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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
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第十八話 地図にない島



――ゴォッ、と、船体の外殻を掠めていた風が突然その質を変え、《ノースフェザー》の機体が大きく揺れた。


蒼黒い雲の峰へ踏み込んだ瞬間、世界は《音》を失った。


ついさっきまで、朝の空には確かに音があった。艇の側面を切り裂く空気の擦過音。エアコアの脈動が甲板へ返す低い震え。遠くの漂流島を流れていく風の薄い唸り。それらがすべて分厚い水の膜へ沈んだみたいに、一斉に掻き消えたのだ。耳が塞がれたわけではない。むしろ聴覚そのものは冴えているのに、音が音として届く前の段階で、何か得体の知れないものへ吸い取られているような感覚だった。


空気が重い。


頬へ触れる湿り気は、ただ水分を多く含んだ雲の冷たさではなかった。肌へ貼りつき、呼吸のたび肺の奥へ薄い鉛を流し込むような鈍い圧を持っている。思考の輪郭まで少しずつ滲ませていくようで、頭の中に生まれた判断が言葉の形へまとまる前にどこかへ沈んでいきそうになる。


周囲一面は、漆黒に近い灰の濃霧だった。


雲、と呼ぶにはあまりにも異質だった。普通の雲なら、濃くとも淡くとも、どこかに光の粒や水の層らしい柔らかさがある。ここに満ちているものには、それがなかった。煙でもない。霧でもない。どろりとした灰色の空間が、ひと続きの生き物みたいにうねりながら艇の外側を流れている。まるで別の次元へ足を踏み入れたような、そんな錯覚すら覚えさせた。


「前が見えないッ……!」


セラの声が無線機越しにかすかに響く。


かすかに、という言い方がいちばん近い。声そのものは届いているはずなのに、耳へ来るまでに距離がねじれているような不自然な反響があった。すぐ隣にいる仲間の声が、遠い崖の向こうから返ってきているみたいに聞こえる。無線の不調だけでは説明がつかない違和感だった。


前方へ伸びているはずの風の標 《ウィンドパス》は、一本たりとも見えない。


古代エアリア文字で刻まれた光の標は、普通の靄や霧の向こうでも完全には消えない。薄くでも、方向を示すための青い明滅が必ず残る。今はそれがまったく届いてこなかった。ルーンの灯りが、何か巨大な手で覆い隠されたように光ごと呑み込まれている。


「……おい、なんだこれ……!」


ジークが舵の補助へ回りながら、焦りの滲む声を漏らす。太い腕が手すりと補助ハンドルを掴み、機体の横揺れを押さえ込もうとしていた。普段なら力で押さえることに迷いのない彼でさえ、この空域では正解が見えないのだろう。大きな身体がいつもより少しだけ低く構えられ、その姿勢に本能的な警戒が滲んでいた。


ミリアは必死に風の癖を読み取ろうとしている。


操縦席の両手は微動だにしていないようでいて、指先の角度は細かく変わり続けていた。空を走る者にとって、風は道でもあり、敵でもある。ふだんならその流れの“癖”を感じれば、次に何が起きるかの見当はつく。ここでは違った。風そのものが迷っていた。


通常であれば、風は空の層に沿ってある程度一定の流れを保っている。上昇する流れと下降する流れが隣り合うことはあっても、そこにはそれぞれの筋がある。だが、この雲域には“道”がなかった。風は逆巻き、ひとところに渦を巻いたかと思えば、次の瞬間には反転する。横へ流れていたものがいきなり垂直へ沈み、その沈み込みが今度は背後から膨らんでくる。まるで生き物の心臓のように、吐き、吸い、脈打ち、そのたびに空間そのものの拍動を変えていた。


「……風が、閉じてる」


トレインが呟いた。


誰もすぐには返さなかった。


その言葉の意味を、全員が一瞬で理解してしまったからだ。風が乱れているのではない。閉じている。循環しながら出口を作らず、内部へ閉じこもっている。空そのものが何かを拒んでいるような圧力があった。外から侵入したものを通さず、内側へ飲み込み、迷わせるために呼吸を歪めているみたいだった。


そのときだった。


コンソールへ走る警告灯が、短く赤い線を引いた。機体を包む魔導障壁へ、微細な震えが走る。


「重力が歪んでる……機関、調整中……!」


セラが必死に調整装置へ手を伸ばし、端末の符線を次々と繋ぎ直す。彼女の声は落ち着いている。けれどその速さは、いま起きている異常が想定外のものであることをよく示していた。


機体が、ゆっくりと傾いだ。


ゆっくりだったからこそ、余計に不気味だった。急激な衝撃なら反射で身構えられる。これは違う。世界のほうが、こちらの感覚へ無断で角度を変えていく。立っているはずの床がほんの少しずつ横へ流れ、その横がいつの間にか“下”へ変わりはじめる。天と地の感覚が反転する。


