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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
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第十七話 蒼黒の雲へ




――ボッ



圧縮された風が弾けるような音を残して、《ノースフェザー》は朝の陽光を切り裂くように空へ滑り出した。


風の塔の発着港を離れた瞬間、空気の質が変わる。塔の周囲を巡っていた制御風脈の整った流れが背後へ退き、その外側に広がる生の空がまるで待ちかまえていたかのように五人を迎え入れたのだ。甲板の縁を撫でていた風は一段鋭くなり、頬へ触れる冷たさにも、塔内の安全圏では感じられなかった野生の気配が混じりはじめる。夜明け前の深い蒼をまだ色濃く残した空は高みへいくほどゆっくり薄明へ開きつつあり、その広がりの中に無数の漂流島がぼんやりと輪郭を浮かべていた。


その姿は、ただ空に浮いていると表現するにはあまりにも神秘的だった。


宇宙に咲いた花々と呼べば近いのかもしれない、とトレインは思う。咲いていると言っても、柔らかな花弁を持つ花ではなく、世界がいくつもの断片へ砕け、そのひとつひとつが空へ根を張ることを拒まれたまま、それでも独自の色と形を抱えて漂い続けているような、不思議な咲き方だった。島によって、色が違う。大きさが違う。漂う速度も、まとっている風の層も、まるで別の生き物のように違っている。


赤みを帯びた岩塊の島は、遠目にも熔岩の気配を滲ませている。表層の裂け目からうっすら立ちのぼる熱気が朝の冷えた空へ薄く混じり、その周囲だけ風が歪んで見えた。銀葉をまとった緑の島は、樹冠のあいだから微かな音を運んでいた。生い茂った木々が風へ擦れあうその響きは、葉音というより、見えない誰かが囁いている声のようでもある。さらに遠くには乳白色の霧を裾へまとった小島が、眠るように傾いだまま流れていた。輪郭の曖昧さがかえって夢の中の景色めいていて、視線を長く置くと、自分が本当にそこを見ているのかどうか分からなくなりそうだった。


ところどころには、人の営みの痕跡も見えた。


廃墟となった小さな祠。崩れかけた浮橋の残骸。風へ磨かれて半ば白骨化した支柱。かつてこの空を旅した者たちが、たしかにここへ降り、祈り、渡り、何かを残していったのだと分かる形跡が、島々の表面へ薄く沈んでいる。風と時間に削られたその痕は、忘れられた歴史の断片そのものだった。空に浮かぶ大地の数だけ、誰かの旅路と願いがある。そのことが、目の前の景色を単なる自然の美しさでは終わらせず、もっと深い物語の層をまとわせていた。


空域を繋ぐのは、古代エアリア文字で刻まれた航路標 《ウィンドパス・ルーン》だった。


それは浮遊結晶を核にして空中へ固定された、光の標識である。淡い青光を放ちながら航行者たちを正しい風路へ導くその標は、ただ矢印のように方角を示すだけのものではない。風脈の層に応じて明滅の仕方が変わり、危険域が近づけば色味がわずかに沈み、進むべき帯へ入ればかすかな共鳴音まで返してくる。古代の技術と信仰がひとつの道標になったもの、と呼ぶべきだろう。空の上で生きる民が何世代にもわたって風路を守り、読み直し、繋ぎ続けてきたことの証でもあった。


《ノースフェザー》の舳先近くへ立つトレインは、その標を見上げながら息を呑んでいた。


「……すげぇ……」


口をついて出たのは、そのひと言だけだった。


誰も返事をしなかった。


返す必要がなかったのだ。皆、同じものを見ていたから。言葉よりも先に目が語っていた。ミリアは表情を崩さないまま進路の先を睨み、ジークは唇の端をわずかに持ち上げて広がる空域を見渡し、セラは航路標と島々の位置関係を素早く目へ刻み、カイは風脈の帯がどこで重なりどこで切れているかを、眺めるというより聴くような目で追っている。感嘆の仕方はそれぞれ違っても、この空が想像以上のものであることだけは、全員が同じ深さで理解していた。


この空は、知らないことだらけだった。


風には方角だけではなく、層がある。上へ行けば強くなる、下へ行けば弱まる、そんな単純な話ではない。ある層では魔力が濃くなりすぎ、浮遊艇の魔導炉が過熱しやすくなる。別の層では重力が反転し、身体が感じる“下”という感覚そのものが入れ替わる。さらに薄い帯へ入れば、機体の速度は上がるのに操縦は重くなり、見た目には穏やかな空域のはずが、その一歩外側では風が刃のように研がれていることもある。エアリア・ギルドの試練は、そうした空の多層性をそのまま課題として突きつけてくる。


