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SKY RUNNER -空の向こうへ続く風は-  作者: 平木明日香
第1章 空の旅路へ
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第二十話 記録されなかった塔



静寂が、塔の奥へとゆっくり吸い込まれていく。


外で感じた沈黙が、ただ音の少ない空間であることを意味していたのなら、塔の内部に満ちている静けさはもっと別の質を持っていた。そこでは音が存在しないのではなく、音として立ち上がる前の気配だけが切り取られ、どこか深い場所へ封じ込められているように感じられる。五人の呼吸も、衣擦れも、石を踏む靴底の乾いた音も、たしかに耳には届いているはずなのに、届いた直後に輪郭を失い、そのまま空間の奥へ呑み込まれていく。塔そのものが耳を持ち、侵入者の発するすべてを静かに飲み下しているようだった。


五人は、円形の大広間を中心に二手へ分かれて慎重に調査を始めていた。


トレインとミリアは右手の回廊へ向かい、セラ、カイ、ジークは左手の半壊した階段側へ向かった。誰かが明確に指示したわけではない。けれど広間へ足を踏み入れてからの短いやり取りの中で、自然とその形へ落ち着いていた。前へ出て危険を測る者、痕跡を読む者、空間の異常を感じる者、それぞれの癖が組み合わさった結果なのだろう。


塔の内部は、かつてここがただの建築物ではなかったことを、隠そうともせず露わにしていた。


壁の一面には、浅く刻まれた文字が無数に連なっている。彫刻と呼ぶには線が細く、碑文と呼ぶにはあまりにも量が多い。そのひとつひとつは独立した文章というより、何か長大な記述を断片化して壁面へ貼りつけたような構成をしていた。ところどころ線が途切れ、風蝕で削られ、読み取れない箇所も多い。それでも、これが単なる装飾ではなく“言葉”として刻まれたものであることだけは見てすぐ分かった。


トレインは指先で石壁へ触れる。冷たい。けれど、長い年月を経た石に特有の乾いた温度だけではなく、もっと深いところに沈んだ“蓄積”のようなものがあった。誰かがここへ立ち、書き残し、封じ、あるいは読み上げた言葉の名残が、石そのものへ染みついているみたいだった。


「……封印みたいだな」


彼が小さく呟くと、すぐ隣でミリアが立ち止まった。


「私もそう思った」


彼女は指先で壁の溝に溜まった埃を軽く払う。削られた線の下から、別の文字列が浮かび上がる。表層の風紋めいた意匠の下に、本来読まれるべき文が隠されていたような見え方だった。


「記録のために残した文字って感じじゃない。読ませないために刻んだ、って言い方のほうが近いかもしれない」


トレインはその言い回しに、妙な寒気を覚える。文字は普通、読むためにある。意味を伝え、忘れないために残されるものだ。ここに刻まれた文字は、それとは逆の働きを与えられているらしい。言葉の封印。そう呼ぶしかない在り方だった。


崩れた書架の背には、風の女神エアリアと共に描かれたもう一柱の神の名が、かすれながら残されていた。


ミリアが腰を落としてその部分の煤を払う。


「……ゾディアーク」


文字は完全ではない。それでも、その名だけは不思議なほどはっきり読み取れた。


“ZODIAC”――。


トレインは知らず知らずのうちに、その音を心の中で反芻していた。聞き覚えのある名ではない。少なくとも、アストリアの村で日常的に耳にする神話や風詩の中には出てこなかったはずだ。エアリアの名が風の民にとってほとんど呼吸の一部のようなものであるのに対し、その名はあまりにも異物だった。


「……ゾディアーク。やっぱり、この場所……ただの記録施設じゃない」


ミリアの声は低い。記録施設という言葉を選びながらも、もはや彼女自身がその呼び方で済むとは思っていないのが分かる。


「無の記憶……」


トレインはぽつりとそう言った。


自分の声なのに、自分の耳へ吸い込まれるように響いた。何の根拠もなく出た言葉ではない。壁へ刻まれた封印じみた文字、焼け残った書、記録されていない塔、風ではなく沈黙で満たされた空間。それらすべてが、“記憶されないようにされた記憶”を連想させたのだ。


空気は、静かすぎた。


静かすぎる、という感覚はしばしば言葉の比喩に使われる。ここでは本当に、静けさがひとつの圧を持って存在していた。石の壁がごく薄く呼吸しているような、耳の奥に触れる風の鼓動があった。音ではない。けれど音にならなかった何かの残響だけが、この塔の内側でずっと循環している。


