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佐藤結渚の場合 その2

 毎日考えた。

 どうしてあたしは繋人を助けることができなかったのか。

 分かりきってる。

 自分が弱いからだ。

 どうして自分は弱いのか。

 その前に、強いってどういうことなのか。

 喧嘩が強いとか、そういうことじゃない。

 喧嘩が強くても、繋人を守ることなんてできなかった。


 どうすれば繋人を守ることができたのか。

 簡単だ。

 お金があればいい。

 お金があれば、あたしはきっと、繋人を引き取ることができたはずだ。

 お金があれば、繋人はあたしと一緒に暮らせたはずなんだ。

 お金があれば、お父さんはみんなに頭を下げ続ける必要もなくなるはずだ。

 お金があれば、お父さんとお母さんも離婚しなくてすんだのかもしれない。


 毎月、月末になると、家の電話がひっきりなしに鳴る。

 鈴木ですけど、お父さんいますか。

 田中ですけど、お父さんいますか。

 山田ですけど、お父さんいますか。

 どちらの鈴木さんですか。

 どちらの田中さんですか。

 どちらの山田さんですか。

 電話の相手は必ず、個人ですと答える。

 月末になると、たくさんの郵便物がお父さん宛に届く。

 差出人の住所は書かれていても、差出人の名義が書かれていることはない。

 その電話や郵便物が何を意味するのか、いくらなんでも、あたしにだって分かる。


 あたしには、お金がいる。

 繋人を守るためのお金が。

 繋人を助けるためのお金が。

 幸せになりたいとか、お金持ちになりたいとか、そんな大それたことなんて考えていない。

 大切な人を守れるだけのお金が欲しい。

 繋人が死ななくてすむだけのお金が欲しい。


 いくらあればいいのか。

 図書館で調べた。

 本を読んで、雑誌を読んで、新聞を読んで。

 言葉の意味が分からなくて、漢字が読めなくて、国語辞典と漢字辞典で調べても、意味が分からなくて。

 それでも、毎日読んで毎日調べていたら、少しずつ分かるようになってくる。

 30代の家計の毎月の支出は、平均32万円くらい。

 一年で380万円くらいになる。

 大卒の生涯年収は、およそ三億円に満たないくらい。

 大学を卒業していないと、生涯年収はもっと下がる。

 大手の会社じゃなくて、小さい会社に行っても、生涯年収は下がる。

 正社員になれないと、さらに生涯年収は下がる。

 大学を出て、大きい会社に正社員として就職できれば、普通以上の生活は送ることができそうだった。


 普通の生活が送れれば、きっと、繋人は死ななくてすんだんだ。

 特別な才能のない人間は、社会に組み込まれるしかない。

 お金が欲しいのなら、小さい会社よりも大きい会社に行った方がいい。

 大きい会社に行きたいのであれば、少しでもいい大学に行った方がいい。

 その学歴社会の考え方を、あたしは否定しない。

 海外の大学は知らないけれど、日本の場合、一部のトップ校を除けば、天才じゃなくても勉強さえすれば、ほとんどの大学に入れる。

 あたしみたいな貧乏人でも、勉強さえすればいい大学に行ける。

 そこから大きい会社に入って、普通以上の生活を送ることができる。

 家が貧乏でも、大切な人を守れないような家庭でも、それでも、日本の学歴社会は、あたしにチャンスを与えてくれる。

 考えてみれば、当たり前の話だ。

 勉強さえすれば大学に受かるのにその勉強すらしなかった人間と、目標を持ってこつこつと勉強してきた人間。

 遊んでいただけの人間と、努力を積み重ねてきた人間。

 その両者が平等に扱われることのほうが不公平だ。

 学歴は努力の証だ。

 自分が努力できることを証明するための手段だ。

 だからあたしは、学歴社会を否定しない。

 学歴の結果、手に入れることのできるチャンスを否定しない。


 けれど、そこで気付く。

