第100話 黒の仮面
「――皆の者、静粛に」
ジークレッドの重厚な声が、闘技場へ響き渡る。
「この試験、とんだ邪魔が入ったが、予定通り続行する」
場内が静まり返った。
「ただし、舞台を整えるまで、しばし時間をいただく。三十分後、再開とする」
その言葉に、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
安堵する者。
先ほどの戦いを興奮気味に語り合う者。
治療を受ける者。
それぞれが、思い思いの時間を過ごし始めた。
ルシアは静かに腰へ手を添える。
スレイヤーは、まだ微かに震えていた。
(……落ち着け)
ゆっくりと息を整える。
やがて震えも収まり始めた。
その視線は、自然とロゼリアを追っていた。
彼女は何事もなかったかのように、皆と談笑している。
だが。
ルシアだけは見逃さなかった。
先ほどキラーを握った右手が、まだほんの僅かに震えていることを。
(……良かった)
(ロゼリアさん。二度目だったから、少し心配したよ)
誰にも気付かれぬよう、ルシアは小さく胸を撫で下ろした。
その頃。
ダーレンの周囲には、いつの間にか多くの女性が集まっていた。
「あの氷の魔法……素敵でした!」
「お名前を教えてください!」
口々に声が飛ぶ。
しかし当の本人は、
「いや……すまないが、失礼する」
ただ一言だけ残し、静かに人混みを抜けていく。
その素っ気ない態度が、かえって女性たちの歓声を大きくしていた。
「きゃー!」
「もっと好きになっちゃう!」
少し離れた場所で、その様子を眺めていたエクレールが肩をすくめる。
「ふふっ。あの堅物より人気があるのも当然ね」
ちらりと隣を見る。
ジークレッドは腕を組んだまま、何も言わない。
「……」
「相変わらずね」
エクレールは苦笑した。
その近くでは、エレノアがダーレンの戦いを振り返っていた。
「あの冷静さ……本当に勉強になるわ」
ストーリアも静かに頷く。
「技だけじゃない。状況判断も一級品ね」
そして。
誰にも気付かれぬまま。
黒仮面の女は、闘技場の隅で静かに姿を消していた。
ロゼリアだけが、その背中を目で追う。
(あの人……)
胸の奥に、小さな違和感だけが残った。
◇ ◇ ◇
三十分後。
修復を終えた闘技場に、再び静寂が戻る。
ジークレッドが中央へ歩み出た。
「それでは試験を再開する。次の者」
低く響く声が、闘技場を静かに包み込む。
カツ……
カツ……
カツ……
静寂の中に、硬質な足音だけが規則正しく響いた。
その音には、一切の迷いがない。
観客たちの視線が、一人の女へと集まる。
黒い仮面。
身体に無駄なく沿う黒装束。
腰に差しているのは、この大陸ではほとんど見かけることのない、緩やかな反りを持つ細身の刀だった。
その姿に、場内が小さくざわめく。
「あの武器……」
「剣じゃないのか?」
「見たことがないぞ……」
女はざわめきなど意にも介さず、ゆっくりと歩みを止めた。
ジークレッドが静かに問い掛ける。
「名を名乗れ」
仮面の奥から、澄み切った声だけが返る。
「……リズベル」
それだけだった。
姓も。
出身も。
何一つ語らない。
ジークレッドも、それ以上は追及しなかった。
「では……キラーへ触れよ」
リズベルは小さく頷き、中央の台座へ歩み寄る。
黒き刀身を見つめる。
その眼差しに宿るのは、
畏怖でも、
緊張でもない。
どこか懐かしさにも似た、静かな色だった。
(やっと……会えた)
誰にも聞こえないほど小さな心の声。
ゆっくりと右手を伸ばす。
そして。
そっとキラーの柄を握った。
ドクン。
刀身が一度だけ脈打つ。
その鼓動は、まるで長い眠りから目覚めた者が、小さく息をつくようだった。
だが、それ以上の異変は起きない。
瘴気も。
拒絶も。
暴走も。
何一つ。
まるで最初から、その手に収まることが決まっていたかのように。
静かに。
自然に。
キラーはリズベルの手へ収まった。
場内がどよめく。
「……また適合者か」
「いや……」
「エレノアとも違う」
誰かが息を呑む。
エレノアは、剣を受け止めた。
だが、この女は違う。
まるで、
剣の方が彼女を受け入れたように見えた。
ロゼリアの瞳が揺れる。
(この感覚……)
先ほど、自分が触れた時と似ている。
だが。
どこか決定的に違う。
ルシアもまた、無意識にスレイヤーへ手を添えていた。
刀身が微かに震える。
ジークレッドは静かに頷いた。
「……相手を選べ」
リズベルは迷うことなく顔を上げる。
その視線は、まっすぐジークレッドだけを見据えていた。
「ジークレッド殿」
一拍置き、
静かに告げる。
「貴方に、お相手願いたい」
ジークレッドの瞳が僅かに細まる。
「……承知した」
大剣を静かに構える。
対するリズベルも、腰の刀へそっと手を添えた。
その瞬間。
闘技場全体の空気が、再び張り詰める。
誰もが本能で理解した。
――今までとは違う。
この女は、本物だ。