トレインとミリアが右手の回廊を辿る一方で、広間の反対側ではジークたちが半壊した階段周辺を調べていた。足音と、低く交わされる短い言葉が断続的に聞こえる。まるで別の部屋にいるように遠く感じるのは、この塔の中で距離感そのものが少しずれているせいかもしれない。


回廊は緩やかに湾曲しながら塔の外縁へ沿って伸びていた。壁面の風紋は途中から薄れ、代わりに抽象的な線刻が増えていく。文字に見えそうで見えない、図形に見えそうで意味を掴ませない、不思議な痕跡だった。トレインが一つ一つを目で追っていると、ミリアが足を止めて小さく言う。


「こっち、見てみろ」


壁の窪みの中に、半ば崩れた石板が埋まっていた。表面には複数の輪が重なり、その中心へ放射状の線が集まっている。星図にも似ている。航路図のようにも見える。けれど、どちらにしても現在のヴェントゥスで使われる形式とは違っていた。


「記録図か……儀式陣か……」


トレインが首を傾げると、ミリアは腕を組む。


「たぶん両方だ。信仰と記録が分かれてない時代の作り方に見える」


その言い方に、トレインは彼女が思っていた以上に知識を持っているのだと気づく。スカイランナーの家系にいたことや、父親の痕跡を追ってきた時間が、彼女にこうしたものの見方を与えたのかもしれない。


「お前、そういうの詳しいんだな」


「詳しいってほどじゃない」


ミリアは石板から目を離さずに答えた。


「親父の古いノートに、たまにこういう図が挟まってた。意味は教えてくれなかったけど、見た目だけは覚えてる」


その返答には、知識の自慢よりも失われた会話の欠片を拾い上げるような寂しさがあった。トレインはそれ以上踏み込まず、再び回廊の奥へ視線を向ける。


そのとき、少し離れたところからセラの声が響いた。


「みんな、こっち来て。たぶん、見ておいたほうがいい」


トレインとミリアは顔を見合わせ、広間の中心へ引き返した。左手の半壊階段の前で、セラとカイ、ジークが石床の一点を囲んでいる。そこへ近づく途中、トレインの靴が瓦礫の中へ半歩ほど沈み、ざり、と何かを砕く感触が伝わった。


見下ろすと、石の破片の上にうっすらと泥がついていた。


乾いた灰色の世界に、その泥だけがまだ少し湿り気を残している。


「……これ……靴跡?」


トレインがそう言うと、ジークがすぐにしゃがみ込み、太い指で縁の形を確かめた。


「靴底の形が残ってる。人のもんだな」


彼は床へ頬を近づけるようにして、泥の深さと乾き方を見た。


「乾ききってない。半日……いや、それより少し前ぐらいか」


一気に、空気が張りつめた。


「誰かが、先にここに入ってる……」


セラがすぐに魔力探知機を起動する。淡い光の輪が足跡の周囲へ広がり、床の石と泥の層をなぞるように波打った。ところが、その光は半径わずか数歩分ほどで滲み、先へ進むほど濃い霧へ押し返されるみたいに散ってしまう。


「……ダメ。魔導反応が飽和してる」


彼女は短く息を吐いた。


「この空間、情報を遮断してる。まるで“意図的に”」


「偶然、じゃないな」


カイがそう言いながら、肩から細い弦楽器に似た補助装置を外す。普段の気だるげな手つきとは違い、その動作にははっきりした備えの意思があった。音ではなく振動で空間の歪みを測るための道具なのだろう。彼はその弦を軽く弾き、返ってくる微かな震えへ耳を澄ませる。


トレインは、扉の先へ目を向けた。


暗がりの奥、ひとつだけ開いた石の扉がある。


風もないのに、ほんのわずか、ゆらりと揺れたように見えた。実際に動いたのか、それともこの塔の中で距離と影が歪んで見えただけなのか、確証はない。けれどその扉だけが“こちらへ向けて開かれている”という感覚は、誰の目にも明らかだった。


「……行ってみるか」


ジークが剣の柄に手をかける。


誰も、それを止めようとはしなかった。


滅びた塔の名も知らず、ここがどこなのかも、何の記録にも残っていない。にもかかわらず、五人はたしかに“誰かが今もいる”気配を、空気のざわめきの中へ感じ取っていた。それは人の体温とも、魔獣の気配とも違う。もっと曖昧で、けれど無視できない存在感だった。