空中にあるはずの浮遊艇が、深海を沈む船みたいに、じわじわと下へ引き込まれていく。


「くそっ、方角が――! エアリアのコンパスも狂ってる!」


ミリアの声が一段低くなる。焦りを表へ出しているのではない。焦りを切り捨てて、必要なことだけを言葉へしている声だ。だがそこへ含まれた鋭さが、事態の深刻さを物語っていた。


トレインは窓の外へ目を凝らした。


濃霧の向こう。ほんの一瞬だけ、何かが揺らいだ。


巨大な影。


鳥なのか、島なのか、それともそのどちらでもない何かなのか、輪郭を掴む前に霧がそれを呑み込んだ。見えたはずの存在は、すぐまた灰色の層の向こうへ沈み、何もなかったみたいに消える。それでも、見間違いだとは思えなかった。確かに、そこには“何か”がいた。


「落ち着け、誰かが舵を取らなきゃ、本当に沈むぞ!」


ジークの声が響く。


その一言が、全員の感覚をわずかに正気へ引き戻した。恐怖や違和感へ呑まれている場合ではない。いま必要なのは、この異常な空域の中でも、艇の軸を失わずに前へ進ませることだった。


トレインは自分の持ち場の補助ハンドルを握りしめ、全身へ力を入れた。


「オレが行く!」


思わず出た言葉だった。けれど、それは衝動だけで飛び出したものではない。第一試験の乱流でも、空の牙の中でも、彼は最後に“風を聴く”ことで道を見つけてきた。見えないなら聴くしかない。いまもまた、その瞬間が来ていると身体が先に理解していた。


ミリアが一瞬だけ驚いた顔を見せた。だが、その表情はすぐに消え、短く頷く。


「風を感じろ。空は、見えなくても“鳴いてる”」


その言葉に、トレインは目を閉じた。


視界を閉ざすのは危険だ。それでも今は、見えないものを追うより、見えないまま存在している流れへ耳を向けるほうが正しい。呼吸を深くする。濃い湿気の中でも、風の層の違いはたしかにある。頬へ当たる圧の角度。指先へ返ってくる細かな震え。甲板の軋み方。耳の奥でほどけていく低音と、左側だけが少し高く鳴る空気の擦れ。


霧の中にも、風のささやきはあった。


聞き取りにくいだけで、確かにそこにある。


風紋の裏。気流の癖。身体を撫でる圧の、ほんのわずかな違い。ふつうの空域なら無視してしまうような微細な変化が、この空域では逆に道しるべになる。全部の風が閉じているわけではない。閉じようとする圧の中にも、閉じ切れずに漏れる筋がある。鼓動の継ぎ目のような場所がある。


(この風……右だ)


思考ではなく、感覚がそう告げる。


(そこに……空がある!)


トレインは目を開け、舵を引いた。


斜め右へ、滑り込むような旋回だった。艇が大きくぐらつき、フレームがきしみを上げる。ジークが即座に荷重を反対側へ逃がし、セラが補助術式を差し込み、カイが細い弦の音で偏流をひとつ撫でる。全員の動きが一拍遅れず重なった。


その瞬間――霧が、裂けた。


一本の、風の筋が姿を現す。


それは目に見える道ではなかった。濃霧の密度がそこだけわずかに薄く、風の粒が同じ方向へ揃って流れている、かろうじて通り道と呼べる細さの空隙だった。けれど、閉じた雲域の中にそれが一本でもあるという事実がどれほど大きいか、全員が瞬時に理解した。


「見えた! 航路だ!」


セラが叫ぶ。


彼女の声には、さっきまで感じられた反響のずれが少しだけ薄れていた。つまり、この風の筋は本当に“開いている”のだ。


《ノースフェザー》は、そのかすかな光の向こうにある道を捉え、再び前へ滑り出した。


滑る、といっても余裕のある航行ではない。艇はまだ重力の歪みを引きずり、船体表面には雲域の圧がぬめるようにまとわりついている。しかし、さっきまでの“沈み続けるだけの空間”からは確実に抜け出しつつある。風が少しずつ向きを取り戻し、閉じていた呼吸へ細い出口ができはじめているのが分かった。


それでも、誰も気を抜かなかった。


この雲の峰の中に、何かが潜んでいる。


ただの異常気象ではない。ただの濃霧でもない。この空は“空そのものの形”を変える何かに触れている。さっき霧の向こうに揺らいだ巨大な影も、その証拠のひとつなのかもしれない。ここでは空が空であることすら信用できない。


やがて、前方の灰色がほんの少しだけ薄くなる。


霧の層が、内側から裂け目を広げるように流れ、閉じていた世界へ細い光が差し込んだ。《ノースフェザー》は、まるで囁きに導かれるように、その裂け目をすり抜ける。


そして――霧が、切れた。


外の空は、沈黙に包まれていた。


先ほどまでの狂気が嘘のように、風も、音も、ほとんど消えている。音が戻ったわけではない。もっと奇妙な静けさだった。風が止まったのではなく、風そのものがここでは息を潜めているような静けさ。広い空域の真ん中へ、ぽっかりと音だけが置き去りにされたみたいだった。


