真相
昨日と打って変わり、大平原には人っ子一人いない。
ただ地平線のむこうが見渡せてしまうほど、延々と草々が茂っているだけだった。
夕焼けに照らされて、もと来た道をゆっくりと戻っていく二人。
両者とも、最後のときが刻一刻と近づいてことを覚悟していた。
だから一歩一歩、踏みしめるように進んだ。短い間だったが、積み重ねた思い出たちをたしかめるように。
出会い。
それは世間知らずな修道女が、その親切心から一人の浮浪者を助けたことから始まった。
はじまり。
それは浮浪者が、少女の悲しい境遇に気づき、なかば使命感に揺り動かされる形からであった。
危機。
山では、堕ちた隣人たちに襲撃された。
思い出。
なんでもない山頂の風景だったかもしれないが、それは格別だった。ジハンにとって、ひさしぶりの心にいつまでも留めておきたい映像で、かけがえのない時間だった。
限界。
少女の身体は疲弊していた。彼女を助けることにもはや抵抗はなかった。そこでジハンは人肌のぬくもりを思い出した。
挫折。
目的は果たされず、聖地はその門を永久に閉じた。
だが、ジハンは忘れることなどできない男と、思わぬ再会を果たした。
すべてはほんの二、三日のわずかな間に起きた出来事に過ぎないが、ジハンはそれを永久に忘れることはないだろうと確信した。
そしてキーシャも同じであると信じたい。
信じることができた。
サタの山が徐々にその威容を二人に見せつけ始めた。
妙な感慨深さがジハンを襲う。
不思議と、涙が溢れそうになった。
夕日に照らされる山は、こんなときでも変わらず美しかった。
山のふもとで適当な岩場を見つけて、二人は腰をおろす。
一息ついたところで、キーシャはゆっくりと切り出した。
「このあと、ここでなにが起こるのか。だいたいの予想はついていますがジハンさんの口から教えてください。ルードルフというかたと、あなたの間にいったいなにがあったのか」
「ああ、そうだな。このままだんまりではあまりにフェアじゃない。
ルードルフは今ではあんなに出世しやがったが。もともとは俺が生まれた村で神父をしていた男だ」
忌々しげに漏らす。ゆっくりとジハンの言葉にうなずくことによって、キーシャは無言で先をうながした。
「いつか話したことがあったと思うが、俺は当時はまあ熱心な信仰者だったわけだ。それが、ある一件で信仰を捨てることになった。バカバカしくなったと言ったほうが正しいか。規律の名のもとに、一人の少女の命を奪うことはどうしても許せなかった……」
「そしてあの方は、そのときの……」
「そうだ! あいつが、あの子の命を……。彼女はなにも悪いことなんてしていないのに……!」
言葉にすることによって、そのときの記憶がありありと眼下に浮かんだ。
ジハンは青筋を立てながら、今にも爆発しそうな怒りを必死に抑え込んだ。
このままじゃ、あいつと会ったときになにをしでかすかわからない。
じぶんでもじぶんが怖くなった。怒りに駆られて、暴力に頼ってしまいそうな弱いじぶんが情けなくなった。
救いを求めるようにキーシャを見る。すると彼女はゆっくりと彼のそばに歩み寄り、その右手で彼の頭をゆっくりとなでた。
「怒りに支配されてはいけません。そうなれば、あなたも門の前で武器を取る人たちと同じになります。あなたにはわかっているはず。それがどれだけ愚かなことであるのかが。目的は、決して手段を正当化することなどありません。暴力は暴力です。それに頼った瞬間、すべての高尚な理想やイデオロギーは雲散霧消するのです」
キーシャは「あなた」と言った。彼女が聖職者として、迷える子羊を導こうとしていることがジハンには理解できた。
そして彼女はジハンの頬を真綿で触るような手つきでなでて「大丈夫。あなたにはわかっているはずです」と繰り返した。
ジハンはキーシャの手を取り
「ありがとう」
としっかりとした口調で言った。
もはや、彼には怒りも恐れも迷いもなかった。
彼は決意した。ルードルフはなにを思って、少女を捕えたのか。そしてそれは少女の命を摘むための行動であったのか。
それを確かめたかった。どうこうなるわけでなくとも、ジハンの心の奥底に沈殿する虚無感を、わずかでも和らげることができると彼は信じていた。
真実がなんであったとしても、ジハンは決して怒りに身体をたくすことはしない。それが、キーシャの約束だったから。キーシャは彼を信じてくれたから。
