第99話 喰らう剣、拒む心
ザンギュラの咆哮が闘技場を震わせる。
黒い瘴気が渦を巻き、キラーは狂ったように暴れ続けていた。
「退けぇぇぇぇぇ!!」
振るわれた刃が地面を抉る。
轟音とともに石畳が砕け、無数の破片が観客席へと飛び散った。
「きゃあっ!」
避難していた人々から悲鳴が上がる。
ヴァルガスは声を張り上げた。
「走れ! 振り返るな!」
兵士たちも必死に観客を誘導する。
だが、その一角だけは間に合わなかった。
幼い子どもが転び、その場に立ち尽くしている。
その先へ。
弾き飛ばされたキラーが一直線に飛んでいく。
「危ない!」
誰かの叫びが響く。
ジークレッドも。
エクレールも。
エレノアも。
間に合わない。
ストーリアはシュテラスを構えたまま舌打ちした。
(届かない……!)
その瞬間だった。
一つの影が観客席から飛び出す。
ロゼリア。
迷いは、一瞬もなかった。
子どもを抱き寄せ、そのまま横へ突き飛ばす。
そして。
ガシッ。
キラーを、その手で掴んだ。
瞬間。
世界から音が消えた。
静寂。
聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
ドクン。
ドクン。
ドクン……。
やがて。
どこからともなく、一つの声が響く。
「ようやく……見つけた。」
ロゼリアの瞳が揺れる。
黒い刀身から、膨大な記憶が流れ込んできた。
燃え盛る大地。
天を覆う翼。
咆哮する竜。
剣を振るう無数の戦士たち。
その最前列に立つ、一人の男。
背中しか見えない。
それでも分かった。
(……アーサー)
胸の奥が熱くなる。
剣が囁く。
「お前だ。」
「お前が継げ。」
ロゼリアは静かに目を閉じた。
「……違う。」
小さく首を振る。
「今の私じゃない。」
その言葉とともに。
キラーの鼓動が、静かに収まっていく。
その一瞬だった。
「今だ。」
ダーレンが静かに踏み出す。
左腕が淡く蒼く輝く。
足元から白い霜が走り、闘技場全体へ広がっていく。
ストーリアの瞳が細められた。
(そこね。)
ヒュッ。
ニードルが走る。
首筋。
肩。
膝裏。
一瞬だけザンギュラの体勢が崩れる。
その僅かな隙を、ダーレンは逃さなかった。
「終わりだ。」
左腕を静かに掲げる。
次の瞬間。
轟ッ!!
吹き荒れる冷気がザンギュラを包み込む。
腕が。
足が。
胴が。
瞬く間に厚い氷へと閉ざされていく。
「ぐ……あぁぁぁぁぁ!!」
最後の咆哮を残し。
ザンギュラは半身を氷に封じられ、その場で動きを止めた。
闘技場に静寂が戻る。
荒い息遣いだけが響いていた。
ロゼリアはゆっくりとキラーを見つめる。
そしてジークレッドのもとへ歩み寄った。
「団長……」
自然と剣を差し出す。
ジークレッドと目が合う。
ほんの一瞬。
言葉はない。
だが、お互いに理解した。
これは。
まだ誰のものでもない。
ロゼリアは静かに頷き、向きを変える。
中央の台座へ歩み寄り、そっとキラーを戻した。
カシャン。
その瞬間。
闘技場を覆っていた重苦しい空気が、わずかに晴れていく。
氷の中で、ザンギュラが苦しそうに身をよじる。
「くっ……!」
「砕いて……やる……!」
全身に力を込めた、その時だった。
「やめておけ。」
ダーレンの静かな声が響く。
「今、お前の身体は冷却によって痛覚を抑えられている。」
ザンギュラが睨み返す。
「……何だと。」
「全身の骨折。
筋断裂。
内出血。」
淡々と告げる。
「その氷を砕けば、それらの痛みが一度に押し寄せる。」
沈黙。
「生き延びたいのなら、そのまま安静にしていろ。」
ザンギュラは歯を食いしばる。
初めて。
その瞳から狂気が消えていった。
闘技場に、ようやく安堵の空気が戻り始める。
その様子を見つめながら、ルシアはそっと息を吐いた。
腰のスレイヤーは、まだ微かに震えている。
そして、その視線の先。
ロゼリアは、いつも通りの落ち着きを取り戻していた。
何事もなかったかのように。
凛と立っている。
だが。
その右手だけは。
誰にも気付かれないほど、小さく震えていた。
その震えに気付いたのは。
ルシア、ただ一人だった。




