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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
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第十九話 声なき記録の塔



エンジン音が空気を震わせながら、黒い岩肌の上へ乾いた土埃を巻き上げていく。


《ノースフェザー》が天然の裂け目を利用した狭い着地帯へ身を沈めた瞬間、島全体がごくわずかに震えたように感じられた。最初は、船体の着地衝撃が足裏を通してそう錯覚させただけだと思った。けれど、その揺れはすぐに消える類のものではなかった。大地の下のほうで何か巨大なものがゆっくりと寝返りを打ったような鈍く深い震えが、もう一拍遅れて甲板の底から返ってくる。


トレインは手すりを握ったまま、息を潜めた。


船体が静止してからも、その感覚は胸の奥に残り続ける。空へ浮かぶ島が揺れるというのは珍しいことではない。風脈の変動や浮遊礎の状態によって、多少の上下や傾きが起きることは教本にも載っていた。それでも、いま感じたものはそうした自然な揺れとは何かが違った。揺れそのものが、外から与えられた結果ではなく、島の内側から発せられた反応のように思えたのだ。


そして、それは気のせいではなかった。


島の周囲――まるでその輪郭を護るように、空が歪んでいた。


濃密な霧が、雲よりも重たい質感をまとってうねり、大地を抱くように円環状に漂っている。上空から突入してきた蒼黒の雲域とはまた違う、もっと低く、もっと粘つくような霧だった。島の外周に沿って何重にも折り重なり、視界の端では壁のように立ち上がっている。近づけば触れられそうなのに、輪郭は一定せず、流れているのに固定されてもいるという、ひどく不自然な在り方だった。


「……これが、島を取り囲む乱流層……?」


トレインは甲板から降り、足元の岩へ片手をつきながら周囲へ視線を巡らせた。風を読む癖が身体へ染みついている彼にとって、まず確かめるべきは景色よりも流れだった。どこから風が来て、どこへ抜けているのか。そうした当たり前の感覚を掴もうとした途端、彼は眉を寄せる。


視界の果てまで続くその雲の壁は、ただの気象現象というより、“見えない檻”だった。


上空からは見えなかった理由も、今なら分かる。霧は島の外縁を覆うように、極端な高度差と斜層を形成していた。真上から見れば単なる雲の影へ紛れ込み、外から近づけば空そのものへ吸い込まれる。近くまで来て初めて、その異常な立体構造が見えるのだろう。閉じ込めるために作られた仕掛けのように見えてしまうのは、そのせいだった。


「これ……完全に、空の流れが逆転してる」


セラが静かに呟いた。


彼女は船体から携帯端末を持ち出し、表示される魔素流の波形と周囲の風向を見比べている。繊細な分析を得意とする彼女の声に、今はいつもの柔らかさよりも純粋な警戒が濃かった。


風は島の中心から外へ吹いていない。


むしろ、外側から内側へ、じわじわと吸い込まれているようだった。普通の浮遊島なら、上層風脈と島の表層熱、地脈由来の浮遊圧が互いに干渉し合い、その周囲に一定の呼吸を作る。いま目の前にある島は違う。呼吸が外へ開かない。内へ向かって沈み込み、何かを囲い込み、飲み込んでいる。


その不自然な吸気のうねりは、まるで“何か”が島の中心でゆっくり呼吸をしているような感覚を与えた。


「……あんな空域、普通じゃありえない」


ジークの声は低く、短かった。


普段なら多少の危険を前にしてもむしろ楽しげな圧を見せる彼が、今は無理に強がるような言い方をしない。それだけで、この場の異常さが際立つ。誰もその言葉を否定しなかった。否定できる材料がどこにもないからだ。


しばしの沈黙を破るように、ミリアが振り返る。


「とにかく、状況を本部に報告しよう。これだけ異常なら、一時的な脱出か支援要請も考えないと」


その判断は早かった。焦っているからではない。むしろ、状況を把握する順序が徹底しているのだろう。未知の場所へ降りたなら、まず外と繋がる糸を確保する。繋がらないなら、その時点で危険度は跳ね上がる。ミリアはそこを最初に押さえた。


