佐藤結渚の場合 その1
繋人だ。
あたしの目の前に、繋人がいる。
あたしの、弟。
たった一人の、弟。
誰よりも大切な、弟。
繋人という名前の由来は、あたしと似ている。
砂や小石が集まる、渚。
その渚のような人が集まるところを結ぶ人間になって欲しいという願いが、あたしの名前にはこめられている。
人と人とを繋ぐような人間になって欲しいとの想いがこめられた繋人という名前も、それに近いと思う。
その繋人が、あたしの目の前で泣いている。
大粒の涙をこぼしている。
繋人に、若い男が近づく。
あたしが会ったこともない男。
あたしが新聞でしか見たことのない男。
その男が繋人に近づいて、泣いている繋人を蹴り飛ばす。
繋人の身体が跳ねて、床に崩れ落ちる。
繋人が、さっきよりも大きな声で泣く。
痛くて。
怖くて。
男が繋人のお腹を踏みつける。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………。
涙の混じった声で、繋人はその言葉を繰り返す。
何度も、何度も。
まるで、その言葉しか知らないかのように。
「……やめ……て……」
泣かないで。
謝らないで。
繋人は何も悪くない。
だから。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………。
涙の混じった声で、繋人はその言葉を繰り返す。
何度も、何度も。
まるで、その言葉以外、口に出してはいけないかのように。
男は繋人のお腹を踏みつけたまま、繋人にティッシュの箱を投げつける。
拭け。
男は繋人に向かって怒鳴る。
繋人は男にお腹を踏みつけられたまま震える手でティッシュをつかみ、涙を拭く。
誰にも拭いてもらえない涙を、自分で拭く。
拭いても拭いても、繋人の目からは涙が溢れ出す。
涙が溢れるたびに、新しい涙を、自分で拭く。
汚い、床も拭け。
男は繋人に向かって怒鳴る。
繋人は床にこぼれた自分の涙を、自分で拭く。
誰にも拭いてもらえない涙を、自分で拭く。
たった四歳の子どもが、こぼれた涙を、自分で拭く。
「やめ……て……」
苦しめないで。
辛い想いをさせないで。
あたしは繋人に手を伸ばそうとするけれど、身体が動かない。
そう。
分かってる。
いつだってそうだ。
いつだってあたしの手は、繋人に届かない。
いつだってあたしは、繋人の涙を拭くことすらできない。
若い男の向こうに、お母さんの背中が見える。
繋人に背中を向けたまま、繋人を見ようともしないお母さん。
母親であることよりも、女であることを選んだお母さん。
繋人の泣き声は、あの人には、届かない。
誰からも助けてもらえない繋人は、蹴られて、踏まれて、涙を流す。
流した涙を、自分で拭く。
誰にも拭いてもらえない涙を、自分で。
床にこぼれた涙を、自分で。
たった、四歳の子どもが、自分で。
「やめて……!」
二年前、あたしが小学校五年生だったとき、両親が離婚した。
あたしは家に残ってお父さんと暮らす。
繋人はお母さんと一緒に家を出て行く。
どうしてかは分からないけれど、そういうことになった。
その時は考えもしなかったけれど、もしかするとあたしのお父さんと繋人のお父さんは違う人だったのかもしれない。
だけど、今となってはそれを確かめる術はないし、確かめる必要もない。
繋人があたしの弟であることに、変わりはないのだから。
あたしは両親が離婚するのは予想していたし、覚悟もしていた。
両親の仲は良好とは言いがたかったから。
あたしは、お父さんが誰かに頭を下げているところしか見たことがない。
お父さんは小さな糸工場をやっていた。
あたしはその工場で遊んで育った。
糸工場の匂いが好きで、本を読むときも工場で読んだ。
今はもう、工場に足を踏み入れることもない。
あたしにとってその場所は、もはや想い出の場所ではなくて、あたしを苦しめる鎖にしか見えないから。
お父さんは、工場に来る人に頭を下げ、電話越しに頭を下げ、怒鳴られて頭を下げ、文句を言われて頭を下げ、何かをお願いするために頭を下げ、世界中の人に頭を下げているようだった。
お父さんとお母さんは、よく喧嘩をしていた。
たまに仲良くしているように見えることもあったけれど、喧嘩をしている方が圧倒的に多かった。
家族で旅行に行ったり、休みの日に家族でそろってお出かけしたりした記憶は、あたしには、ない。
学校の友だちから、夏休みに海に行ったとか、休みの日に遊園地に行ったとかいう話を聞いて、うらやましいと思っていた。
友だちをうらやましいと思っていたのは、それだけじゃない。
テレビでやっている魔法少女のアニメのキャラクターの文房具とか、ふりふりの付いたかわいい服とか。
そういうものにまったく縁のなかったあたしは、友だちの持っているものや着ているものでさえもうらやましいと思っていた。
あたしが小学校一年生のときに、弟ができた。
弟ができるのは嬉しかったし、生まれる前から本当に楽しみだった。
「子はかすがい」という言葉がある。
