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挫折

 最初に異変に気づいたのは、キーシャだった。

 サタの山では襲撃者の気配を最初に感じ、今は平原の先にあるパスティンの前に集まる多くの人の群れに気づいた。

 野生の勘というといささか失礼かもしれないが、それ以外に正しい表現が見当たらないのも事実だった。

「ジハンさん。あれ、なにかおかしくないですか?」

「うん? よくわからんが、ヤケに門前に人が集まっているな。あまりに多くの巡礼者に門番の検査が間に合っていないのではないか?」

 しかし、近づくにつれてどうやらその通りではないとジハンは考えを改めた。

 どうにも門の前に集まる人びとは調査を手持ち無沙汰に待っているという感じではない。

 どこか所在なさげな様子は、途方に暮れているといったほうが正しかった。

 合点がいかない様子でキーシャも人波を眺める。

 そしてジハンに世間話をするかのような軽いトーンで尋ねた。

「なにがあったんでしょうね」

「わからない。とりあえず俺たちも門に行こう」

 そして歩を門のほうへ向けようとしたときだった。

 そばにいた商人らしき男が声をかけてきた。その調子は、どこか投げやりだった。

「無駄だよ」

「無駄? どういうことです?」

 先に答えたのはキーシャだった。

 ジハンは驚いたが、商人風の男はその毅然とした語調にさらに鼻白んだようで早口になりながらも、親切に教えてくれた。

「パ、パスティンはその門を閉ざしちまったようだ。俺もここに来たのはついさっきだが、奴らが言うにはもう聖職者が入りきらないらしいぜ。せっかくいいビジネスを見つけたと思ったのに、ついてないぜ」