トレインは頷き、背中の収納ポーチから通信機を取り出した。


風の大陸で広く使われる魔導通信端末――それは「風晶機 《エア・レコード》」と呼ばれる、小型の結晶体を核にした装置だった。透明度の高い風晶へ魔素を通し、刻まれた風紋の共鳴を利用して声や信号を遠距離へ転送する。使い方自体は難しくない。通常の空域であれば、ギルド本部や近隣の観測塔と短い連絡を取る程度ならほぼ確実に届く。だからこそ、今この場で繋がるかどうかが状況判断の大きな分岐点になるはずだった。


トレインはスイッチを入れ、本部用の周波数ルーンを呼び出す。


結晶の表面へ刻まれた細い風紋が、淡い青光を放つ。


「こちら第七班、トレイン・フェザーネット。緊急コードを発信する。……応答願う、こちら第七――」


音が、掻き消えた。


声が届かなかったというより、発した言葉が空気の中で形を保てなかったような違和感だった。風晶機は微かなノイズと共に淡く光を放っている。装置自体が壊れているわけではない。けれど、応答の兆しは返ってこない。送ったはずの信号がどこかへ沈み込み、そのまま帰ってこない。


「……っ、再送信」


トレインは歯を食いしばり、ルーンの位相を微調整してもう一度呼びかける。


「こちら第七班。漂流島座標不明、緊急事態、応答せよ」


返ってくるのはただ――“風の震え”だけだった。


耳ではなく指先へ伝わるような、ごく細かな振動。信号がどこかへ触れ、そのままほどけて消えていく気配だけが残る。


「ダメだ、魔力伝導が遮断されてる」


セラが補助端末の波形を見ながら声を上げる。


「外からの魔素流入も反応なし……この島、何かを“封じてる”」


「封じてる……?」


トレインが問い返すと、セラは静かに頷いた。


「おそらく、魔力そのものを“沈める”微細構造が島の内部にある可能性が高い。それも――かなり古い構造」


彼女の言う“微細構造”とは、自然の地形や遺構の内部へ組み込まれた古代術式の類だろう。目に見える大きな結界ではない。もっと細かく、空気や石や風脈そのものへ染み込んだような作りのせいで、今の時代の装置では検知しにくい型だ。


カイが周囲の空気を指先でなぞりながら言った。


「……エアリアの風域が乱れてる。風の質が、外の空と繋がってない」


彼はそこで一度、島の中心へ視線を向ける。


「この島、何か特殊な磁気圏みたいなものを持ってるかも。風を流すんじゃなくて、抱え込んで沈める感じ」


ミリアは肩越しに風晶機を見やり、しばらく黙っていた。彼女の横顔には苛立ちよりも、状況をひとつずつ切り分けて受け入れていく冷たさがあった。


「じゃあ、助けも待てないってことか」


誰も答えなかった。


答えなくても、全員がそれを理解していた。島の周囲で蠢く雲の渦は静かに輪郭をなぞりながら、この場所を外界の通信から切り離している。風路も、魔素の流れも、声も、外へ届かない。まるで島全体が“沈黙”の中へ封じ込められているようだった。


トレインはふっと息を吐く。


「……なら、確かめるしかないな」


ここで立ち止まり、助けを待つという選択肢は消えた。ならば、答えを自分たちで探すしかない。視線は自然と島の中心へ向く。倒壊しかけた塔。そこへ向かって立ちのぼった細い光。何があるのか分からない。だからこそ、行かなければならない場所に見えた。


ミリアが短く頷く。


「索敵を維持しながら進む。ノースフェザーはここへ固定、緊急離脱可能な状態で待機。セラ、残留結界の測定。カイ、周辺風域の変質を継続監視。ジークは前衛。トレインは全体の違和感を拾って」


誰も異論を挟まない。


第七班は着陸したばかりの異常島で、早くも“試験ルート”から外れた別の探索へ踏み込もうとしていた。けれど、その行動に無謀な突発性はなかった。今、自分たちが生き延びるために必要な手順として、自然にそこへ向かっているだけだ。




沈黙の島――その中心に、塔はあった。


近づくにつれて、その存在はますます奇妙な印象を強めていく。かつて高く天を貫いていたであろう石造の塔は、今は無残に傾き、上部の三分の一ほどが崩落していた。けれど、崩れているのに壊れきってはいない。倒壊の直前で時間だけが止まったような、不自然な均衡を保っている。