ジハンはずっと考えていた。彼の胸に沈殿するこの感情の正体を。
恋。
ではない。決してない。キーシャはまだ十四、五の少女である。
いくらなんでも一回り近く年下の娘をそういった対象として見ることはない。
では、なにか。
愛か。
家族や親密な関係を結ぶ人びととの間に生まれるような。
しかし、愛は家族という切っても切れない血のつながりを持つ相手か、もしくは恋の段階を超えたつがいに生まれる普遍的で不変の感情だ。
それもジハンとキーシャの間には当てはまらない。
人を思う言葉の少なさに、ジハンはついやきもきしてしまう。
だが、そもそも言語化する必要もないのかもしれない。
ジハンはキーシャを大切に思う。
それだけの事実が、すべての言葉のレトリックや詩的な表現を軽々と飛び越える。
そんな抽象的なイメージが脳裏を駆け抜ける。
青臭いことを考えるじぶんに失笑してしまう。
しかし同時にそんなことを思える素直さがじぶんに残っていたことに驚く。
いや、それはキーシャが見つけ出してくれた感情だろう。
なにから感謝すればいいのかわからない。
でも、この旅が無事終わればとりあえずキーシャに「ありがとう」と言おう。彼女が言ってしまう前に、もしくはそれを遮ってまで「ありがとう」と言おう。
ジハンは岩場から立ち上がった。そして全身を伸ばして大きなあくびをする。
「ふわああ」
能天気なその声は、誰もいない平原に響いていった。
こだまが聞こえた気がした。
すぐそばに山があるのだ。なんら不思議はない。
キーシャはそんな様子を眩しそうに眺める。
そしてお尻を少しずらして、岩場に座り直す。ジハンがどいて空いたスペースを埋める。
目を細めながら笑う彼女は、これまでで一番愛おしく思えた。
爽やかな風が、ジハンの胸中を通過する。
もう迷わない。
今日はつくづく臭い文句が浮かぶ日だと、ジハンはもう一度苦笑した。
馬蹄の音が聞こえる。
平原を軽快に駆けるその音は、二人の注意を引いた。
二人はときに言葉をかわし、ときに沈思黙考し、思い思いの時間を過ごしていた。
それを突然破る馬の鳴き声と、その足が停止する音。
馬上には、先ほど尊大な態度で入城を求める男たちを退けたルードルフその人。
「ひさびさだな。ジハンよ」
高い位置から繰り出される声は、ただでさえ居丈高なそれをさらに高圧的にさせる。
なめられないための演出。
そんなところだったのかもしれない。
交渉は、最初の十秒で趨勢が決すると言われる。彼が生けていくための処世術なのであろう。
しかし、ジハンはルードルフと取引をしようとここに来たわけではない。
ただ真実を知りたかっただけ。しかも、それは今となってはどうしようとも証明できるものではない。
一も二もなく、ジハン自身が納得するためだけだった。
「お久しぶりです。ルードルフさん」
自然と敬語になった。しかし、対照的にその目つきは油断なくルードルフを睨めつけていた。
「ああ。こんなところでお前に会うことになるとはな。運命の皮肉を感じるよ」
「俺もです。世界が終わるその前に、長年の疑問をあなたにぶつけることができるですからね」
「疑問? はてなにかな。おや、ちょっと待て。それを聞く前に」
そう言って、ルードルフは馬を降り手綱を近くの木に結ぶ。
そして、二人のほうへゆっくりと歩み寄ってきた。
それを眺めていて、はじめてジハンはルードルフが単身でやってきたことに気づいた。己の過去を知られると、まずいことでもあるのか。
邪推が頭に浮かぶ。
牛歩。
しかし、不思議とその歩調には威厳があった。
「そしてあなたはどちら様かな? 可愛いシスターさん」
微笑を浮かべて、柔和な口調で尋ねる。
しかし、依然としてその目つきは鋭い。間断なく二人の間に視線を動かす。
「ちょっとした事情でパスティンまでの道をジハンさんに案内していただいた者です。キーシャと申します」
「ほう。では、あなたも巡礼者か。先の一件は、すまんかったな」
ますます微笑を深めてルードルフはキーシャを気遣う。
目もとのしわが深くなり、彼の苦労がうかがい知れた。
「いえ。苦渋の選択だったのでしょう。理解しております」
少なからず落ち込んだはずキーシャであったが、それをおくびにも出さない。
やはりこの子は強い。
今さらながらジハンは再認識した。
