別れ
太陽がまた一段と近くなる。燃え盛る夕日は、人の心をも照らす。すべての嘘や秘密をもその眼前にさらす。まさに審判を行う神といった様相であった。
懺悔せよ。
そう語りかけてくる太陽のイメージが浮かぶ。どこかにそんな神話もありそうだ。
サタの山の頂上は、なだらかな平地になっていて、腰をおろせる岩場も多く散見される。二人は手近な岩場に腰かける。見渡せば、パスティンがはっきりと一望できる。
そこから見える眺望は、パスティンが今や揺れに揺れていることなどおくびにも感じさせなかった。
「ルードルフさんは無事に戻られたでしょうか」
キーシャが心配げな声音でつぶやく。
「大丈夫だろう。まだパスティンも――」
そのときだった。ジハンは異変に気づいて言葉を切る。思わず「ああ」といううめき声が漏れたことも、彼自身気づかなかった。
目を細めて、はるか遠くのパスティンへと目を凝らす。キーシャも同じように宗教都市へと視線を向ける。
「あれは……」
驚愕の表情を浮かべるキーシャ。やはりジハンの視界に映ったものは、見間違いなどではなかったようだ。
だとするとやはり……。
嫌な予感が脳裏をかすめる。いや、それはむしろ確信といったほうが正しかった。
二人は同時に立ち上がっていた。
パスティンから黒煙が上がる。それは急激に肥大化し、都市の上空をおおいつつあった。
「はじまってしまったようですね……」
「ああ。どの道、時間の問題だったんだ。交渉はすでに決裂していた」
そしてジハンはパスティンのほうを一心に見つめながら言った。
「『ノアの方舟』は沈んでしまったようだな」
「……前文明の神話ですか?」
キーシャは持ち前の聡明さで答えてみせる。
「ああ。世界が水中に沈んだとき、唯一生き残った人類がノアという男と、その家族であったという。そんな彼らが乗った方舟だ」
「そしてパスティンは、人びとを救う方舟にはなれなかった……」
「神は地上で教えに背く人間を見て、罰を与えた。そしてただ一人、正しく教えを守っていたノアにはあらかじめ方舟の建設を命じた。
しかし今度は、人びとは神の言葉を捏造し、パスティンという偽りの方舟をつくりあげた。勝手にな。じぶんたちだけが神に救われるため。天国へとのぼるために。そんな舟が沈むのは、ある意味で必然だったのかもしれない。夕焼けは神からの試練だったのだろう」
「夕焼けに心乱された人間は、神の国へとのぼる資格はないと……。神はそうお考えなのでしょうか?」
「おいおい。聖職者がそんなことを聞くなよ。俺はもう神の存在自体を信じていない。ただあえて神話風といえばいいのか、そうやって解釈するとさっきみたいな説明になるってことだ」
「では、聖典に示されていた預言。夕焼けに堕ちる世界と、終末。あれの意味は……? それはなんらかのメタファーに過ぎなかったということでしょうか」
「そこまではわからない。文字通り『神のみぞ知る』というやつだ。しかし、パスティンであがる黒煙、あれを見てキーシャはなにも感じないか?」
「世界の、いえ少なくとも、我らが教えの終末を感じます」
「そう。すぐにパスティンの混乱は波及し、世界の宗教勢力は急激に力を失うだろ。それは、ただ宗教世界のみの話にとどまらない」
「……各地で教会は絶大な権勢をほこっています」
おそろしい未来の到来を予期し、キーシャはおそるおそるといった様子で相槌をうつ。
「革命と戦乱の世紀がやって来るだろう。歴史は繰り返す。人類は前文明のころから、なんどもなんども戦いを繰り返してきた。しまいには、一つの文明を跡形もなく吹き飛ばしてしまった。だから俺たちは前文明について、わずかに残る資料の断片からうかがい知ることしかできない。
ただ、前文明は戦争の時代だったそうだ。主義、主張、文化、人種、民族、言語、なんでもいい。差異を見つけてはあげつらい、分かり合えないと盲信した。そして武器を取った。多くの血が流れた。それ以上に涙が流された。末期は、我々の今の文明をはるかに上回る技術力があったそうだ。しかし、今では俺たちはそれを資料より推測し、想像で補完するしかない」
「そんな道を、今の私たちは進んでいると? ジハンさんはそう見ているのですか?」
「やめてくれ。俺はただの浮浪者だ。世界の行く末なんて興味がない。明日の飯の保証ができなければ、それこそ終末だからな」
「茶化さないでください!」
キーシャは感情を高まらせる。感受性豊かな年頃の彼女には、今のこの状況は少し刺激が強すぎたのかもしれない。
無理もない。
じぶんの目の前で、信じていたものが急激に崩れ去っているのだ。平静を保て、と言うほうが酷だ。
それでもキーシャはよく耐えたほうだった。取り乱して泣き叫んでもおかしくはない。自らを支えたものが足もとから崩れ去るというのは、元来そういうものなのだから。
しかし、キーシャはやはり気丈であった。