 男は、足を持たない聖職者たちを荷馬車でパスティンまで送り届ける仕事をしていたらしい。

 なんでもかんでも商売にしようとする商人らしい発想だった。

 しかし、それをたくましいと思いはしろ、卑しいと見下すことをジハンはしなかった。

 キーシャも同じだったようで、感心したような様子でうなずいていた。

「見たところあんたも聖職者のようだな。残念だったな。もう少し早ければ、入れたかもしれないのに」

 気の毒そうに男は言う。

「とにかく行ってみよう」

 ジハンは、キーシャを気遣うように提案した。

「ええ、そうしましょう」

 存外、冷静にキーシャは答えた。

「おい、聞いてないのか? 行っても、門兵に追い返されるのがオチだぜ。やめとけやめとけ」

 門へと足をむけた二人を見て、男は驚いて再度忠告した。

「ご親切にありがとうございます。でも、一度行ってみます。じぶんの目で確かめないと納得しない性分なもので」

 爽やかな笑顔を浮かべてキーシャは言う。

 男はまたも当惑して「ああ、それがいいかもな」とあっさりと意見をひるがえした。

 キーシャは悪女の才があるのかもしれない。

 清貧を是とするシスターのくせに、とジハンはこんなときに取りとめのない考えを頭に浮かべた。

 門前は、今まで以上に人で溢れかえり、困惑の面持ちで高くそびえ立つ城壁を見つめる者もいた。

 城壁は都市をおおい隠し、中の様子はいっさいうかがえなかった。

 そんな人びとをしり目に、二人は門へと入っていった。

 門は巨大な木の扉でおおわれ、その前には門兵が長いヤリを片手に気難しそうな表情で立ちふさがっていた。

 その姿は、前文明のとある島国で神殿を守っていたといわれる金剛力士像をほうふつとさせた。

 だが、ジハンはそんな力士像に歩み寄り「パスティンに行きたいのだが」と切り出した。

 力士像、もとい門兵はうんざりとした様子で、もう何百回と繰り返してきたであろう調子で「パスティンは鎖国状態に入りました」とだけ言った。

「鎖国? どういうことですか?」

 キーシャが尋ねる。

 背丈に似合わないはっきりした口調で物申す彼女に、門兵はさきの商人と同じような表情を浮かべた。が、すぐさまその顔を無表情のそれに戻し、

「現在でも、都市の受け入れ人数をはるかに超えており、これ以上人びとを収容すると、パスティンはその機能を停止してしまいます」

 と有無をいわさぬ調子で答えた。

 しかし、キーシャは有無を言った。

「パスティンにおわします教皇は、すべての聖職者をこの地に招集したはずです。世界の崩壊を止めるために。だからこそ、多くの神のしもべが集まったのではないのですか?」

 キーシャは厳しい表情を浮かべて詰問する。

 だが、門兵もなかなか引かない。

 同じようなケースをすでに何百とくぐり抜けてきた彼は、妙に雄弁だった。

「そのお触れが出されたのは、世界が夕闇に沈んでからすぐのことです。あれから、幾月がたちましたか? 教皇ものちに『すべての宗教者は今の土地で祈りを捧げよ』とおっしゃいました。しかし、混乱した世界ではそのお触れは誰の耳にも届かず、チリとなって消えたようですが」

 嘘だ。

 ジハンは門兵の欺瞞に気づいていた。そんなお触れが出たならば、たしかにキーシャの住むような辺境の寒村には届かないかもしれないが、山を一つ越えた彼がいた町には届くはずだ。

 パスティンの宗教勢力は、ほかの聖職者を救うことをあきらめたのだろう

 じぶんたちで集まって、祈りを捧げる。救いの選民主義。

 形骸化した宗教の典型例がそこにはあった。

 必ずしも、パスティンで天国に行ける免罪符を手に入れることができるわけではない。

 個々人の積み重ねる徳のみが、黄泉の国での行きさきを決定するのだ。

 巡礼ができなかったとしても、宗教心にもとづいて徳を積めば、それを主は認めてくださる。

 そんなことはわかっていたが、それでも眼前で門を閉ざされて素直に納得できる信者はいないだろう。

 それが今の光景を象徴している。

 門を閉ざされても、どこに行く当てがあるわけでもなく、ただ無為に時間を過ごすしかない人びと。

 彼らを責めるのは、あまりにも酷というものだ。

 しかし、キーシャはどこまでいっても神のしもべである。もし、その聡明さによって彼らの嘘を見抜いていたとしても、教会や教皇が「当地で祈りを」と主張するのだ。受け入れるしかない。