「なるほど。お前がここまで来たのは彼女が理由か。ワシはてっきり――」
「復讐ですか?」
ルードルフが笑う。図星だったようだ。
「うむ。村ではいろいろあったからな。そこに住んでいた人びとの会うのもこれがはじめてじゃ」
「以前の俺なら、そういうことも考えたかもしれません。しかし、今は違います。さっきも言った通りたった一つの質問をあなたにぶつけたくて来ました」
「そうだったな。では、それをうかがうとしようか」
ルードルフがジハンを見上げるように視線を送る。
キーシャは二人のやり取りをただ静かに見つめるだけだった。
ジハンは、一つ深呼吸して居ずまいを正す。村での日々が脳裏をフラッシュバックする。
それは、彼の心を大きく乱したが、ジハンは決して心を捕えられることはなかった。
「ルードルフさん。あなたは……あなたは、なぜルカを死なせたのですか?」
ルカとは、以前キーシャに話した少女の名前。
ジハンが慕った少女の御名。
宝石のような目をキラキラと輝かせて、少年だったジハンの話を聞いてくれたあの子はもうこの世にいない。
ルードルフは、ジハンの問いをなかば予期していたのであろう。大きく取り乱すこともなく、答えた。
胸の奥で鳴るバリトンが響いた。
「ルカか……。あの子は特別だった。ほかの孤児たちと同じように、容易に神の教えには染まろうとせず、知性によってそれを解き明かそうとしていた。『なぜ』、『どうして』とうるさい子だったよ」
ルードルフは昔を思い出すような表情を浮かべながら語った。
ありし日の光景は、彼にとって美しい村々の絵となっていたのか。
はたまた思い出すことも苦しいような、過去の汚点になっていたのか。
それとも、どっちつかずのほろ苦いものとなっていたのか。
ジハンにはわからなかったが、少なくとも彼にとって村とは規律と因習に縛られ続ける愚かな場所としか思えなかった。
「神の教えに染まらなかったから、彼女は牢に送り込まれたと……」
「その言いかたは正確ではないな。彼女を犯してはならない規律を破ったのだ。それを見逃すことは、聖職者としてそして村の有力者としてできなかった」
教会や、聖職者は各町村で絶大な権力を握る。宗教の代表者として機能するだけではなく、地域の行政を左右する存在となる。
そして権力の代表者が最も大事にするものが、面子や沽券である。それを汚されることは、彼らの力の源泉が土台から揺らぐことを示す。
だからルカは牢に繫がれることになった。
見せしめ。ほかに言いようなどなかった。
しかし、ジハンにはわからなかった。それまでも規律を順守することを拒否してきたルカが犯した許されざる大罪とは。
怖いものなしの彼女の命を奪った一件とは。
「ルカはいったい……なにをしたのです?」
「……異教の教えを、教会に持ち込んだのだ」
苦悶の表情。ルードルフにとっても、長く育ててきた少女はじぶんの子供のように感じられたはずだ。
楽な仕事だったはずがない。
「というと……?」
「あれはたしか、児童院で開催された勉強会でのことだった。児童院は知っているな。ルカのような孤児たちを引き取った教会が、彼女たちの教育をほどこすために建てた施設だ。そこで教えるのは、もちろん神の教えだけだったのだがな。そこに彼女は異教の聖典を持ち込んだ」
苦笑気味に笑い、一度言葉を切るルードルフ。
キーシャはそこで口を開き、
「彼女は神聖なる場所に異教の教えを、唾棄するものたちの魂を持ち込んだ」
と言った。そしてさらに不思議そうに続けた。
「しかし、彼女はいったいどうやってそんなものを手に入れたのでしょう。異教は、前文明にとっくに失われたはず……」
「今となっては、誰にもわからない。しかし、ワシは愕然としたよ。彼女のあまりの聡明さにね」
「どういうことです?」
キーシャが尋ねる。
「彼女は異教、それもただの異教ではなかった。まったく新しい異教だった。過去にあった教えを新しいというのは、矛盾する表現だがね、そう言い現わすしかできない代物だった。そして彼女はその名前もわからぬ神の教え、その聖典であるコーランとやらを手に入れてしまった。我々の教えでは前文明に存在した宗教は、キリストとユダヤ教のみであった。そして児童院では私たちはそう教育した。もちろん地区の学校でも同じように教えられていたはずだ。しかし、彼女はそれが誤っていることに気づいてしまった。しかも、彼女はワシのもとへ来て、そのコーランとやらを差し出しながら『なんだか似てるね』と言った」