その代わりに――眼前へ、島があった。


ただひとつ、ぽつりと浮かぶ巨大な漂流島。


周囲の空域から明らかに孤立している。近くに他の島影はなく、航路標も見当たらず、空の地図に記されるべき連なりのどこにも属していないように見えた。まるで誰かが世界の別の場所から記憶の断片だけを抜き出し、ここへ置き忘れたかのような佇まいだった。


「……あれは……」


ミリアが、呆然としたように呟く。


島は黒曜石のような岩肌に包まれていた。朝の光を受けても艶を返さず、吸い込むように鈍い。中心には倒壊しかけた塔のような構造物が立っている。塔と呼ぶにはあまりにも崩れ、遺跡と呼ぶにはまだ形が残りすぎている、半端な静けさをまとった建造物だった。島全体が、風の流れからも外れている。空に浮いているはずなのに、周囲の風脈がまるでその輪郭を避けて流れており、そこだけ時が止まった空間のようだった。


「おかしい……試練リストに、あんな島はないはず」


セラが懐中端末を睨みながら言う。彼女は急いで位置情報を照合しようとしているらしいが、端末へ表示される座標はどこか曖昧に滲み、正しい基点へ固定されていないようだった。


「位置もおかしい。予定航路からどれだけ逸れてるのかすら……判断できない」


カイが、いつになく真剣な顔で言葉を継ぐ。


「ただの遭難じゃ済まないかもな。こりゃ……予想外どころじゃない」


風が、どこか遠くで震えた。


静けさに満ちているはずの空域のどこかで、ごく薄く何かが鳴っている。その音は島から来ているのか、雲域の奥にまだ残っている異常の余韻なのか判別がつかなかった。けれど、ここが“ただ迷い込んだ空間”ではないことだけは全員が感じ取っていた。


ジークが唇を引き結びながら、短く言う。


「選択するしかないな」


「……降りるか?」


トレインの問いかけへ、一瞬沈黙が走った。


だが、誰も否定しなかった。


今いる空域がどこなのかすら正確に把握できない中で、唯一目視できる拠点はあの島だけだ。雲域の中へ戻って盲目のまま飛び続けるより、この島へ降りて状況を整理したほうがまだ生存の可能性は高い。理屈としても、感覚としても、それ以外の道は見えなかった。


「補給と測量の確認もしなきゃ」


セラが冷静にまとめる。


「一度降りて、状況を整理するしかない。エアコアの負荷も見たいし、この静穏域の性質も調べないと次へ動けない」


「よし。じゃあ、行こうか」


ミリアが強く舵を握り直した。


《ノースフェザー》が、ゆっくりと高度を下げる。


近づくにつれ、島の輪郭がはっきり見えてきた。黒い岩肌には、何かを封じるような紋様が刻まれている。線は太く、ところどころで途切れ、長い年月に風化されたせいで本来の意味をもう読み取れない。それでも、これは自然にできた模様ではないと分かる。意図を持って刻まれたものだ。封印か、境界か、祈りか、それとも警告か。どれにしても穏やかな気配ではなかった。


島の表面には、草木もほとんど生えていない。


岩と、割れた地面と、風に削られた粉のような砂だけが広がっている。生き物の気配も見えない。いや、生き物だけではない。普通の漂流島に必ずあるはずの“流れ”がないのだ。風が走らない。葉が揺れない。砂の一粒さえ勝手に転がらない。静寂が、そこにあった。


「風が……止まってる……?」


トレインがそう呟いたときだった。


島の中心、倒壊しかけた塔の頂部から――ひとすじ、細い光が立ち昇った。


それは激しい閃光ではない。青とも白ともつかぬ、古い星明りのような光だった。細く、けれど確かに、空へ向かって伸びている。まるで誰かが訪れたことに応えるかのように。


「……なにかが、待ってる」


カイの低い声が、風のない空の中で妙に遠くまで響いた。


《ノースフェザー》は、島の岩肌にできた裂け目へ沿うような天然のランディングスポットを見つけ、そこへ慎重に降下していく。地面の形状は荒れている。けれど、この島の中ではそこだけが機体を受け入れるために空けられた場所みたいに見えた。


着陸の衝撃は小さかった。


むしろ驚くほど静かだった。風の支えも、着地の反響もほとんどなく、艇は音を立てることさえ遠慮するようにして岩の裂け目へ身を置いた。甲板の上に立つ五人は、自然と息を潜める。誰もまだ、この島が何なのか分からない。


けれど確かなことが、ひとつだけあった。


それは――ここで何かが始まる、という直感だった。


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