その残骸の中には、奇妙な秩序が感じられた。


倒壊した角度。瓦礫の積もり方。苔に覆われた浮き彫りの風紋。すべてがただ朽ちたというより、何かを導くために配置されたようにも見える。風化は進んでいる。雨に打たれ、長い年月を経た痕跡もある。それでも、偶然へ委ねた崩れ方ではないと感じさせる“意志”が、そこには残っていた。


トレインたちは警戒を怠らず、塔の麓へ近づいていく。


風は吹かない。


空気は濃く、わずかに湿り気を含んでいる。けれどその湿気も、生きた水の匂いを持たない。長く閉ざされた部屋へ入り込んだときのような、古くよどんだ冷たさに近かった。耳へ届くのは自分たちの呼吸と、岩が風化して崩れるかすかな音だけ。島全体が口を閉ざしているような静けさの中で、そのわずかな物音だけが妙に大きく聞こえる。


「この場所……なにかが“眠ってる”感じがする」


カイの言葉は、いつもなら冗談めいて聞こえたかもしれない。今は誰一人、笑う気になれなかった。


塔の入口らしきアーチには、古代エアリア文字に似た文様が刻まれていた。完全に読める形ではない。線は摩耗し、ところどころ欠け、意味を繋ぐにはあまりにも欠落が多い。それでも、単なる装飾ではなく明確な文章であることは分かる。


セラが手のひらサイズの光源端末でそこを照らし、指先でかすれた線をなぞる。


「……“記憶に触れる者は、風に名を問われる”……?」


誰もすぐには意味を理解できなかった。


記憶。風。名を問われる。どの言葉もエアリア信仰や古代の記録文化と無関係ではない気がする。けれど、この島とこの塔においてそれが何を指すのかは、まだ見えない。


「記憶ってのは、誰のだ?」


ジークが低く問う。


セラは首を横へ振った。


「断片しか読めない。けど、少なくとも……ここがただの観測塔や避難所じゃないことだけは確か」


トレインは崩れたアーチをまたぎ、そっと塔の広場へ足を踏み入れた。


空気が、変わる。


外よりもずっと深く、静かで、重い。


それは温度の変化ではない。時間の密度が違うのだと錯覚するような重さだった。外では島全体の沈黙が広がっていた。ここは、その沈黙をさらに圧縮して閉じ込めたような場所だった。言葉が生まれる前の静けさ。あるいはたくさんの言葉が焼かれ、消えたあとに残る静けさ。そんなものを思わせた。


広場の中央から見える外壁の崩れた隙間には、螺旋階段が一部だけ残されている。崩れながらも塔の中心へ向かって緩やかに傾き、その途上で何度も途切れ、また別の壁面へ繋がっていた。誰かがいる気配はない。五人の足音だけが、乾いた石の上へしんと落ちていく。


広場の中心で、彼らは塔の前に立ち尽くした。


島の周囲では、背の高い塔を軸にして回転するように、“ひとつとして同じ流れを持たない乱流”が無秩序な風域を形成していた。風がない場所であるはずなのに、塔の周辺だけでは風の“癖”の痕跡がまだ残っている。昔、ここを中心に何か大きな流れが組まれていたのかもしれない。今は壊れ、その残骸だけが空間へ傷のように残っている。


「……“古代の、遺物”……?」


ミリアの呟きは、どこかで聞いた古詩の一節みたいに響いた。


塔の外壁は、かつて白亜だったのだろう。今は風化と雨に褪せた灰色の斑紋へ覆われている。優雅なアーチ、風の女神を象った浮き彫り、蔦のように壁を走る装飾帯。どれも崩れ、欠け、意味を失いかけている。それでも、かつてはここがただの防衛拠点ではなく、祈りや記録や知のための建造物だったことは見て取れた。


周囲には瓦礫が不規則に積もり、そのあいだには奇妙な白い草がもの寂しげに揺れていた。


揺れている、といっても風に吹かれてではない。自分の重みだけでかすかに震えているような、不自然な動きだった。セラがしゃがみ込み、それを観察する。指先は触れる寸前で止まり、魔導端末の光だけが細い葉を照らした。