 あたしは学歴を手に入れることができるのだろうか。

 あたしは大学に行くことができるのだろうか。

 勉強したところで、お金がなくて大学に入れないかもしれない。

 大学の学費は、国公立なら入学金が30万円くらい、授業料が60万円くらい。

 それに加えて、試験を受けるためのお金もいる。

 しかも、少しでもいい大学に行こうとしたら、家を出て一人暮らしをしなければならない。

 家から通える範囲にある大学よりも、都心にある大学の方が社会の評価が高いから。

 一人暮らしをする場合、引越し代、家賃、敷金、礼金、家具、家電とかで、40万~50万円くらいかかるらしい。

 大学を受験して入学するだけで、150万円近くはかかりそうだった。


 高校生になってからバイトをして、卒業までに150万円も貯められるだろうか。

 あたしの誕生日は2月だ。

 バイトができる16歳になるころには、高校一年生が終わってしまう。

 駅前のコンビニに貼ってあるバイト募集の張り紙は、時給800円。

 150万円貯めるのに、1875時間バイトしなくちゃいけない。

 学校が終わってから一日4時間バイトするとして、1日あたり3200円。

 一ヶ月で20日バイトすれば、64000円。

 一年で768000円。

 税金とかでいろいろと減りそうだけれど、土日祝日は時間を増やして、二年生と三年生の二年間をバイトに費やせば、150万円に届くかもしれない。

 けれど、当たり前だけれど、バイトをすればするほど勉強時間は減っていく。

 バイトに時間をとられて受験勉強ができず、大学に受からないとすれば、何のためにバイトをするのかが分からない。


 大学に入れたとしたらどうだろう。

 一人暮らしの場合、毎月の支出が家賃を含めて10万円くらいかかってしまうらしい。

 バイトと奨学金で何とかなるかもしれないけれど、やはり大学に行ってもバイトばかりすることになりそうだった。

 学校の寮とかに住めれば引越し代とか家具・家電のお金とかはあまりかからなそうだから、入学にかかるお金を抑えることができそうだし、生活費も安くすみそうだけれど、それでも毎月6万円くらいはかかるらしい。

 しかも、生活費とは別に、授業料は卒業までの四年間で240万円くらいかかる。

 最初の一年は入学時に支払うので、残りは180万円。

 バイトをして、一年で授業料の60万円を貯めなければいけない。

 生活費とは別に、一ヶ月当たり5万円を貯金に回す。

 他の大学生たちが部活やサークルで青春を謳歌するなか、あたしは大学とバイトを往復する。

 就職活動の面接で大学時代に打ち込んだものを聞かれても、バイトですとしか答えられない。

 コミュニケーション能力とかいうよく分からないものは、それで評価されるのだろうか。

 就職活動の結果、内定がもらえずに自殺を選んだ大学生の数が1000人を越えたというニュースを見た。

 高いお金を払って大学に行っても、卒業してから行くところがなくて奨学金という名の借金を背負うことになるだけなら、行かない方がマシなのかもしれない。

 けれど、大学に行くのと行かないのとでは生涯年収があまりにも違うし、高卒で就職できるとも限らない。

 となると、結局大学に行く方が安全のように思える。


 ただそれもすべて、大学に行ければの話。

 大学に行くために受験勉強をしようと思ったら、予備校や教材にもお金がかかる。

 お金がないと受験勉強で遅れをとる。


 馬鹿げてる。


 お金が欲しくて大学に行こうと思っても、大学に行くのにこんなにお金がかかるなんて。

 高校を卒業して働いて、お金を貯めてから大学に通ったら?

 その場合、大学を卒業して就職活動するときに、新卒扱いしてもらえない会社もあるらしい。

 新卒が唯一のカードになっているこの社会で入れる会社がなくなるというのは、勉強するためじゃなくて、お金が目的で大学に行きたいと思っているあたしみたいな人間にとっては、デメリットでしかない。


