第98話 喰われた男
ダーレンとエクレールの激戦が終わり、闘技場には興奮と熱気が渦巻いていた。
誰もが、今見た戦いの余韻に浸っている。
だが、その空気を打ち砕くように──
ゴン。
鈍い音が響いた。
歓声が止まる。
観客たちの視線が、一斉に南側の通路へ向いた。
暗がりの奥。
そこに、一人の男が立っていた。
「……」
ざわめきが広がる。
「あいつ……」
「失格になった奴だ」
「ザンギュラ……」
最初の選定で、キラーに拒絶された男。
だが、その顔は試験を受けていた時とはまるで別人だった。
目は血走り、
首筋には黒い筋が浮かび、
肩で荒く息をしている。
まるで何日も眠っていない獣のようだった。
「納得……できねぇ……」
掠れた声。
一歩。
また一歩。
ザンギュラが中央へ向かって歩き始める。
「俺は触れたんだぞ……」
ドクン。
ロゼリアの胸が脈打つ。
「っ……!」
隣ではルシアも顔を歪めていた。
腰のスレイヤーが、小刻みに震えている。
「まずいですな」
エルドが立ち上がる。
「ええ」
リールーも険しい表情を浮かべた。
「完全に当てられているわ」
ザンギュラが叫ぶ。
「俺の方が強い!」
「俺の方が戦える!」
「俺の方が相応しい!」
その叫びに呼応するように、空気が重く沈んでいく。
黒い靄。
殺意。
欲望。
嫉妬。
憎悪。
あらゆる負の感情が、男の身体から滲み出していた。
そして。
ザンギュラの視線が止まる。
中央。
台座の上に置かれたキラー。
その瞬間だった。
「返せぇぇぇぇぇぇッ!!」
轟ッ!!
石畳を砕きながら突進する。
「止まれ!!」
ジークレッドが前へ出る。
だが、止まらない。
まるで理性そのものを置き去りにしたように。
エクレールが雷を纏い、飛び込んだ。
「邪魔よ!!」
轟雷。
青白い閃光がザンギュラを直撃する。
普通の人間なら、一撃で消し飛ぶ威力。
しかし。
吹き飛ばされたザンギュラは──
笑っていた。
「へへ……」
焦げた肉から煙が立ち上る。
それでも立ち上がる。
観客席から悲鳴が上がった。
「なんなんだ、あいつ……!」
今度はエレノアが飛び出す。
「通しません!」
鋭い斬撃。
足を払う。
肩を裂く。
関節を崩す。
それでも。
止まらない。
血を撒き散らしながら、一歩ずつ前へ進む。
「なっ……!?」
エレノアが息を呑んだ。
その時だった。
黒い影が走る。
仮面の女。
その刃が、一瞬だけザンギュラの首筋を掠めた。
動きがわずかに鈍る。
だが、それだけだった。
「喰われている」
誰にも届かないほど小さな声。
「もう遅いわね」
そして。
ついにザンギュラは台座へ辿り着く。
「やめろ!!」
ジークレッドの怒号が響く。
間に合わない。
ガシィッ!!
ザンギュラがキラーを掴んだ。
その瞬間。
闘技場全体が脈打つ。
ドクン。
空気が震える。
ドクン。
誰もが息を呑む。
ドクン。
恐怖が全身を駆け抜ける。
ロゼリアの脳裏に、あの日の感覚が蘇った。
「っ……!」
ルシアも胸を押さえる。
スレイヤーが激しく脈打っていた。
「うあぁぁぁぁぁッ!!」
ザンギュラが咆哮する。
「力だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
黒い瘴気が爆発した。
堰を切った濁流のように。
殺意が。
怨念が。
狂気が。
闘技場全体へと溢れ出していく。
観客席が凍りつく。
兵士たちでさえ足が竦んだ。
その時だった。
「全員避難だ!!」
ヴァルガスの怒号が響く。
その一声だけで空気が変わる。
「兵士は観客を守れ!」
「走れ!!」
兵たちは我に返り、一斉に動き出した。
観客の誘導が始まる。
ロゼリアも立ち上がる。
「エルド!」
「分かっております!」
ストーリアは弓を構えた。
(麻痺矢……それしかないかしら)
リフルは子供たちを避難させる。
誰もが動き出す。
だが。
ルシアだけは動けなかった。
腰のスレイヤーが震えている。
まるで。
キラーの声に応えるように。
「やめろ……」
額から汗が流れ落ちる。
その隣で、ロゼリアも唇を噛み締めた。
聞こえる。
あの剣の声が。
確かに。
「殺せ」
ザンギュラが嗤う。
キラーを握り締めながら。
その姿は、もはや人ではない。
災厄だった。
ジークレッドが大剣を構える。
エクレールの雷が迸る。
エレノアが剣を握り直す。
仮面の女は静かに距離を取る。
そして最後尾。
ダーレンだけは動かなかった。
アイスブルーの瞳で、静かにザンギュラを見つめている。
まるで。
何かを見極めるように。
「……なるほど」
小さな呟き。
誰にも聞こえない。
だが、その瞳はすでに答えへ辿り着いていた。
そして彼は、静かに一歩前へ出る。
これから始まる戦いの結末を。
ただ一人だけ理解したまま。