「すまん。しかし、一つ言えることは新しい時代がはじまったということだ。血の時代。後世の人びとからそう呼ばれる恥の多い時代が幕を開けてしまった」
「……どうすることもできないでしょうか? ただこのまま血が流れるのを見ておくしか、私たちにはできないでしょうか?」
「時代とは、一個人の働きなどまったく意に介さないものだ。まったく別の力学で動いている。歴史上の偉人とは、時代が要請して作り上げた産物に過ぎない」
「では……時代……いえ、神がこの状態を望んだというのですか!?」
「だから神の意志など俺にはわからない。キーシャにだってそうだろ? 受け入れるしかないんだよ」
諦念。
そう言われても、仕方なかった。
しかし、目の前の少女はあきらめることを決してよしとしなかった。
「そんなの……そんなの駄目です! 許せません!」
「だと言ったところで、どうしようというんだ?」
「わかりません……。でも、でもここで指をくわえて見ていることは私にはできません!」
「まさか……パスティンに戻る気ではないだろうな?」
「そうしようと思っています。信ずるものが崩れようとしているときに、それを阻止しようとするのが信者の役目です」
そうだった。彼女にとって、今は間違いなく「終末」なのだ。メタファーでもなんでもない。世界の終わりが目の前に迫っているのだ。
それを止めようというのは、当たり前の心理だった。
「駄目だ! ルードルフさんだってパスティンには近づくな、とおっしゃっていた」
「そうかもしれません……。しかし、司祭や神父は宗教的な権威であるかもしれませんが、神ではないでしょう?」
「そうかもしれないが……そうかもしれないが……。あまりに危険すぎる! あの煙が見えないというのか!? もうどうすることだってできないんだよ!」
「そんなことはわかっています。でも、このまま指をくわえて見てることなんてできません!」
そう言うとキーシャは荷物を背負い直し、サタの山を駆け降りようとする。
ジハンは「おい」と声をかけ、彼女を振り向かせることに成功したが、神の教えと固い意志に守られたその表情を見たとき、ジハンは黙ることしかできなかった。説得する手段など持ち合わせていようはずがなかった。
「……」
沈黙が場を支配する。気まずさがジハンを襲う。
なにか言わなければ。キーシャを止めなくては。
そう思えば思うほど、陳腐な言葉が胸に詰まり彼ののどもとを圧迫する。
キーシャはそれを寂しげな瞳で見たあと、こう言った。
それは彼を永久にしばりつけておく重しとなった。
「待っていてください。必ず私は戻ってきます」
それをキーシャのワガママだと断罪することなど、ジハンにはできるわけがなかった。そして彼にはよく理解できた。
じぶんを待ってくれる人がいないというのは、あまりに寂しすぎる。
孤独の味が痛いほど身に染みているジハンには、彼女の苦しみが伝わってきた。だから。
「ああ。待ってる。ここで待ってる。サタの山の頂上でキーシャを待ってる」
と言った。
彼女はそれを聞くと、コクリとうなずき山を駆け下っていた。その足取りは、体が限界をむかえ背負われて下山した人と同じものであるとは到底、思えなかった。
キーシャの後ろ姿がかすむ。前が見えない。
ジハンは落涙していた。それは子どもがぐずるような泣き方であり、人に見せれる代物ではなかった。
しかし、それを見て本気で心配してくれる少女は、今や彼の視界のうちでみるみる小さくなり、もはや豆粒のような後ろ姿しか見えない。
無理にでも……。止めればよかったのだろうか。もしくは、一緒にパスティンまで行けばよかったのだろうか。これまでと同じように。
しかし、それをキーシャが望み、許すとはさすがに彼も思えなかった。
決してそんなことはないのだが、彼女はこれまで多くの迷惑をジハンにかけてきたと思っている節があった。
キーシャの背中が完全に消えた。ジハンはまた一人になった。
彼女の存在は、ジハンのまぶたの裏で残像として生きるのみであった。
しかし、今度の孤独はまだ耐えることができそうだ。
なにせ目的があるから。待つ人がいるから。
ジハンは脱力したように岩場に腰をおろし、そこからパスティンを眺めた。黒煙がますます大きくなり、硝煙のにおいが山頂までただよってきそうだった。
彼は神に祈った。捨てたはずの神に、図々しくも祈りを捧げた。
無垢なる少女の命を救ってくれるように。そして、もし叶うのであれば、いつの日かまた再会できるようにと。
今度は気ままな旅でもいい。どこかの町で会うのもいい。そのときはまともな職を手にしているだろうか。キーシャに会っても恥ずかしくないように。
たぶん無理だろうな。
そう思い、ジハンは自嘲気味に笑った。
目もとから零れ落ちる涙を夕日が照らした。涙がキラリと光った。世界はあまりにキレイだった。




