黒の交渉団
その日の夜、門の前のいたるところで火が起こされ、修道士たちは思い思いに暖を取っていた。
二人はそんな連中にまぎれながらも、浮かない顔でたき火を見つめている。
「なあキーシャ。この交渉うまくいくと思うか?」
ジハンの言葉でビクッと身体を震えさせたかと思うと、彼女は苦しそうにじぶんの見解を示した。
「私は……十中八九、破談になると思います」
「なぜそう思う?」
「あの門兵が言っていたこと、あれはある意味では真実であると思うからです」
「教皇の『第二のお触れ』がか?」
ジハンは意外に思った。
昼の彼女の言葉を思い返すに、キーシャはそれを真実だとは思っていないようだった。
考えを改めたのだろうか。
「いえ、『第二のお触れ』は出されていないと思います。私が言ってるのは、もっと俗な理由、つまりはパスティンが限界をむかえているということです」
「そういえば、門兵はそんなことを言っていたな」
「……宗教心が強すぎたということでしょう」
「どういう意味だ?」
「つまり……。パスティンの司祭も、教皇自身もあそこまで多くの聖職者が実際にこの地に集まるとは予想できなかった。いえ、もっと根本的に、彼らが思っていたよりはるかに神の教えは広まり浸透していたということかもしれません」
「皮肉な話だな」
「ええ、ほんとうに」
少しだけ笑って、そばの小枝を火にくべる。
炎は、今なお空に輝く太陽と同じ色で揺らめいていた。
「話し合いは、明日から行われるそうです」
「パスティンは彼らとの交渉に応じるのか。驚きだな」
「同じ教えを信ずる身。彼らとしても心苦しいのでしょう」
「こちら側の代表者は、やはり昼のあの男か?」
「おそらくは……。パスティンがどのランクの聖職者を出してくるかは不明ですが……」
「まあ、なんにせよ。とりあえずは双方が交渉のテーブルにつくんだ。喜ばしいことではある」
最後は少し皮肉な調子になってしまった。
キーシャもジハンも、この交渉が首尾よくまとまるとは残念ながら思っていない。
そんなことよりも、二人には話し合わねばならない問題があった。
しかし、それを口に出すことを両者ともおそれているふうだった。
終わりの始まり。
格好つけた言いかたをすれば、そんな表現がぴったりくる。
しかし、ジハンは自らの責任として話を切り出した。
「ところで、この旅についてなんだが……」
予感はしていたのだろう。さして面食らった様子でもなく、たんたんとキーシャは答える。
そしてその様子は、ジハンの心をほんの少しさざめかせた。
動転してほしかったのかもしれない。
子供っぽい欲求が内から溢れ出していることに、ジハンは一人苦笑する。
「ええ、わかっています」
十分すぎるほどの間を置いて、キーシャは答える。
しかし、続く言葉はポツリポツリと漏れ出すだけで、要領を得ない。
「一応俺たちの目的はパスティンにたどり着くことだったはずだ。そして、それは果たせなかったがひとまずはゴールについた」
慎重に慎重に、朽ちたつり橋を一歩一歩渡るかのように言葉をつむぐ。
不用意なセリフでキーシャを傷つけてしまわぬように。それが、ジハンにできる精一杯の優しさだった。
そしてキーシャもそんな彼の意志をくみ取ってくれたのか、優しい微笑を浮かべながら現実を受け取る。
「はい、私の目的は目の前で絶たれてしまいました。しかし、そんなことは……」
そこで言葉を切りうつむくキーシャ。
ジハンはたき火を見つめていた視線を動かし、彼女のほうをうかがう。
予感があったから、ジロジロと見つめるような真似はしなかった。
ただチラリと彼女にアイコンタクトを送っただけだった。
キーシャは右手で目もとをぬぐった。
しかし、それでも溢れだす涙は止まってはくれないのか、悔しそうにもう一度、今度は左のこぶしでぬぐう。
鼻をすする音が聞こえる。
もしかすると、キーシャの顔はもう涙でぐちゃぐちゃなのかもしれない。
しかし、それをたしかめることをジハンはしなかった。そんな必要はなかった。
抱きしめようかと思った。ただ身体を寄り添わせるだけでも、彼女は安心するのかもしれない。
だが、ジハンはただ黙して彼女が一人で立ち上がるのを見ているだけだった。
「……だから……もう……」
途切れ途切れの言葉。
ほとんど意味のある音節として表出されなかったが、それでもジハンにはキーシャの言いたいことが手に取るようにわかった。つい彼は優しい言葉をかけた。