あたしはかすがいにはなれていないようだったけれど、弟がかすがいになるかもしれないとも思った。
生まれてきた弟は繋人と名付けられた。
あたしは、本当に弟がかわいかった。
友だちと遊ぶよりも、繋人と遊んでいる方が楽しかった。
友だちと一緒にいると、どこかで引け目を感じてしまっていたからかもしれない。
友だちはみんな、あたしにないものばかりを持っていたから。
お母さんは夜に家にいないことも多かったから、そんな時は繋人の面倒はあたしがみた。
オムツを替えて、ミルクを飲ませて、お風呂に入れて、ご飯を作って、食べさせて。
家の中でも外でも、あたしが行くところに繋人は付いてきた。
知らない人がいると、あたしにぴったりくっついて離れなかった。
だから、その繋人と離れなければならなくなって、あたしはすごくショックだった。
毎月一回、第一日曜日に、繋人はあたしの家に来た。
それが離婚の条件だったらしい。
朝、繋人はお母さんに連れられてあたしの家まで来る。
繋人のお気に入りの黄色のリュックサックを背負って。
その日一日、繋人は、あたしとお父さんと、三人で過ごす。
といっても、お父さんは日曜日でも工場で仕事をしたり、仕事の都合で外へ行ったりすることも多かったので、あたしと繋人の二人で過ごすことの方が多かった。
繋人はいつも、『はらぺこあおむし』の絵本を読んでと言った。
あたしは、毎月その絵本を読んだ。
声に出して。
繋人と二人で。
そんなある日、いつものように繋人が家に来て、一日あたしと過ごして、お母さんが迎えに来る時間が近づいたころ、突然繋人が、家に帰るのが嫌だと言い出した。
お姉ちゃんと一緒がいいと言った。
そう言ってくれたのは嬉しかったけれど、繋人を帰さないわけにもいかなかった。
お母さんが迎えに来るまで、繋人はずっと駄々をこねていた。
あまりにも駄々をこねたので、その時珍しく、あたしは繋人を叱った。
毎月一回、繋人が家に来るのがなくなってしまうかもしれないと思ったから。
月に一回しか会えないのに、取り上げられたくなかったから。
だから。
お姉ちゃんを困らせないで。
わがまま言ってお母さんを困らせたらダメだよ。
毎日いい子にしてること。
そしたら、来月また会えるから。
そう言ってあたしは、お母さんに手を引かれて帰っていく、繋人の小さな背中を見送った。
それが、あたしが繋人を見た、最後になった。
また会えるはずの来月は、二度と、来なかった。
繋人が死んだ。
その話をお父さんから聞かされたとき、何を言われているのか分からなかった。
いつも元気で、あたしにくっついてきた繋人が死んだだなんて突然言われても、その言葉はあたしの中に入ってこなかった。
繋人はお母さんの新しい恋人に虐待を受けて殺されたと聞いた。
そんなことが、現実に、よりによって繋人に起こったなんてことが、信じられるはずもなかった。
お葬式のときに変わり果てた繋人の姿を見ても、繋人がこの世からいなくなってしまったという実感がわかなかった。
涙も出なかった。
目の前で起こっていることに、現実感がなかった。
だから、その次の第一日曜日の朝、あたしはいつものように繋人を待っていた。
当たり前だけれど、いつも来るはずの時間になっても繋人は来なかった。
自分の部屋で、繋人がいつもあたしに読んでとねだった、『はらぺこあおむし』の絵本を開いた。
いつものように、声に出して読んだ。
その時、初めて実感した。
この絵本を、読んで聞かせる相手は、もう、いない。
涙が、こぼれた。
泣きながら絵本を、最後まで読んだ。
いつもなら繋人と二人で読む絵本を、一人っきりで。
繋人が死んでから、あたしは、初めて、泣いた。
どうして繋人は死ななければいけなかったんだろう。
誰が繋人を殺したんだろう。
誰が繋人から、生きる権利を奪ったんだろう。
悲しくて。
悔しくて。
辛くて。
たった四歳で、小学校に入ることすらできずに。
楽しいことだって、これからいっぱいあったかもしれないのに。
わずか四年間の人生だなんて、何のために繋人は生まれてきたんだろう。
繋人は殺されるために生まれてきたのだろうか。
辛くて悲しい毎日を送るためだけに生まれてきたのだろうか。
繋人が死んでから、新聞に繋人の記事が載ることが何度かあった。
繋人が普段からどんな虐待を受けていたのか。
お母さんが繋人を助けようとしなかったこと。
繋人が保育園で、お母さんが一緒に寝てくれないと先生に言っていたこと。
ご飯を一人で食べなくちゃいけないとか、お風呂に一人で入らなくちゃいけないとか言っていたこと。
先生に、お母さんが自分を抱っこしてくれるようにお願いして欲しいと頼んでいたこと。
あたしは、その記事を切り抜いて集めた。
新聞に書かれていたのは、繋人にとって辛いだけの記憶。
苦しいだけの記憶。
悲しいだけの記憶。
それでも。
こんなものくらいしか、繋人が生きていた証が残せそうになかった。
繋人が確かに存在していたことを証明する手段が、他になかった。
だから。
あたしは、新聞記事を切り抜いて集めた。