「……似ている、というと?」
「私たちの神の教えにだよ。ワシは怖くなった。この書の存在が明るみに出ると、なにかまずいことが起きる。取り消しのつかない事態になる。そしてルカはなにかに気づいているようだった。ワシは恐れに心を支配されてしまった……」
一気に吐き出すと、ルードルフは苦しそうな声でうめいた。胸にわだかまっていたものを彼は、はじめて他人に吐き出せたようだった。
「私は恐れた。これが、村の人びとに広まることを。そしてそれは村の中だけでは終わってくれぬだろうとも思った。彼女が持っていたのは、世界を混乱のどん底に叩き落とす悪魔の書だった」
「だから……。あなたはその書と一緒に彼女を葬り去った」
「表向きは、教会の教えを守らなかったから。彼女の存在を苦々しく思っていた村の人びとも多かった。望まれずに生まれてきたくせに、神の教えをいっこうに守らぬ子。悪魔の子という二つ名が広まってもなんらおかしくはなかった」
禁忌を犯してしまったがゆえに、その常人よりはるかに大きな好奇心のために、ルカはその幼い命を奪われた。
理不尽。それは到底、納得のいく論理ではなかった。
しかし、ジハンは高まる怒りを必死に抑える。
こぶしは強く握られていたが、それは人を殴るためではなく自らのやり切れない思いを封じ込めるためのものであった。
その苦心を敏感に感じ取ったのか、キーシャは彼の腕をしっかりとつかんだ。その腕にどんなメッセージをたくしたのかはわからないが、彼の心は幾分、平静を取り戻した。
こぶしがゆっくりとほどかれる。ジハンが目を落とすと、それは赤く染まっていた。
「なるほど。それが事の真相だったわけですね。納得はできませんが、理解はしました」
「ああ。しかし、もう一つ付け加えておかねばならないことがある」
「まだ……なにかあるというのですか?」
重苦しい語調で言葉を続けるのはルードルフ。この清濁併せのむ老司祭は、これ以上なにを言おうとするのか。ジハンの疑問は一応は、氷解したではないか。
迷ったように、視線を泳がせるルードルフ。いつも威厳をたたえた彼が見せる珍しい表情だった。
しかし、ルードルフは間もなくなにかを決意したように顔を上げて、ジハンを見つめながらこう言った。
それは、ジハンの心をつらぬく一張の弓であった。
「ルカは……お前の妹だ」
視界が公転した。疲れからではなく、あまりの衝撃に身体を支えきれなくなったのか。ジハンの身体は揺らいで、その場に立っていられなくなった。
地面に尻餅をつきながらも、混乱する頭を制御して彼は言葉を紡ごうとする。が、それは音となって表出されることはなく、ただ虚しい息となって彼の口から漏れだすだけだった。
(ルカが俺の妹……?)
ルードルフの言葉を必死に反芻する。しかし、それはただの音の羅列となって、彼の脳裏を駆け抜けるだけだった。
言葉から意味が抜き落ちていた。
キーシャがそんな彼の様子を見て取り、ジハンに代わって質問する。
「それは……たしかなことなのですか?」
「ああ。間違いない。正確には二人は双子だ。ルカが棄てられ教会が保護したあと、彼女の母、ジハンにとっても母になる女が教会を訪れて、真相を告白していったよ。残念ながらと言ったほうがいいのかな、そういうケースはたまにある。一度は棄てておきながら、情が動いてしまうのだろう。勝手ではあるが、致し方ない」
淡々とした声で言う。
キーシャはジハンの心中を痛み、苦悶の表情を浮かべた。
ジハンは、恋い慕った娘と、自らの妹を同時に失ったことになる。
しかも、今までそれに気づけなかった。情けなくて、死にたくなる思いだった。
キーシャはジハンを気遣うそぶりを見せたが、どんな言葉をかけていいのかわからず、ただ立ち尽くすのみだった。
「これが、ワシがわざわざお前に真相を伝えようと思ったわけだ。地獄まで持って行っても良かったが、あんなところで再会するのだからな。神のお告げ。そうとしか思えなかったよ」
そしてそこで一度言葉を切り、沈痛な面持ちで最後に「申し訳ないことをした」と謝した。
しかしそれは、ジハンの耳を虚しく通り過ぎていくだけだった。
無理もない。
喪失感がジハンの胸中には渦巻いていた。急速にその形は膨らみ始め、彼の心を侵食していた。