風のない、空の廃墟。


塔の入り口は、大理石の半壊したアーチで形作られていた。その崩れかけた輪郭は、トレインの目にどこか祈りの手のように映った。迎えるでも、拒むでもなく、ただそこに在る。人の祈りが石になったとしたら、たぶんこんな形になるのではないかと思わせる静かな歪みだった。


「……入るか」


ジークの低い声へ、誰も返事をしなかった。


返事をしないのはためらっているからではない。言葉を発することそのものが、この場の均衡を崩すような気がしたからだ。音を立てると、目に見えない何かがこちらへ気づいてしまう。そんな理屈にならない感覚が、全員の喉を自然と閉ざしていた。


トレインが最初に足を踏み入れる。


靴底が石を踏み、わずかに乾いた音が静寂の空間へ広がっていく。広がったはずの音はすぐに壁へ吸われ、もう自分の耳へ返ってこない。音が死ぬ場所だと、彼は思った。


塔の内壁は白亜の名残をかすかに残しながら、長い年月に浸食されて柔らかな灰色へ染まっていた。風紋と呼ばれる装飾も、ほとんど読めぬほど薄れている。削れた痕跡の間には風で磨かれた滑らかさと、火に炙られた焦げのようなざらつきが同居していた。


「……風の、神殿……だった?」


ミリアがつぶやく。


けれど、誰も確信を持って頷けなかった。神殿であるなら、祈りの気配がもっと正面から立ち上がってくるはずだ。ここにあるのは祈りというより、何かを残し、隠し、閉ざしたあとの痕跡に近い。


塔の中央広間は円形で、天井の一部が抜け落ちていた。そこから空の色がぼんやりと差し込んでいる。ところが、その光は真っ直ぐではない。上から届くはずの輝きがどこかでねじれ、床にはゆらめくような影だけを落としていた。


「……空が、曲がってる……」


セラの声には、かすかな震えがあった。


塔の内部空間は、何かがおかしかった。深く息を吸い込むと、空気がほんの少し遅れて胸へ届くような奇妙な感覚がある。時間の流れが薄い層になって幾重にも揺れ、それぞれがわずかに違う速度で動いているみたいだった。普通の建造物の内部ではありえない歪みである。


中央には、記録石板があった。


それは無色の石へ封じられたような装置で、魔力を失って久しいはずなのに、なおかすかに脈動している。石というより、透明度を失った結晶の塊に近い。表面には細い裂け目が走り、内部のどこかで淡い光が消えかけては戻る。死んだと思われていた臓器が、まだ微量の電流だけで動いているような、そんな不穏な生命感があった。


「これは……何のためのもの?」


カイが手を伸ばしかける。


その瞬間、セラがわずかに腕を出して止めた。


「まだ……わからない。言葉で動くかもしれない」


彼女は石板の表面を見つめながら続ける。


「風の封印機構なら、“聞く”可能性がある」


聞く、という表現がこの場では妙にしっくりきた。触れた者を識別するのではなく、発せられる言葉や気配を拾い、それに応じて反応する型なのかもしれない。記録を扱う場所なら、なおさらあり得る。


トレインはぐるりと部屋を見渡す。


壁には、破れた布の名残がある。書や石板を吊っていたのだろう金属フレームの骨組みも見える。割れたガラス。砕けた封印石。長い年月のあいだに朽ちたものだけではなく、意図的に壊されたものがそこかしこへ残っている。


けれど、何よりも――“空気”が、そこに記憶を漂わせていた。


誰かが長くここにいた。そこへ蓄積した日々や言葉や息遣いが、形を失ったまま空気の密度へ残っている。五人はその存在しないはずの気配へ囲まれていた。


「誰かがいた。ここに、長いあいだ……誰かがいた気配がする」


トレインは知らず知らずのうちに、そう口にしていた。


ジークが部屋の隅へ目を凝らし、指を差す。


「……足跡。泥がまだ乾ききってねえ」


近づいてみれば、それは確かに人のものだった。


形。深さ。残る圧。靴底の縁がわずかに欠けた跡まで、くっきり残っている。半日ほど前に誰かがそこを歩いたと判断できるだけの生々しさだった。古代の塔だと思っていた空間に、つい最近の痕跡がある。その事実だけで、塔の意味が根本から変わってくる。


「先客が、いる」


そのひと言で、空気が冷たく変わった。


誰もが、塔そのものが放つ“記憶の匂い”へ囚われながらも、その奥――崩れた階段のさらに向こうへ目を向ける。そこには薄暗い扉がひとつ、誰かに開かれたまま口を開けていた。