新聞記事を読む度に思った。
どうしてあたしは、虐待に気付いてやれなかったんだろう。
どうしてあたしは、繋人を守ってやれなかったんだろう。
どうして繋人は死ななければいけなかったんだろう。
誰が繋人を殺したんだろう。
誰が繋人から生きる権利を奪ったんだろう。
あたしが気付いていれば。
あたしが守っていれば。
繋人が死んでから少したって、警察が家に来た。
繋人のことを聞かれた。
毎月家に来ていたときの繋人の様子。
最後に会ったときに変わったことはなかったか。
あたしは、珍しく繋人が家に帰るのを嫌がっていましたと答えた。
警察の人に、繋人が家出しようとしていなかったか聞かれた。
心当たりがなかったので、繋人はそんなことは言っていませんでしたと答えた。
どうして警察がそんなことをあたしに聞いたのかは、しばらくたってから新聞を読んで分かった。
新聞記事によると、繋人は家出をしようとしていたらしい。
最寄り駅で、いつものお気に入りの黄色いリュックサックを背負って、駅の中を一人でうろうろしているところを、通りかかったおばさんに声をかけられた。
「お姉ちゃんの家に行きたい」
繋人はそう答えたそうだ。
まだ四歳の繋人が、一人で電車に乗れるはずもないのに。
あたしの家の場所だって分からないのに。
一人で来られるはずもないのに。
おばさんに聞かれても繋人に答えられたのは、自分の名前とお母さんの名前、そして、あたしの名前だけ。
自分の住所も電話番号も言えない。
おばさんは駅員室に繋人を連れて行った。
駅員さんが繋人を保護したけど、住所も電話番号も言えないから、お母さんと連絡がとれない。
困った駅員さんは、繋人のリュックサックの中を見た。
何か手がかりになるものが入っていないかを調べるために。
リュックサックの中には、連絡先を示すものも、お金も入っていなかった。
入っていたのは、下着が二つと、ハンカチが三枚。
そして、大量のポケットティッシュ。
「どうしてこんなにポケットティッシュが入っているの?」
駅員さんに聞かれて、繋人は答えた。
「泣いた時に、自分で涙を拭かなくちゃいけないから」
その後、繋人がいなくなったことに気付いて捜しにきたお母さんに発見され、繋人はお母さんと一緒に駅員室から家に帰った。
殴られて、蹴られて、踏まれて、誰も助けてくれなくて、誰も守ってくれなくて、家出したいと思った家に。
誰も、涙を、拭いてくれない家に。
その二日後。
繋人の、たった、四年の、命は。
終わった。
新聞を読んで、あたしは愕然とした。
今まで新聞記事を集めていたから、繋人の事件について、多少は知っていた。
けれど。
繋人が家出をしようとしていたなんて、初めて知った。
たった四歳の子どもが、家出をする。
家にいるのが辛くて、怖くて、家出をする。
外に行くときも、あたしにぴったりくっついてきた繋人が、たった一人で。
あたしの家の場所なんて知らないのに、あたしの家に行こうとして。
乗り方も分からない電車に乗ろうとして。
お金ももたずに。
下着とハンカチと、ポケットティッシュだけを持って。
繋人はどんな気持ちで、家出をしようとしたんだろう。
どんな気持ちで、リュックサックを背負って家を出たんだろう。
どんな気持ちで、リュックサックに荷物を詰め込んだんだろう。
どんな気持ちで、ポケットティッシュを詰め込んだんだろう。
自分の涙を拭くための、ポケットティッシュを。
誰にも拭いてもらえない涙を拭くための、ポケットティッシュを。
床にこぼれた涙を拭くための、ポケットティッシュを。
たった四歳の子どもが。
まだ小学校にすら行っていない子どもが。
涙が、止まらなかった。
悲しくて。
悔しくて。
辛くて。
涙が、止まらなかった。
けれど、その新聞記事を読んで、はっきり分かったことがあった。
誰が繋人を殺したのか。
誰が繋人から生きる権利を奪ったのか。
あたしだ。
繋人が帰りたくないと言っていたのに、帰してしまったのは、あたしだ。
繋人を抱きしめることすらせず、帰してしまったのは、あたしだ。
繋人の気持ちに気付くことができずに帰してしまったのは、あたしだ。
繋人が家出をしたとき、向かっていたのは、あたしのところだ。
繋人が最後に頼ったのは、あたしだ。
最後にすがったのは、あたしだ。
繋人を助けられたのは、守れたのは、あたししかいなかった。
あたし以外、いなかったんだ。
あたしじゃなきゃダメだったんだ。
それなのに、繋人を助けられなかったのも、守れなかったのも、あたしだ。
ごめんね、ごめんね、ごめんね。
助けられなくて、ごめんね。
守ってあげられなくて、ごめんね。
こんなお姉ちゃんで、ごめんね。
ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね…………。
泣いても。
謝っても。
悔やんでも。
繋人が迎えるはずだった来月は、やってこない。
どれだけ望んでも。
どれだけ願っても。
どれだけ祈っても。
もう、二度と。