 彼女は、門兵の言葉になにか言いたげであったが、結局はため息をつくと踵を返した。

 そしてそのままどこに行くともいわずに門から離れていく。その足取りはしっかりとしていて、迷いを感じさせない。

 が、ジハンは慌ててあとを追い、声をかけた。彼なりに承服しかねるものがあったし、キーシャの心中の複雑さを慮ったのだ。

「いいのか?」

「仕方ありません。教皇の意志の伝達者がそう言うのですから。『真実』ではなくとも、それが『事実』としてまかり通るのでしょう」

 二つの言葉を強調して。

 もしこれが神話としてのちに残るなら、伝わるのは「事実」のほう。

 つまりは、二度目のお触れはたしかに出されたということになるのであろう。

 キーシャは頭を左右にはげしく振りながら続けて言った。

「もっとはやく来ていればよかった。もし、私がサタの山で余計な手間をかけなければ……」

 キーシャは悔しそうな表情を浮かべて、ほぞを噛んだ。

 もし彼女が体調をおして強行軍を続けたとしても、この分だとどうぜパスティンには入れなかっただろう。

 キーシャもそれはわかっていたはずだ。

 だが、村の人びとの意志を代表するという責務をあと一歩のところで絶たれてしまった彼女は、ほかにどうすればいいのかわからず途方に暮れていた。

 そしてジハンもそんな彼女にどんな言葉をかければいいのかわからなかった。

 ただ一つ思うことは、キーシャもじぶんと同じだったということである。

 ジハンも彼女くらいの時分に、じぶんが最も信じていたものに裏切られた。そして大切な人を奪われた。

 そしてジハンは信仰を捨てた。

 しかし、キーシャは……。

 なんと声をかければいいかはさっぱりわからなかった。が、このまま沈黙していては、かけがえのない旅の仲間を見捨ててしまうことになる。

 陳腐な慰めの言葉を紡ごうとしたそのときである。

「仕方ありません。じぶんができる方法で、信仰を深めましょう」

 諦念からではあったが、彼女の声に現実を悲観する様子はなかった。

 すぐさま頭を切り替えようと努力していることが見て取れた。

 そのいたいけな姿は、ジハンの心を揺さぶった。

 神は、こんな少女の思いを踏みにじるのか。

 幽閉された少女が命を落としたと聞いたとき以来だった。気まぐれで不公平な神に対して本気で怒りを覚えたのは。

 だから、彼らを呼ぶ声に一瞬気付かなかった。

「おい、お前たちはそれでいいのか」

 荒っぽい声でそんなことを言うのは、修道着に身を包んだ見ず知らずの男だった。

 その体躯は大きく、服の上からでもしまった筋肉を感じられ、どこか威圧的な風貌だった。

 ジハンは自然に警戒を密にする。

「じぶんができる方法で、だと? 遠路はるばるパスティンまでやって来て、それで納得できるのかよ!」

 言葉の端々から高圧的な感じが伝わってくる。

 できれば関わりたくないタイプの人間だったが、キーシャはひるむことなく言い返す。

「ええ。信仰は場に左右されるものではないです。お見受けするに、あなたも信仰の道を行くかた。それならば、わかっているでしょう?」

「わかってはいるが、これじゃあんまり身勝手じゃねえか? 呼びつけておいて、やっぱり帰れだなんて筋が通らねえ」

「理不尽ではあるでしょう。だが、ほかにどうすることができましょう?」

 キーシャの語調は反語的で、その直後に「いや、どうすることもできない」と続きそうであった。

 しかし、男は一歩も引かない。

「理不尽だと思うならば、行動にしねえと! 現実は変わらねえ」

「では、どうしろと?」

「決まってるだろ! 声をあげるんだ。ここにいるみんなで一致団結して抗議するんだ! きっと教皇もわかってくれる」

「なるほど。それはいいかもしれません。しかし、その声が聞き入れられなかったときは?」

 男は「そのときは……」と言いよどんだあと、勢い込んで言った。

「そのときは! 実力行使しかねえ……」

「――武力に訴えるのですか?」

 見透かすような声。

 そこにははっきりと侮蔑の色が込められていた。

「仕方ねえだろ! 幸いここにはたくさんの人がいる。武器商人だって協力してくれると言っている。大丈夫、うまくいく」

「力に訴えることを私は認めるわけにはいきません。むろん、それに協力することも――」

「これは暴力じゃねえ! 聖戦だ! 信仰のあり方を間違えた者どもに対するジハードだ!」

「そんな意味でジハードを使わないでください!」

 不意に声を張り上げ、厳しい口調で言うキーシャに対して修道士の男は驚きの表情を浮かべた。だが、やはり彼はじぶんの発言を訂正する気はないようだった。

「それじゃ、なんだっていうんだ。そもそも同じ信仰者を差別したのは壁の向こうの奴らだ! 神は、俺たちの戦いを認めてくださる」

「神はあらゆる暴力を認めていません!」

「暴力だとしても、もし仮に我らが行使するものが暴力だとしても……! 目的は手段を正当化するのだ」

 話し合いの余地はなかった。

 男のこの自信。決意。

 彼に同調する者が少なからずいるのだろう。

 いや、もしかするとほとんどがそうなのかもしれない。門の前にたむろしている理由もそれで一応は説明がつく。

「行こう、キーシャ」

 激昂して震える少女の肩に、ジハンは優しく右手を置いた。何度目だろうか。こうして彼女を慰めるのは……。

 今では、それがジハンの役目だと信ずることができる。

 しかし、彼女は優しくその手を払いのけて強い口調で言った。

「いえ、ジハンさん。もう少し私のワガママに付き合っていただけませんか?」

 ジハンはキーシャの意図がわからずに「ワガママ?」とオウム返しをした。

「そう。彼らの交渉がどうなるか見届けましょう。もしかすると、それで閉ざされた門が開け放たれることになるかもしれません。そのときは、私は自らの間違えを認めましょう」

 最後は、目の前の男に宣言するような調子になった。

「せいぜい見とくんだな。『敬虔な』シスターさんよ」

 男は言ったが、彼はあからさまにキーシャをあざけっていた。

「ええ、楽しみにしております」

 キーシャはなにかを予感した様子でつぶやく。

 それが、ジハンの脳裏をかすめた映像を一致していたかどうかはわからない。しかし、ジハンの予想は不幸にも的中してしまうことになった。

 そして、人びとは神の預言の意味を知る。


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