少し可笑しい。


ふと机の上を見ると、ピカピカしたビラが朝日に照らされていた。


『双葉駅前に新装開店!!!』


「……朝からうるさいなぁ」


誰もしゃべっていないのに、文字を見るだけで声が再生される。

もうだいぶ侵食されている気がした。


それでも、その日の朝は少しだけ起きやすかった。

脚が痛い。

肩もほんの少しだけ重い。

でもその痛みのせいで、逆に身体の輪郭がわかる。


今日の私は、ここにいる。

そんな当たり前のことを、少しだけ強く感じた。


支度をしながら、私は鏡の前で一度だけ肩を開いてみた。

胸を少し上げる。

顎を引く。


ぎこちない。

どう見ても、慣れていない人の姿勢だった。


でも、それでも昨日までより少しだけましに見えた。


「……こんなもんか」


私は小さくつぶやいて、家を出た。


その日の通勤電車は相変わらず満員だった。

押されるし、暑いし、誰とも目は合わない。

でも、いつもより少しだけ呼吸がしやすい気がした。


会社に着いて席に座る。

パソコンを立ち上げる。

メールを開く。

昨日までと同じ朝。


違うのは、私は一度だけ椅子に座り直したことだった。


腰を少し立てる。

肩を引く。

首を前に出しすぎない。


すぐに疲れる。

でも、気づいたらまたやり直す。

その繰り返しだ。


「石黒さん、なんか今日しゃきっとしてません?」


隣の席の後輩が、モニター越しにそんなことを言った。


「えっ」


思わず変な声が出た。


「いや、なんか……姿勢いいなって」


「そ、そう?」


「はい。なんか珍しく」


珍しくって何だ。

ちょっと引っかかったけど、否定もしきれなかった。


「……まあ、ちょっとだけ」


私はそうごまかして、画面に目を戻した。

でも少しだけうれしかった。


午前中の仕事は、思っていたよりすんなり進んだ。

仕事量が減ったわけじゃない。

問い合わせが消えたわけでもない。

でも、頭の中のざわつきが少し少ない。


昼休みにトイレの鏡を見ると、私はまた少しだけ肩を開いてみた。

誰も見ていないのに、なぜか少し気恥ずかしい。


「何やってんだろ、私……」


そう言いながらも、口元は少しだけ上がっていた。


問題は夕方だった。


定時が近づいたころ、課長がこちらへ近づいてくるのが見えた。

その時点で、もう嫌な予感しかしない。


「石黒さん、悪いんだけど今日ちょっと――」


来た。


私の心臓が少しだけ跳ねた。

いつもなら、この時点で半分諦めている。

「あ、大丈夫です」と自動再生みたいに言ってしまう。


でも今日は違った。


違ったというより、違わせたかった。


ガイ山ガイ児のうるさい声が、頭のどこかで響く。


『君は今まで下を見すぎた!!!!!!』


私は一度だけ、息を吸った。


「……すみません」


課長が一瞬きょとんとする。


言える。

たぶんまだ言える。


「今日は、予定があるので難しいです」


言った。


ほんの一言だった。

怒鳴ったわけでもない。

戦ったわけでもない。

ただ断っただけだ。


なのに、言った瞬間、背中の内側が少し熱くなった。


課長は一拍だけ黙って、それから少しだけ困った顔をした。


「あー、そうか。予定あるなら仕方ないか……」


それだけだった。


それだけ?


私は内心で少し拍子抜けした。

もっと面倒なことになるかと思っていた。

嫌な顔をされるかと思っていた。

でも、世界は案外あっさり進んだ。


もちろん、たまたまかもしれない。

今日は運が良かっただけかもしれない。

それでも、断れたという事実は残った。


「お先に失礼します」


自分でも少し驚くくらい、まっすぐな声が出た。


会社を出る。

エレベーターに乗る。

ビルを出る。


空気が少し違って感じた。


自由、というほど大げさじゃない。

でも、少なくとも昨日の私よりは、少しだけ自分の意思で動いていた。


気づけば、私は双葉駅行きの電車に乗っていた。


車窓に映る自分は、相変わらず普通のOLだった。

特別美人でもないし、特別強そうでもない。

脚もまだ少し痛い。


それでも、昨日ジムへ行く前の私とは少しだけ違う気がした。


双葉駅で降りる。


改札を抜ける。

三番出口へ向かう。

昨日より迷いが少ない。


駅前のビルは、今日もやたらピカピカしていた。

花輪はまだある。

LEDも無駄に光っている。


「……また来ちゃった」


そう呟いたとき、不思議と嫌な感じはしなかった。


エレベーターに乗る。

五階を押す。

上がっていくあいだ、胸の奥が少しだけ高鳴る。


昨日は、怖かった。

今日は、少しだけ楽しみだった。


チーン。


ドアが開く。


そして間髪入れずに、あの声が飛んできた。


「ヘイGUYS!!!!!!

来ると思っていたぞGUYS!!!!!!」


私は思わず笑ってしまった。


「……まだ入会するって決めたわけじゃないですからね」


すると、受付の奥で黒い胸板が大きく揺れた。

たぶん笑っているのだろう。


「よろしい!!!!!!

その反抗心、嫌いではない!!!!!!

さあGUYS、今日は昨日より少し前へ行こうではないか!!!!!!」


私は小さく息を吸った。


そして昨日より、ほんの少しだけ胸を張って、ジムの中へ足を踏み入れた。

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