「この植物……生きてる?」


彼女は自分へ問いかけるように呟く。


「でも、魔素の反応が極端に弱い。まるで、成長だけを忘れたみたい」


「死んだまま、夢だけ見てる感じだな」


カイがぼそりと添える。


誰も笑わなかった。


その比喩が、この場所にはあまりにも似合いすぎていたからだ。


塔の正面へ続く回廊には、大理石で組まれた無骨な柱が整然と並んでいた。かつてはもっと白く、もっと滑らかだったのだろう。今は表面が削れ、罅が走り、ところどころ欠けている。それでも崩れ落ちず立っているというだけで、古代の建築技術の高さを思わせた。


回廊の先、入口にあたる場所には、何かを封じるように壊れた扉がもたれかかるように立てられていた。


そこへ刻まれた古代語を、セラが慎重に読み取る。


「……“ここは記憶の外 声なき記録の眠るところ”」


記憶の外。


その言葉だけで、トレインの背筋に冷たいものが走る。記録が眠る場所ではなく、声なき記録が眠る場所。そしてそこは“記憶の外”にあると扉は言っている。忘れられた場所という意味なのか。あるいは、そもそも記憶されてはいけない場所だという意味なのか。


ジークが扉へ手をかけ、慎重に押す。


重々しい音が広がり、扉はわずかに開いた。


内側から吐き出される空気は、冷たくも熱くもなかった。ただ、長いあいだ何かがそこへ閉じ込められていたことを告げる匂いがあった。乾いた紙と焦げ跡と、石の粉と、雨の届かない場所へ澱んだ古い時間の匂い。


五人は、一歩、また一歩と中へ踏み入れていく。


塔の内部は、外見よりも広く感じられた。


中央には、崩れた石柱と瓦礫が散らばる円形の大広間がある。天井の一部は抜け、そこから空の色がぼんやりと差し込んでいた。けれど、その光は真っ直ぐ届いていない。何かねじれたフィルターを通して入ってくるみたいに、薄く歪み、広間の空気を余計に古びて見せている。


壁面には、かつて記録を保存していたらしい“言葉の筐体”が並んでいた。


棚とも書架とも違う。もっと密閉性を重視した、箱状の保存装置だ。風や湿度から書物や記録板を守るためのものだったのかもしれない。それらはすべて焼かれ、砕かれ、もはや意味を持たない残骸と化していた。黒く煤けた面。割れた風晶片。焦げて張り付いたページの欠片。ここで何かが失われたことだけが、あまりにも鮮明に残っている。


「ここ……ただの廃墟じゃない」


セラの声が、少し震えていた。


「見ろよ、これ。書物か何かが焼かれた跡がある。……それも、大量に」


ジークが周囲を見回しながら、小さく呟く。


「ところどころの柱や壁は、自然に崩れた感じじゃない。誰かが争った後みたいだな」


たしかに、破壊の痕跡には偏りがある。風化や時間による崩壊なら、もっと均等に傷むはずだ。ここでは特定の場所だけが集中的に砕かれ、焼かれ、意味を消されている。偶然ではなく、意図を持って壊された空間だった。


ミリアは剣の柄へ手を添えたまま、大広間の中央をじっと見つめていた。


そこには朽ちかけた台座がある。祭壇のように見えるが、神を祀るためというより、何かを置き、読み、触れるための装置だったのかもしれない。四隅に風紋の柱があり、その柱を結ぶはずだった線は途中で焼き切れたみたいに消えている。


その台座の上に――一冊の書物があった。


風もないのに、ゆっくりとページを捲っている。


誰が置いたとも知れず、いつからそこにあるとも知れない。紙の色は黄ばみを越えて淡い灰へ近く、表紙には題名らしき文字も見えない。それでもその本だけは焼けていなかった。壊されていなかった。時間に取り残されたように、そこへ残されていた。


ページは誰の手も触れていないのに、静かに、規則正しく捲られていく。


ぱらり、ではない。


もっとゆっくり、誰かが内容を確かめながら一枚ずつめくっているような速度だった。


五人の足が、自然と止まる。


それはまるで――彼らが来るのを待っていたかのようだった。


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