けれどそれ以上に――この大陸には物語があった。


空に浮かぶ土地の数だけ、忘れられた歴史と、かつてそこで交わされた祈りが眠っている。トレインはそれを、理屈としてではなく感覚として受け取りはじめていた。第一試験で空の牙を越えたとき、自分はただ危険な乱流を突破しただけではなかった。空の中へ記憶されていた何かへ、一瞬触れたのだ。今こうして漂流島の群れを目にしていると、その感覚がまた胸の奥で目を覚ます。目の前に広がっているのは単なる試験場ではなく、長い時間を抱えた生きた世界なのだと。


胸が、高鳴った。


自分が今、触れようとしているものは、ただの試験でも、ただの航海でもない。まだ見ぬ未踏の領域へ、たしかに足を踏み入れようとしているのだ。その実感は、少年めいた興奮と、空へ挑む者だけが知る慎重さとを同時に生んだ。


ふと、船尾寄りで風を読んでいたセラが声を上げる。


「進路が決まったよ。南南東。降下角七度」


声は穏やかなのに、そこにはすでに判断を終えた者の鋭さがあった。その一言を合図に、甲板の上の空気が一気に動き始める。


ジークは足元の魔導リフトの固定具を再確認し、重式エアアームの展開角をわずかに調整する。彼の装備は見た目に反して繊細な補正が必要なのだろう。カイは背中へ下げた細い弦状装置を軽く鳴らし、魔力の共鳴を整えている。弦といっても楽器ではなく、風脈を読み、偏流を制御するための補助装置らしい。鳴った音は耳へ届くほど明確ではない。それでも、空気の膜が一枚だけぴんと張り直されたような感触があった。


ミリアは操縦席の横へ立ち、前方を見据えたままトレインへ合図を送る。


「このまま突っ走るぞ。空は止まってくれない」


「わかってる!」


トレインは編隊飛行で使われるハンドサインを素早く返した。了解、継続、前方異常に注意。言葉で交わすより早い確認が、風を切る動きの中で無駄なく交わされる。そのやり取りが済んだ瞬間、《ノースフェザー》の重心がぐんと前へ跳ねた。


五人の身体へ、重力が一段深くのしかかる。


風魔結晶の出力が上がり、艇が本格的な巡航体勢へ入ったのだ。甲板の下でエアコアが高らかな唸りを立て、船体全体が薄い震えを帯びる。直後、進行方向の風が一気に細く鋭くなり、五人は朝の空の中へ深く押し出された。


《ノースフェザー》は静かに風を割きながら、指定された航路を辿っていた。


最初の漂流島――島No.17は、まだ視界の遥か向こうにある。近づいているはずなのに、空が広すぎるせいで距離感がなかなか縮まったように思えない。それでも航路標の並び方と風脈の角度を見れば、着実に目標へ寄っていることは分かった。艇の進みは安定している。カイが言っていた通り、風門近くの偏流には少し癖があったものの、初速を早めに乗せたことで大きなブレは出ていない。ミリアの操舵も無駄がなく、ジークは甲板の揺れへすでに身体を馴染ませ、セラは変化する風向を絶えず端末へ取り込んでいる。第七班としての最初の航行は、驚くほど滑らかに始まっていた。


そのはずだった。


しばらく飛行を続けるうち、空の輪郭が、ある一点で不可解な色へ染まり始めるまでは。


「……あれ、見えるか」


ミリアが眉をひそめ、遠方を指差した。


全員の視線が自然とそちらへ向く。


そこには、まるで空の山脈のような雲の壁が、天へ向かってそびえ立っていた。


白ではない。


朝焼けにも夜明けの影にも属さない、暗く青黒い雲塊だった。内部からじわりと脈打つような圧を抱え、ただそこに在るだけで周囲の光を鈍らせている。普通の積雲や乱層雲が持つ柔らかな輪郭はどこにもない。峰は鋭く切り立ち、裾は空域へ垂れ込めるように広がり、塊の表面では微細な明滅が脈動している。雷光に似ているのに、音はまだ届かない。その沈黙が、かえって異様だった。


風の流れが変わっていた。


ついさっきまで頬を撫でていた朝風へ、微かな静電気のようなざらつきが混じっている。空気が乾いているのに、皮膚の上だけ湿り気に似た重さを感じる。風脈の主流はまだ折れていない。けれどその先で何か大きなものが風を呑み込み、圧をねじ曲げ、こちらへ見えない影響を送り返してきているのだと肌が先に理解した。