 入学金、授業料、引越し代、生活費。

 その前に、受験勉強の教材にもお金がかかる。

 バイトしながら受験勉強をすると、勉強時間が減る。

 バイトをしてお金を貯めても、教材に消える。

 入学金や授業料は払えるのだろうか。

 家が貧乏だったら免除してもらえるのかもしれない。

 けれど、もしも大学での成績が悪かったら取消しになったりするのだろうか。

 大学に通うことができたとしても、勉強するよりもバイトをする時間の方が長くなるのは明白だ。

 それだと、いい成績がとれるとも思えない。

 一人暮らしではなく、家から通える範囲にある大学に行けば何とかなるかもしれないけれど、そうすると今度は大きい会社に入るのが難しくなる。


 馬鹿げてる。


 学歴を得るチャンスも大手の会社に入るチャンスも普通以上の生活を送ることのできるチャンスも広がっているというのに、チャンスをつかむために必要なお金が足りない。

 お金を手に入れるためにお金がいるなんて、戦争を終わらせるために戦争をするみたいなものだ。

 あたしは、スタートラインにすら立てない。

 普通の生活を送るための、スタートラインにすら立てない。

 スタートラインに立つためのお金が足りないから。


 お金の問題は、すぐには解決できそうになかった。

 あたしは、お金以外の問題を先に片付けることにした。

 現実問題として、学校や近所では、あたしの弟が虐待で殺されたという話が流れていた。

 好奇の目。

 同情の目。

 非難の目。

 陰口。

 悪口。

 ヒソヒソ話。

 さりげなさを装った、わざとらしい気遣い。

 優しさという、自分が加害者になることを避けるための技術。

 そういったものから自分を守るには、あたしはあまりにも弱すぎた。


 どうすればいいか。

 方法は一つしかなかった。

 強い人間に媚びることだ。

 虎の威を借る狐になればいい。

 学校の先生に媚びた。

 クラスの友だちに媚びた。

 上級生に媚びた。

 いつもニコニコして、笑顔を絶やさない。

 話し方が感じ悪くならないように、語尾は伸ばす。

 男にはボディタッチ。

 学校の男の先生には、二人きりになったときに膝の上に座る。

 陰であたしの悪口を言っている人間がいるのも知っていた。

 けれど、その人たちよりも権力を握っている人間に媚びるしか、あたしには方法がなかった。


 先生だからこんなこと相談するんです。

 誰にも言えない秘密なんだけれど、大切な友だちだから話すね。

 もったいぶって悩みを相談する。

 秘密を打ち明ける。

 二人きりのときには涙を見せる。

 あたしはあなたのことを心から信頼していますという態度をとる。

 他の人たちには嫌われたってかまわない。

 どうせ一生付き合うような人間じゃないから。

 権力を握っている人間に媚びて、その後ろ盾であたしに手が出せる人間をいなくする。

 まだ子どものあたしには、武器がなかった。

 だから、そうするしかなかった。


 どうしてあたしは子どもなんだろう。

 早く大人になりたいと思う。

 一人でも戦える大人に。

 一人で生活していける大人に。

 繋人を、守れるような、大人に。



 六年生になってしばらく経ったある日、あたしは部屋で一人で、服を脱いだ。

 あたしに何ができるだろう。

 あたしは何を持っているのだろう。

 それを確かめたくて、知りたくて、部屋で、服を全部脱いで、素っ裸で姿見の前に立ってみた。


 顔は自分でもかわいいと思う。

 けっこう自信がある。

 というより、今のあたしの武器は、これしかない。


 成績は、真ん中よりちょっといいくらい。

 けれど、それもこの前まで。

 塾に通ったり、参考書を買ったり通信教育をやったりするお金はないから、教科書を何度も何度も覚えるくらい読んで、学校で配られた問題集の問題をノートに写して何度も何度も解いて、図書館で子ども向けの小説や歴史の本を読んだり、算数や理科の本を読んだりして。

 そんなお金をかけない勉強でも、時間をかけているから、成績も上がってきている。

 大学に行けるかどうか分からないけれど、実際にお金の問題が何とかなって大学に行けるってなったときに勉強していなかったんじゃ話にならないから。


 身体は、どう見ても子ども。

 小学生じゃ無理もない。

 しかも、クラスでも一番背が小さいし。

 どうしてあたしは子どもなんだろう。

 大人だったら、お金を稼ぐ方法がいろいろあるのに。

 繋人を助けることができたのに。


 鏡に映る自分の姿を見て、思った。

 あたしには、何もない。

 あたしにあるのは、心と身体だけ。

 あとは、何もない。

 一番大切だった人は、もう、いない。

 あたしが助けられなかったから。

 あたしが守れなかったから。


 大切なものもない。

 大切な人もいない。

 あたしにあるのは、心と身体。

 ココロトカラダ。

 ただ、それだけ。

 タダ、ソレダケ。

 けれど、そこで気付いた。

 身体なら、ある。

 カラダナラ、アル。

 ダカラ、アタシハ――。

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