「大丈夫。俺はこの交渉の結末を最後まで見届けるつもりだ。キーシャがそうするというならな。それからのことは……。うん、まだ考えたくない」
問題を見送るという選択は、優れたものだとは言えなかった。が、それでもキーシャはジハンの言葉に反対せず、ただ「……そうですね」と提案を受け入れた。
夜は更けていった。というのはおかしいかもしれないが、とりあえず夜は終わっていった。気温が徐々に上がっていくことで人びとはそれを感じることができた。
夕焼けに世界が沈んでから、人は気温を感じ取る能力が飛躍的に高まったようだった。
修道士たちや、それを護送してきた商人や傭兵たち。
落ち着かない朝だった。
もうすぐはじまる交渉の結果いかんで、彼らの行動が規定されるのだから無理もないことだった。
誰が言うでもなく、みんながみんな屹立する城壁を見つめていた。
沈黙が朝を支配していた。呑気に朝食に興じているものなどどこにもいない。
そんな人波をかき分けるようにすすむ一団。すべてが漆黒の修道気を身にまとい、胸からは白銀色に輝く十字架をぶら下げていた。
非常に権威的な光景だ。
人ごみからほかの大多数と同じように、ジハンはそんな交渉団を見つめていた。
威厳を発することを意図しているような彼らの姿に、ジハンは若干の滑稽さを感じざるにはいられなかった。
それは、彼自身がひねくれすぎているからであろうか。
「いよいよですね」
キーシャは緊張した面持ちで彼らを見つめる。
交渉はかつて明朝、日の出と言われた時間に行われることになっていた。
交渉団が門の前にたどり着き、巨大な木の扉を見上げる。城壁の上では兵士らしき連中の影が動き、どこかに合図を出していることがわかる。
ギギギ。
扉が両側に開かれて、その奥の空間を露わにする。
しかし、そこから見える景色は宗教都市、聖地としての光景ではなく無数の真っ黒な修道着に身を包んだ集団だった。
黒の海。
しかし、それはパスティンの人びとが我々を見たときに思い浮かべた感想とさして変わらなかったであろう。
門をぬけて一団が、城壁の外に姿を現す。すさまじい人数だった。
門兵が発した言葉が、途端に真実味を帯びる。
交渉団と一定の間隔を空けながら、パスティンの聖職者集団が足を止める。黒の集団同士が向かい合う。
それは、今ここで歴史の一幕が動くことを感じさせる荘厳な絵面だった。
ジハンは思わず息をのんでいた。
集団はしばらく黙して向かい合っていたが、交渉団側の代表、キーシャと昨日議論を戦わせた男が進み出て口を開いた。
「我々、偉大なる神の意に沿いパスティンへの巡礼の旅を行った者たちである。ただちに城壁内への入場を求める」
低く響く声が沈黙を切り裂く。
交渉団は、いずれも厳しい顔でパスティンの聖職者たちを睨みつける。
彼らを分かつものはただ一つ。
にもかかわらず、そこにはどんな大河よりも大きな隔たりがあった。
パスティエの聖職者集団からも一人の男が進み出た。
しかし、その男を見たときにジハンはあまりの驚きに思わず体がよろめいた。
頭痛が襲う。
封印していた記憶を無理やりに呼び戻そうとする光景に、ジハンは本能で拒否しようとしていた。
「私はパスティンの長司祭、フィオナルド・ルードルフである。貴行らの言い分は十分に理解できる。だがしかし、パスティンは町としての収容人数を現在ではるかに超えており、これ以上の受け入れはできない。ご納得いただきたい」
ルードルフははっきりと言い放つ。彼の口調は取りつく島もないほど、きっぱりとしたものであった。
しかし、ジハンはそれ以上の交渉の推移がまったく頭に入ってこなかった。
ルードルフ。
間違いなかった。その名を忘れるはずもあるまい。
だが、なぜ……。
ジハンは脳内をおおう疑問符に頭を抱えた。
「ジハンさん。いかがいたしました?」
彼の様子がおかしいことに気づいたのか、キーシャが尋ねた。その声音は心配そうだ。
ジハンはその声に答えなかった。というよりも、彼の耳にキーシャの声が届くことはなかった。
ジハンは交渉の場へと歩き出していた。
それは、彼の意志によるところではなく、無意識がそうさせていた。
キーシャはその後ろ姿を怪訝な表情で見つめる。
しかし、ジハンの様子は尋常ではなかった。そのまま行かせるのはまずい。
そう思ったときだった。