風は吹かない。


けれど、誰かの残した気配が、たしかにそこにはあった。



開かれた扉を抜けた先で、塔の構造は思いもよらぬ広がりを見せた。


石造の回廊はほどなく終わる。その先には――闇の底まで続く巨大な洞窟が、静かに口を開けていた。


「……これは……塔の中、じゃない……」


ミリアが言葉を失いながら立ち止まる。


セラが光源を高く掲げ、慎重に前方を照らした。青白い光は空間のごく一部しか届かず、その限られた照射範囲の外側には、何もかもを呑み込むような深い闇が広がっている。


「いや、もしかすると……これも含めて“塔”なのかも」


彼女の呟きは、推測というより、自分自身へ言い聞かせるようだった。


足元は幅の広い回廊になっている。左右には古びた導灯が等間隔に並び、ごく微弱な青白い光を放っていた。完全に死んではいない。だが、正常にも動いていない。かつて与えられた役目だけを惰性で続けているような明滅だった。その先に続く大空洞は、まるで世界の裏側に迷い込んだような広がりを持っている。天井は遥か上空に霞み、壁面には何かを封じるために刻まれたと思しき文様が、途切れ途切れに残されていた。


「音が……響かない」


トレインの声はたしかに発されたはずなのに、反響しなかった。


声が洞窟の闇へ沈み、そのまま戻ってこない。空気が吸い込んでいるのだ。まるで、この空間そのものが“言葉を食べる”ために存在しているようだった。


「風も……止まってる。でも、どこかで……流れてる気がする」


カイが首をかしげる。彼の耳には、普通なら聞こえないほど遠い流れの残響まで届いているのかもしれない。


広大な空間のあちこちに、崩れかけた橋や、せり出した石の小径、洞の中へ潜っていく脇道がいくつも見えた。そのすべてが、“導いてくる”。進むべき道を示しているようでいて、同時に“記憶の迷路”のようでもある。一本の正解へ収束する構造ではない。迷うこと自体が前提に組み込まれているような広がりだった。


「この構造……意図的だ」


セラが光源を掲げたまま言う。


「ただの崩落じゃない。視覚、聴覚、重力……空間認識そのものを“狂わせるため”に作られてる」


彼女の声を聞きながら、トレインは自分の足裏に意識を向けた。確かに、踏みしめている床の感触が地上の石と少し違う。石でありながら、奥にかすかな反発がある。重力が完全に一定ではない。


空間の奥深くでは、かすかに光がまたたいていた。


古い星が闇の中で呼吸するように、断続的な灯火が点在している。それらは近づけば意味を持つのか、遠目のままではただの錯覚なのか、まだ分からない。


「行こう。気を張って」


ジークの声が低く響く。


五人は、石の通路をゆっくり進み始めた。


床の一部は浮遊石で構成されていた。踏むたび、かすかに押し返されるような感触がある。ヴェントゥス大陸特有の風晶石とも違う、もっと古い素材だ。軽いのではなく、“重さの決まり方”が違う。地表に固定された物質というより、多層化された空域の一層を石へ封じたような足場だった。


「……重力が……少し、違う」


ミリアが試すように一歩踏み込むと、その足がふわりとわずかに浮いた。飛ぶほどではない。けれど、確実に地上の重さではない。


「この空間そのものが、地表じゃないんだ」


セラが端末を見ながら言う。


「多層化された空域に……塔の下部が沈み込んでる可能性もある」


塔の“下”ではなく、“別の層”へ食い込んでいる。そう考えたほうがしっくりくる広がりだった。


「方向感覚が通じない。ここでは、自分の歩幅だけが信じられるものだ」


ミリアのその一言は、探索というより生存のための指示だった。


静けさの中、五人の足音だけが続く。


壁に沿って歩くたび、かつて使われていたであろう部屋や設備の骨格が現れては消える。大図書室のような空間。封印のために閉ざされた石扉の跡。誰かが祈るために残した半壊した石像。何もかもが中途半端に壊れ、中途半端に残されている。だからこそ、余計に想像を誘う。


「これは……記録院……?」


ミリアの呟きへ、誰も答えられなかった。


なぜなら、それは“記録されていない記録”だったからだ。


塔の奥底、記録者たちの最後の砦。忘れられた言葉が、今も空間のどこかに浮遊している。そんな気配がある。ここは単なる地下施設でも、封印庫でもない。誰かが何かを記し、それを守ろうとし、それでも奪われた場所だ。


五人は、その中心へ向かっていく。


沈黙の中、空気の密度だけが少しずつ重くなっていった。


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