「……異常気象?」


セラが艦の計測器へ視線を落としながら呟く。端末へ浮かぶ波形は安定を失い、ところどころで細かい乱れが走っていた。


「いや……自然にできた雲じゃねぇな」


ジークが重々しい声で返す。


「こんな雲、オレは見たことがない」


彼の言葉に、誰もすぐには返さない。


トレインも、言葉を失っていた。


それは雲というより、“生き物”に近かった。山のようにうねる峰が風を飲み込み、音を殺し、ただ無言でそこに在る。その存在感は遠くにあるはずなのに、こちらの胸の奥へ直接重さを落としてくる。空が、睨んでいる。そんな感覚があった。


進むべきか。戻るべきか。


短い沈黙が、五人のあいだを過ぎていった。


沈黙の時間はほんの数呼吸程度だったかもしれない。けれど、それはただ戸惑っているだけの空白ではない。誰もが、いま見えている異常を自分の知識と感覚で素早く照らし合わせ、選ぶべき行動を測っていた。


その静けさの中で、カイがぽつりと呟く。


「この風は……まだ、止まってはいない」


声は小さい。それでも、その一言は不思議な重さを持っていた。彼は雲そのものを見ていたのではなく、雲へ向かって流れ込んでいる風と、そこから戻ってきている風との差を聴いていたのだろう。止まっていない。つまり、完全な閉塞ではない。飲み込まれて終わるだけの壁ではなく、どこかに通り道が残されている可能性があるという意味だった。


誰も言葉で返さない。


けれどその一言が、たしかに空気の向きを変えた。


「迂回もできないわけじゃない」


セラが冷静に提案する。すでに彼女は端末へ別ルートを何本か浮かべていた。


「でも、それだと予定航路から大きく外れる。島No.17への到達時間がずれるし、以後の島の軌道にも影響が出る。……結果次第では、失格もありうる」


彼女の言い方には焦りがない。危険を危険として示し、その上で代償も正確に置く。感情ではなく可能性で考える人間の声だった。


ミリアは操縦席へ両手を置き、前方をまっすぐ睨んだまま言う。


「突っ込む」


短い。けれど、そこには迷いがなかった。


「怖いからって引き返すんじゃ、スカイランナーにはなれない」


その一言が、甲板の上の風を引き締める。


トレインは深く息を吸い込んだ。目の前の雲壁は、空の恐怖そのものみたいに見えた。行けば何が起きるか分からない。風脈の乱れ、視界の遮断、未知の重圧。どれも十分に危険だ。けれど、それ以上に胸の奥が震えていた。


(この先に、何かがある)


恐怖と、高鳴りと、期待とがひとつに混ざる。それは、ただ危険を前にした緊張とは違う。まだ見ぬものへ出会う直前の、生きている感覚だった。幼いころ断崖の上で空の向こうを思い描いていたときと、よく似た震えでもあった。


「行こう」


トレインは言った。


「逃げる理由なんて、どこにもない」


その言葉へ、ジークが無言で頷く。大柄な体が一度だけ小さく前へ傾き、戦うための重心へ切り替わる。セラは返事の代わりに装備の同期を再確認し、指先で術式の輪郭をなぞる。カイは背中の弦状装置の張りを直し、短く鳴る音だけで決意を返した。


《ノースフェザー》は、一度傾きかけた進路を修正する。


白銀の船体がわずかに角度を変え、雲壁の中央ではなく、風がまだ生きている帯へ狙いを定める。艇首が向きを変えた瞬間、前方の空気がぴんと張った。


風が唸る。


雲の峰が、口を開く。


群青が果てしなく続いていた空の先で、蒼黒い雲の塊がゆっくりと脈打ち、その内部へ得体の知れない何かを隠している。空域の一角を覆うその異様な存在は、自然現象の顔をしていながら、どこか意志めいたものを持っているように見えた。


五人の影を乗せた《ノースフェザー》は、その蒼黒の渦へ向けて静かに速度を上げていく。


誰も大声を上げない。誰も覚悟を叫ばない。もう必要な言葉は交わし終えていた。甲板の上で、それぞれの呼吸だけが少し深くなり、風の音が一段鋭く変わる。


そして第七班の姿は、蒼黒い雲の口の中へ、ゆっくりと静かに、吸い込まれるように消えていった。


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