しかし、奈落の底に落ちていきそうになったジハンを救ったのは、キーシャとの約束だった。
いや、約束というほど確固たるものではなかった。
しかし、キーシャは彼に大丈夫だと言った。ならば、大乗でないはずがない。少なくとも、そうさせていいわけがない。
ジハンはなかば無理やりな論理を構築し、自らを守った。そしてそれはキーシャを守ることにもつながるものだった。
彼はまだ絶望に支配されるわけにはいかなかった。
片腹には不安そうにこちらを見つめる少女。
彼女は言葉に困ったようだが、なにかを決心したように「負けてはいけません」とシンプルな言葉を一つ彼にかけた。
それだけで十分だった。単純と笑うならば笑えばいい。
誰に対してというわけではないが、それは開き直りに近かった。
キーシャが闇にとらわれたときは、ジハンが彼女を支えた。ジハンが絶望に陥れられそうになったときは、キーシャが必死に彼をつかまえた。闇に堕ちる一歩手前で、踏みとどまらせてくれた。
人とは本来そういうものなのかもしれない。
一人では、なにか大きな困難や苦痛がやってきたときに容易に折れてしまう。しかし、一本の接ぎ木。つまりは支えてくれる人がいるだけで、人は強くなれる。
孤独ではない。
その確信が最後のセーフティネットになることを、これまでと旅を通じてジハンは知った。
そして最後に彼を救ったのは、やはり少女の存在だった。
彼は、ルードルフに向き直り、しっかりとした表情で、決して晴れやかとは言えなかったが、負けていない顔で言った。
「いえ。もういいんです」
ルードルフは驚きを浮かべたが、なにかに思い至ったようで納得顔でうなずいた。
そして「いい仲間を持った」と感慨深げにつぶやいた。
「ときにシスターよ。キーシャといったな。君はこれから?」
「わかりません。村に戻ろうとも、旅に出ようとも」
「ふむ。それがいい。ただ一つだけ約束してほしいことがある」
そう言ったルードルフの表情は、幼いころ教会と児童院で見た温和な神父のそれだった。
「というと?」
「パスティンには戻るな。あそこはもう駄目だ」
「どういうことです?」
「パスティンもすでに都市としての疲弊が限界に来ていてな。民衆の不満が高まっている。さらに、先の巡礼者の一団と来た。彼らは武器を取るだろう。ワシらは戦わねばなるまい」
「つまり……。パスティンは戦火に包まれると?」
「ああ。残念だが仕方あるまい」
「それならば、巡礼者を受け入れれば?」
「できんよ。第一、民衆や教会の連中が絶対に受け入れない」
「そんな……」
キーシャは絶句した。
ルードルフは踵を返し、馬のほうにむかった。そしてそれにまたがると「私は戻らねばならない」と悲壮な表情で言った。
「ご無事を……」
ジハンは餞別の言葉をかける。しかし、その願いは果たされないだろう。
ルードルフもわかっていたのか、鼻で笑って「ああ」と言葉少なに返礼した。
馬の蹄が軽快な音をたてた。それは、彼が現れたときの音といささかの違いもなかった。が、なぜかジハンにはどうしようもない悲壮感を感じざるを得なかった。
走り去る馬上の背中を言葉なく見つめる二人。
平原の果てに消えゆくその背中は、聖職者というより戦士のそれだった。それも、死地に赴くような。
心をなにかにギュッとつかまれる。
別れは、いつでも人の心をセンチメンタルにする。
それがどれだけ複雑な事情を持っていようとも変わらない。別離とは一様に悲しいものなのだ、と神の教えにあれば、今なら容易に受け入れることができそうだ。
しばらくそうしていたが、キーシャは不意にジハンのほうに向きなおった。そしてなにかを考える表情を浮かべたあと「あの……」と遠慮がちに切り出した。
「うん……?」
「もしよろしければ……なんですが……」
「言ってみな」
できるかぎり優しい言葉で。彼女の不安を取り除いてやるように。
「……もう一度サタの山に登りませんか?」
なぜとは聞かなかった。どうせこれから行くあてもない。断る理由などなかった。
「おぶらないからな?」
「わかってますよ」
花のような笑顔。それだけで彼女を背負って山を上り下りしてもお釣りが来る。
終わりを意識したのは何度目だろう。
始まりがあれば終わりがある。そんな手あかだらけの言い回しも、今では金言であるような気さえしてくる。
二人は夕陽に染まるサタの山を仰ぎ見た。




