第96話 氷雷激突
「辞退する」
ダーレン・クレイルは、それだけを告げるとキラーから静かに手を離した。
闘技場がざわめく。
合格。
それは誰の目にも明らかだった。
にもかかわらず、彼は自ら試験を降りると言ったのだ。
「お、おい……」
「何考えてるんだ?」
「せっかく合格したのに……」
困惑の声が次々と上がる。
しかし当の本人は、そんな視線など意にも介さない。
まるで最初から答えが決まっていたかのように、そのまま踵を返そうとした。
その時だった。
「まあ、いいわ」
エクレールが楽しそうに笑った。
「キラーが要らないなら、それでも構わない」
一歩前へ出る。
蒼い瞳がダーレンを真っ直ぐ射抜いた。
「でもね」
「貴方の実力には興味があるのよ」
空気が変わる。
観客席のざわめきが静まり返る。
エクレールは隣に立つジークレッドへ視線を向けた。
「ねぇ、ジークレッド」
「そう思わない?」
「ああ」
短く。
重く。
「好きにしろ」
その一言で、闘技場が揺れた。
「おおおおおっ!!」
「マジかよ!」
「エクレール隊長が出るぞ!」
「面白くなってきた!!」
歓声が一気に爆発する。
ルシアも思わず身を乗り出した。
リフルなど今にも柵を飛び越えそうな勢いだ。
「ちょっとちょっと!」
「これは見たいわ!」
ストーリアも苦笑する。
「思った以上に話が大きくなったわね」
エルドだけは静かだった。
「観察する価値は十分ありますな」
一方、ダーレンはゆっくり振り返る。
「断ったら?」
「逃げたと思うだけ」
即答だった。
会場から笑いが起こる。
ダーレンは小さく息を吐く。
「……面倒な女だな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
エクレールは満足そうに笑った。
そして。
ダーレンが腰の剣へ手をかける。
静寂。
ゆっくりと引き抜かれたのは、極厚の氷刃。
フロスト・エッジ。
ザァァァァ……
その瞬間。
闘技場の空気が一変した。
白い吐息が立ち昇る。
石畳が音もなく凍り始め、観客席の手すりには霜が張る。
「寒っ……!」
ルシアが肩をすくめる。
「なによこれ……」
リフルが目を見開く。
「まだ何もしてないわよね?」
「魔力が漏れているだけでしょうな」
エルドが静かに答えた。
「それでこの規模ですか」
誰もが息を呑む。
これが絶対零度の武人。
ダーレン・アイスィ・クレイル。
一方。
エクレールも剣を抜いた。
バチッ。
青白い雷が刃を走る。
バチバチバチッ!!
大気が震える。
砂が浮き上がる。
熱を帯びた風が吹き抜けた。
氷と雷。
正反対の力が、真正面から向かい合う。
エクレールが笑う。
「それじゃ」
軽く肩を回し、剣先を向けた。
「少しだけ遊びましょうか」
次の瞬間。
ドォォォン!!
轟音が闘技場を揺るがした。
二人の姿が消える。
いや。
ルシアの目には、消えたようにしか見えなかった。
「なっ……!?」
何が起きたのか分からない。
ただ中央で、凄まじい衝撃だけが弾ける。
雷光が走る。
氷の結晶が舞う。
白と青の閃光が何度も交差し、そのたびに爆音が闘技場を震わせた。
ドガァァァン!!
衝撃波が観客席へ押し寄せる。
最前列の者たちは思わず身を引いた。
ロゼリアも目を細める。
(速い……)
速い、などという言葉では足りない。
剣技。
経験。
魔力。
身体能力。
その全てが極限まで磨き上げられた者同士の激突。
リールーが呆然と呟く。
「これが……」
「王国最高戦力……」
ストーリアも息を呑んだ。
「想像以上ね」
雷と氷が激しくぶつかり合う。
閃光。
爆音。
衝撃。
それでも。
ジークレッドだけは腕を組んだまま、一歩も動かなかった。
静かに戦場を見つめる。
そして、小さく呟く。
「まだだな」
「え?」
ルシアが聞き返す。
「二人とも」
その一言に、ルシアは息を呑んだ。
これほどの戦いですら。
まだ本気ではないというのか。
闘技場の熱気は最高潮に達していた。
その光景を。
黒装束の仮面の女だけが、静かに眺めていた。
雷。
氷。
王国最高峰の激突。
それを見てもなお、微動だにしない。
仮面の奥の瞳がわずかに細められる。
「なるほど……」
誰にも届かないほど小さな声。
「この時代にも、少しはいるのね」
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
やがて、二人は同時に距離を取る。
砕けた氷が舞い、雷の残光がゆっくりと消えていく。
「あなた、本当に強いわねぇ」
エクレールが心底楽しそうに笑った。
「ゾクゾクしたわ」
肩へ剣を担ぐ。
「ドラゴン討伐、ぜひお願いしたいわね」
「貴方なら楽勝でしょ?」
観客席から笑いが漏れる。
しかし、ダーレンは静かに首を横へ振った。
「いや」
その一言で空気が落ち着く。
「驚くのは私の方だ」
アイスブルーの瞳がエクレールへ向き、さらにジークレッドへ移る。
「私の剣と渡り合える腕前」
「王国騎士団にも、ここまでの実力者は数えるほどだろう」
淡々とした口調。
だからこそ、その言葉には重みがあった。
「それが二人も存在するとはな」
観客席がざわめく。
強者が認める強者。
それは何より雄弁だった。
ダーレンは静かに続ける。
「世界は広い」
「恐れ入った」
嫌味もない。
誇示もない。
ただ事実だけを述べている。
だからこそ、その言葉は真っ直ぐ観客の胸へ届いた。
「あら」
エクレールが観客席を見回す。
「思ったより人気あるじゃない」
その言葉に反応するように、あちこちから黄色い歓声が飛ぶ。
「ダーレン様ー!」
「素敵ー!」
「かっこいいー!」
「こっち向いてー!」
エクレールは隣のジークレッドをちらりと見る。
「あの堅物より人気が出るのは当然だもの」
ジークレッドの眉がぴくりと動く。
「……余計なお世話だ」
ぼそりと返すと、観客席から笑いが漏れた。
一方のダーレンは、何が起きているのか理解できていない。
しばらく真剣な表情で考え込み。
やがて静かに口を開いた。
「やめておけ」
観客席が静まる。
ダーレンは本気だった。
「私に近づくと」
一拍置き、真剣な眼差しのまま続ける。
「凍えるぞ」
静寂。
ダーレンは忠告しただけだった。
だが。
「きゃあああっ!」
「今の聞いた!?」
「聞いた!」
「素敵ー!」
歓声は、先ほどよりさらに大きくなる。
「……?」
ダーレンは小さく首を傾げた。
本当に意味が分からなかった。
その様子を見ていたエクレールは肩を震わせる。
「ふふっ……」
そして、ついに吹き出した。
「貴方、本当に面白い人ね」
ダーレンは最後まで、その意味を理解できなかった。