視線を近づいてくるジハンのほうへとむけたルードルフは驚愕の表情を浮かべた。
それは、先ほどジハンが浮かべたそれと同じような色を帯びていた。
ジハンとルードルフの視線が交わされる。ルードルフはジハンを見て一つうなずいた。
キーシャにはそう見えたようである。彼女は不審げな表情を浮かべた。
「なにをよそ見している! 私たちをなめているのか!」
ルードルフの様子に交渉団の代表が激昂する。
ルードルフは、彼のほうを卑俗なものを見るような目で眺め、門兵が言っていたことと同じような内容を繰り返した。
それは、同じ聖職者と対峙するときの態度ではなかった。
「『第二のお触れ』などは出ていない! パスティン以外で、そんな話を聞いたものなど一人もいないのだ!」
交渉団の男は完全に冷静さを失っていた。
水掛け論になったときに勝つのは、力を持っている側だ。
勝者をあきらかだった。
教皇の権威はつまるところは錦の御旗だ。権力は真実などというちっぽけな概念を容易にねじ曲げる。
交渉はもはや終わったも同然だった。
敗戦の色が、場外の修道士たちにただよう。
それはあまりにあっさりしていて拍子抜けですらあった。
「パスティンはもはや都市としての限界をむかえている。したがって、これ以上の修道士を受け入れることはできない。我々の主張はこれだけである」
ルードルフはそう言うと、並び立つ聖職者たちに目配せをし、門扉へと戻っていった。
兵士たちがその周りを取り巻き、にらみを利かせる。
交渉団の代表は「おい、待て」と叫んだが、それはむなしく響くだけだった。
門は再び閉じられた。
それは、すべての訴えをあっさりと退けるだけの威圧感をほこっていた。
無力感が沈黙に姿を変えて人びとの間をただよっていた。
しかし、ジハンはそんなことを意にもかけず、ただ落ちる太陽を見て一つ大きな深呼吸をした。
修道士の戦いは今をもって終わったが、彼の戦いはどうやらまだはじまっていないようだった。
重苦しい空気がただようなかでジハンは一人緊張と猜疑に見舞われながら腰をおろしていた。
交渉は決裂し、もはやすべての人びとが最後の手段を覚悟している中で、ジハンだけはまったく別のことに思いをはせていた。
いや、一人でなかった。
隣に腰をおろす少女も、またジハンの心中を慮っていた。
「いったいなにがあったというのですか? ルードルフというかたも、ジハンさんを見て尋常ではない様子でした。お二人の間になにが……?」
さきほどからなに一つ言葉を発さず沈黙を守るジハンに対して、キーシャはたまらず疑問を投げた。彼女もまた混乱しているようだった。
「……」
ジハンは頭を抱えるばかりで答えようとしない。
不誠実であることは十二分にわかっていたが、言葉にして説明する気にはどうしてもなれなかった。
「言ってくれないと、言葉にしてくれないと、相談してくれないと……私、わかりません……」
今にも泣きそうな声になりながらキーシャは訴える。
「……そんなに私は頼りないですか!? 私では、ジハンさんの力になれないですか?」
そうではない。そうではないのだが、ジハンも混乱していた。なぜ、ルードルフがこんなところに……。
「――ジハン様でございますか?」
忍ぶような声がした。
声のするほうを見ると、ボロをまとった浮浪者のような男が膝をついていた。
「ああ」
言葉少なに返事をした。
「ルードルフ長司祭様より言づてをお預かりしてきました」
それだけ言い残すと、男は懐から取り出した紙片をジハンに渡して去っていった。
キーシャも走り去る男を、相変わらずの泣き顔で見つめていた。
もう、わけがわからない。
それが、正直なところだったのだろう。
四つに折られた紙片を丁寧に開くと、そこには綺麗な文字でこう書かれていた。
『サタの山の出口、大平原の入口へ フィオナルド・ルードルフ』
潔いまでに要件だけが書かれたメッセージを、ジハンは三度見返して無言でキーシャに手渡した。
その動作は、ぶっきらぼうなものであった。
しかし、ジハンは徐々に落ち着きを取り戻していた。
そしてキーシャのほうへ向きなおり、申し訳なそうに言った。
「ちょっとだけ付き合ってもらっていいか?」
キーシャは一寸キョトンとした顔をしてみせたが、すぐに気を取り直して答えた。
「はい、もちろんです!」
こうして二人の最後の旅がはじまった。




